指宿市の橋牟礼川遺跡の重要性
指宿市十二町に、指宿市考古博物館があります。
「時遊館COCOはしむれ」とも呼ばれています。
考古博物館に隣接している橋牟礼川遺跡は、大正13年に国指定史跡に指定されました。
現在は、遺跡の約2ヘクタールが史跡公園として整備されています。
遺跡が発掘されたきっかけは、大正5年にさかのぼります。
帰省していた旧制中学生が、指宿市十二町丈六付近で2つの土器のかけらを見つけたことでした。
それから既に100年の月日が経過しました。
橋牟礼川遺跡が特に重要な遺跡である点は、2つあります。
1つは、現在では常識となった、縄文土器が弥生土器より古いという事実が立証された場所であることです。
大正時代の初めごろまで、縄文土器と弥生土器のどちらが古い時代のものかは判明されていませんでした。
作られた時代が違うというよりは、土器の違いは民俗の違いによるものだと考える学者が多く存在しました。
縄文土器はアイヌ式土器と呼ばれ、アイヌの祖先が作ったもの、弥生土器は大和民族が作ったものだと考えられていました。
大正5年に、指宿の西牟田盛健という旧制中学生が、橋牟礼川で土器のかけらを拾いました。
西牟田少年が通っていたのは、旧制志布志中学校で、彼は学校の先生の瀬ノ口伝九郎先生に拾った土器を見せました。
その後、土器のかけらのひとつは縄文土器(指宿式土器)、片方は弥生土器(山ノ口式土器)であることがわかりました。
翌年の大正6年に、山崎五十麿氏が現地を調査し、2つの土器が同じ場所で発見されたことを考古学雑誌に発表したことで
学会の関心を引くことになりました。
大正7年には、京都帝国大学の考古学者、浜田耕作博士が宮崎出張の際に指宿に立ち寄り、半日だけですが、発掘調査を行いました。
当時の、縄文(アイヌ式)土器と弥生土器の二種類を、時代の違いととらえるか、民俗の違いとするかという中で、
浜田博士は時代の違いだと考えていたため、この遺跡に興味があったためでした。
浜田博士は翌年の大正8年にも、再び指宿を訪れて、発掘調査を行いました、
発掘によって、1つの火山層を挟んで、上に弥生土器、下に縄文土器が発見されました。
その結果、浜田博士は、縄文土器と弥生土器では、時代が異なることを立証しました。
その後、大正13年に、橋牟礼川遺跡は国の指定史跡となりました。
橋牟礼川遺跡が重要であるのは、それだけではありません。
2つ目の重要性は、火山災害によって消失した集落が長い時を経て現れたことです。
大正時代において、橋牟礼川遺跡は火山災害の被害があった遺跡であることは推測されていました。
ただし、実証されたのは、昭和の末から始まった発掘調査によって発見されてからです。
まず、昭和61年から平成3年の発掘調査で、平安時代の指宿・橋牟礼川あたりの村が発掘され、その様子が明らかになりました。
貞観の大噴火によって火山灰の下に埋まってしまった集落跡です。
噴出物(紫コラ層)の下から出土されたのは、倒壊した平安時代の建物の跡や畑の跡で、驚くべき発見でした。
畠の跡には、畝跡、道跡、杭列が発見され、川が土石流で埋まっていたこともわかりました。
役所があったと思われる遺物も発見されています。
墨で文字や記号の書かれた土器や硯、小刀の役割をする刀子(とうす)、
平安時代の役人や貴族の冠位を表わす青銅製の丸鞘(まるとも)などがその遺物です。
『日本三代実録』にも記されている貞観の大噴火とは、
約1,100年前の貞観16年3月4日(西暦では874年3月25日)に開聞岳の大噴火を指します。
大宰府に報告された内容には、以下のことが記されています。
貞観16年3月4日の夜に開聞岳の頂から真っ赤な火が焼けたこと。
雷が轟き、夜通し、振動したこと。
噴火の音や地響きは100里以上離れたところでも聞こえたこと。明け方になっても天気は陰うつで、昼間も夜のように暗かったこと。
噴煙が天を覆い、灰や砂が雨のように降り、一日中止まず、1寸から5寸も積もったこと。
雨が降り、その雨に濡れた作物は枯れ、川の魚や亀が死んだこと。
死んだ魚を食べた者が病気になったり、死んだこと。
昭和末の発掘調査は、それ以降も続き、平成11年まで行われました。
その結果、貞観の大噴火で埋もれた平安時代の村だけでなく、古墳時代の集落跡も発見されました。
150軒ほどの建物跡で、古墳時代のものとしは南九州最大規模と考えられています。
土器の捨て場や貝塚も発見されています。
所有していた人の地位の高さを示す子持勾玉(こみちまがたま)や青銅製の鏡や鈴も出土し、これらが
南九州以外で作られたことから、他地域との活発な交流もうかがえます。
このような発掘結果から、大正13年の国指定史跡から、平成7年から25年度にかけて史跡範囲追加指定が行われました。
橋牟礼川遺跡で発見された集落は、貞観の大噴火があった西暦874年にあった集落と5~6世紀の大集落です。
一方、古代隼人と呼ばれる「隼人」が史実に登場するのは、西暦682年の記事です。
「ハヤト」あるいは「クマソ」という呼び名もあります。
古墳時代、近畿にはヤマト王権があり、南九州には隼人が存在したと考えられています。
ヤマト王権と隼人は、同盟を結んだり、主従関係という形から、その後は対立となり、
9世紀の初めまでは抗争があり、最終的に支配されていったことが判明しています。
つまり、橋牟礼川遺跡から出土した集落は、隼人やその子孫のムラということになり、隼人に関して探ることのできる遺跡とも言えます。
資料
鹿児島県立埋蔵文化財センター
かごしま考古学ガイダンス第45回 橋牟礼川遺跡
広報いぶすき2016年9月号・10月号
いぶすきまるごと博物館 123
指宿市考古博物館
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ここがすごい! 国指定史跡橋牟礼川遺跡
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