02ten
Compile
地域・歴史・文化


満屋裕明
初めてエイズ治療薬を作った研究者


社会に貢献した偉大な人間かどうか判断するもののひとつに、賞というものがあります。
例えば、ノーベル賞は一般の人間も知っています。
ノーベル賞をもらうような人は、いわゆるすごい人なのだろうと私たちは考えます。
しかし、ノーベル賞には数学の部門はありません。
また、たとえじゅうぶんに功績があったとしても、賞の対象になりにくい分野もあります。
功績を確認するために、十分な期間を置く場合もあります。
もちろん、学会やその周辺ではその業績が高く評価されていることは確かですが、
一般の人間は全く知らないということは往々にあります。

芸能人のことに関しては、驚くほどたくさんの情報があります。
ニュースを広める人も受け取る人も、対象が人そのものだと、理解が容易だからかもしれません。
社会に貢献している人たちの業績は、理解がむつかしいことはままあります。
しかし、子どもの本にも偉人伝というジャンルがあるように、業績をじゅうぶんに理解できなくてもかまわないように思います。
その人がどのように生きているのか、どうやって困難に打ち勝ってきたのかくらいなら、私でも理解できます。
社会に貢献した偉人たちを少しでも知ろうとする気持ちさえあれば、芸能人に関してと同じくらい多くの情報が
世の中に出回ってくるように思います。

長崎出身、現在、熊本大学医学部教授の満屋裕明氏もまた、現代の偉人のひとりです。
この研究者の成果を知ると、私たちが受けた恩恵の大きさに驚きます。
彼は最初にエイズ治療薬を作り上げた人だからです。

満屋氏の業績についての本は、現在、『エイズ治療薬を発見した男 満屋裕明』(文春文庫)、
『世界史を変えた薬』講談社現代新書等があります。
ここでは、主に『世界史を変えた薬』の中の第11章 「エイズ治療薬 日本人が初めて創った抗HIV薬」からまとめました。
まず、AIDSに関して説明しますと、AIDSの原因はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)とされています。
現在では、1920年代にコンゴ民主共和国の首都キンシャサで現れたとされています。
しかし、一般的に知られるようになったのは、1981年から1982年のころです。
カリニ肺炎(現在では、ニューモシスチス肺炎と改称)の流行が報告され、
1982年には、AIDS(後天性免疫不全症候群)は、5大陸すべてで患者が発生しています。
日本では、1986年に日本国内のHIV感染が最初です。
HIVに汚染された血液製剤による、血友病患者の感染という深刻な問題も起こりました。
治療のために、非加熱輸入血液製剤を血友病患者は使用していましたが、
まさにその血液製剤がHIVに汚染されていたためです。
HIVに感染した割合は、国内血友病患者の約4割、1800人前後という大きな数字です。
エイズウイルスの発見に関しては、込み入った事情がありますが、ここでは簡単に
フランスのパスツール研究所リュック・モンタニエとアメリカ国立がん研究所のロバート・ギャロとしておきます。
満屋氏は1982年にアメリカ国立がん研究所に留学しました。
そこで、エイズ治療の研究に関わることになりました。
治療薬もまだない中、感染の危険性が高い研究に周囲は尻込みしますが、満屋氏は引き受けます。
同僚からは同じ実験室内でHIVを取り扱うことを拒否され、ギャロの研究室まで出向いて研究しました。
彼は実験技術に長けており、1985年、HIVの増殖を抑え込む化学物を発見します。
それがアジトチミジンと呼ばれるAZTです。
このAZT(アジトチミジン)は新薬申請からわずか1ヶ月で、アメリカ食品医薬品局により承認されます。
驚異的なそのスピードは、エイズの治療薬が、どんなに待ち焦がれていたかを示すものです。
1987年、日本で初めて開かれた国際エイズ治療会議で、満屋氏はAZTの成果報告をしました。
36歳の若さでした。
しかし、考えられないような状況が起きてしまいました。
化合物を提供していた英国の製薬企業、バローズ・ウェルカム社(現クラクソ・スミスクライン社)が氏に断りなく
特許を取得してしまったのです。
その上、AZTに法外な高値をつけたのでした。
企業の収益を第一に考えた結果ですが、薬が高価すぎて、多くのエイズ患者がAZTの恩恵にあずかることは不可能でした。
満屋氏が次に取った手段は、あまりにもまっとうなことでした。
新しい薬を再び発見する道を選び、よりよい薬を適切な価格で世に送り出すことを使命としたのです。
AZTの創薬の発想をさらに進め、彼はddI(ジデオキシイノシン)、ddC(ジデオキシシチジン)を発見し、
今回は特許を取得し、製薬企業と契約を交わし、AZTの5分の1ほどの価格で発売しました。
これらの薬のおかげで、エイズは完全に死に至る病というものではなくなりました。
その後、ddC(ジデオキシシチジン)は副作用があり、使用されなくなりましたが、
なんと満屋氏は4つ目の治療薬、ダルナビルも開発します。
この薬はプロテアーゼ阻害剤という種類の薬で、インディアナ州にあるパデュー大学のアラン・ゴーシュ教授との共同研究の成果です。
このダイナビルは「パテントプール」に参加した医薬第1号でもありました。
「パテントプール」とは、発展途上国の製薬会社が無料で特許使用を認められる仕組みです。
エイズという病気の原因であるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)は変異が早いため、薬剤に対しても非常に耐性を獲得しやすい性質をもっています。
そのため、現在ではエイズの治療法として、異なるタイプの薬剤を3種類同時に服用するカクテル投与法が使われています。
耐性ウイルスが生まれるを防ぎつつ、HIVを攻撃するというやりかたです。
エイズはこれらの薬によって、たしかに以前ほどの猛威はなくなりましたが、それでもまだまだ発症と感染者の勢いは消えません。
満屋氏は1990年に米国癌研究所から特別功労賞を、1992年にNIH 所長賞、 2014年読売国際協力賞、 2015年朝日賞、
学士院賞を受賞しています。