コガネセンガン誕生と生みの親、坂井健吉氏について
鹿児島を代表する農産物、サツマイモには、多くの品種があります。
その中でも、昭和41年(1966)に育成されたコガネセンガン(農林31号)は有名です。
「黄金色のイモがざくざく」に因んでコガネセンガンと名付けられました。
当時、九州農業試験場室長であった坂井健吉氏のもとで、育種が行われ、誕生しました。
従来の品種に比べ、収量で3割、でん粉含量は3~4%も高く、画期的な品種です。
肥えた畑のコガネセンガンは、1株で30キロ以上の収穫があります。
現在、コガネセンガンは焼酎用で有名ですが、元々は澱粉原料用として、高澱粉品種育成の結果、生まれました。
第二次世界大戦後の食糧難の時期が終息すると、青果用のサツマイモの需要は急速に減少しました。
昭和30年代、澱粉工業が進展します。
農林省は澱粉原料用サツマイモの生産を奨励し、サツマイモの品種改良の目標も、高澱粉品種の育成へと転換しました。
そのような時代背景のもと、コガネセンガンは誕生しました。
サツマイモの品種改良にはヘテロシス(雑種強勢)を利用します。
しかし、ヘテロシスはどんな品種間でも発現するわけではありません。
当時の日本のサツマイモの品種は近縁関係にあり、ヘテロシス効果はあまり期待できませんでした。
そこで、高澱粉品種の育成のために、国内外から1300の品種系統が収集されました。
品種改良では、まず遺伝的血縁関係が薄く、組み合わせ能力の高い品種間組み合わせを発見しなくてはいけません。
次に、近親交配によって可能な限り遺伝子の集積を図ります。
その後、品種同士を交配し、優良系統を選抜する作業になりますが、その際澱粉含量の検定を迅速かつ大量にこなす必要がありました。
坂井室長以下、12人の研究室メンバーの仕事はすさまじいものでした。
優良組み合わせの交配によって得た種子を、7ヘクタール、1500もの試験区に播きます。
その後、その実生1年目のイモを選抜していきます。
2年目からは、澱粉含量の検定が開始されます。
切干歩合で粗選し、澱粉歩合を精査していく作業を従来の4~5倍の能率でこなしていきました。
切干用の千切り機で指を削ることもありました。
昭和41年、このような努力が実り、コガネセンガンは育成されました。
チモール島の品種と日本在来の血が各4分の1、アメリカ品種の血が2分の1含まれるヘテロシス(雑種強勢)品種です。
高澱粉品種であるだけでなく、食味が非常によいため、焼酎原料用だけでなく、青果用としても普及しています。
育成後に、理論として、高澱粉品種であることが証明されました。
サツマイモは、葉で光合成された炭水化物が転流し、塊根中に澱粉が蓄積されます。
コガネセンガンは、蓄積される澱粉貯蔵細胞が比較的に小さく揃っており、澱粉蓄積量を増やすのに好適な細胞形態となっています。
細胞間隙への水分などの蓄積を最小限に止めることが可能となり、この特性が、高澱粉多収品種となりました。
また、コガネセンガンの「立型の草姿」が光合成能力を高め、高澱粉収量に寄与しているとも指摘されています。
コガネセンガンの育種が成功すると、それ以前の「農林2号」に替わって、作付が急速に普及しました。
昭和46年(1971)には、3万2000ヘクタールまで作付が増えました。(資料によっては、3万5000ヘクタール)
サツマイモ作付全面積の31%を占めています。
昭和49年(1973)から5年間は1万2000ヘクタール前後と減少しますが、これは、澱粉生産調整の影響です。
その後、澱粉原料用には、シロユタカ、シロサツマといった品種がが作付されるようになりました。
昭和56年(1981)以降は、いも焼酎需要の増加で、コガネセンガンの作付は増加に転じ、1万7000ヘクタールまで回復しました。
焼酎の原料にコガネセンガンを使用すると、甘く、コクのあるある美味しい焼酎ができるといわれています。
平成4年(1992)から現在は、主に焼酎原料用として8000ヘクタール前後(全作付面積の15%)栽培されています。
早堀青果用品種「黄金千貫」というサツマイモがあります。
これはコガネセンガンの青果用の商品名です。
登録時の長所として「早堀適性に優れる」「食味は農林2号並みで優れる」点が挙げられます。
早く掘っても澱粉歩留が高く、収量も良い上に味も良く、他のサツマイモより早い時期に
ホクホクして美味しいサツマイモが出荷可能な品種です。
「澱粉貯蔵細胞が比較的に小さく揃っている」ため、舌触りがなめらかで、さらにおいしく感じます。
コガネセンガンの生みの親の坂井健吉氏は、大正13年(1925)、三重県伊賀市の生まれです。
昭和19年に京都帝国大学に入学し、陸軍に入った後、終戦後復学。
育種学を修め、卒業後、昭和23年(1948)に農林省に入省。
農事試験場、農業改良局、農業技術研究所統計研究室を経て、
昭和28年(1953)、九州農業試験場甘藷育種研究室に転任しました。
昭和31年(1956)には、室長に任命されました。
ここで、戦前、戦後の九州農業試験場について統合・再編等の沿革を少し触れておきます。
昭和7年(1932)農林省農事試験場九州小麦試験地が発足。
昭和19年(1944)農林省農事試験場九州支場となる。
昭和25年(1950)九州農業試験場が発足。
昭和26年(1951)農林省農事改良実験所のうち、佐賀(水稲育種、稲小粒菌防除、ゆり育種)、
熊本(麦育種)、大分(ウンカ防止)、宮崎(麻類育種)、鹿児島(甘藷育種)を移管。
甘藷育種は作物第二部の所属となる。
昭和33年(1958)作物第二部鹿児島試験地(甘藷育種)を熊本に移転。
坂井氏が昭和28年(1953)に転任した、九州農業試験場甘藷育種研究室は鹿児島市紫原にありました。
そこは、以前は鹿児島県農業試験場紫原試験地でした。
昭和26年に農林省九州農業試験場に組織換えはされていましたが、建物等は鹿児島県の所有物であり、
試験地はすべて借地で、その上、地権者からは返還を要求されている状況でした。
紫原は台地で、雨水以外に水を使用できず、また、病害虫が蔓延している状態でした。
坂井氏が室長となった昭和31年からは、研究だけでなく、昭和33年の熊本への移転作業も重要な仕事でした。
坂井氏の育種の功績として、当時、経験と勘に頼っていた育種を統計的手法や統計遺伝学をもとに、
未経験者でも育種が可能にした点もあげることができます。
前任地の農業技術研究所統計研究室での経験を活かし、室長就任時に
「甘藷における遺伝的特性の解明と優良品種選抜法の開発」の研究テーマを掲げています。
昭和37年に「甘藷育種における主要形質の変異の向上に関する統計遺伝学的研究ならびに
高度変異体の選抜法に関する数理統計学的研究」で京都大学から農学博士を取得しました。
また、昭和33~41年(1958-1966)には共同研究「甘藷の自殖に関する研究」
「導入種利用による甘藷高でん粉遺伝子の集積に関する研究」などの農林省特別研究を
九州農業試験場(熊本と指宿)、京都大学、鹿児島大学、名古屋大学等と行いました。
坂井氏はコガネセンガンの他に、ベニワセ(農林23号)、サツマアカ(農林25号)、アリアケイモ(農林26号)を
九州農業試験で育成しました。
また農事試験場ではベニコマチ(農林33号)の育成にも関与しました。
農水省研究管理官、農技研所長、農業環境技術研究所長を歴任しました。
昭和59年に農林省を退職し、社団法人農林水産技術情報協会専務理事、同協会研究顧問を務めました。
著書に『さつまいも(ものと人間の文化史)』(法政大学出版)、『サツマイモのつくり方』(農山漁村文化協会)があります。
今なお後進の指導などに活躍中です。
平成25年10月13日、鹿児島県鹿屋市のフェスティバロ社農場は、坂井氏からサツマイモの生育の確認や種芋のアドバイス等を
受けました。
資料
公益社団法人 農林水産・食品産業技術振興協会HP
農業共済新聞 2009/09/13より転載 西尾敏彦
続・日本の「農」を拓いた先人たち
農業産業振興機構 HP
さつまいもでん粉人列伝
樽本勲
3.坂井健吉とコガネセンガン
南日本新聞
平成25年10月17日