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歴史・文化

かごしま黒豚の基礎をつくった男 園田兵助

鹿児島の黒豚は、全国的にも有名です。
しかし、その礎をを作った人物については、ほとんど知られていません。
鹿児島の子どもたちのほうが、この件に関しては詳しいかもしれません。
なぜなら、『郷土の偉人』という教材に、「かごしま黒豚の父 園田兵助」が紹介されているからです。
『郷土の偉人』は、鹿児島県が小中学生用に作成している副読本です。
それによりますと、
明治維新前夜に生まれた園田兵助は、獣医であるとともに、地元枕崎の人々の生活の方策を考えて養豚を勧め、
養豚組合を設置、全国に先駆けて種豚登録制度を確立した人物です。

園田兵助は、1864年(元治元年)に生まれ、1935年(昭和10年)に亡くなりました。
出生地は現在の枕崎市、当時の川辺郡東南方村枕崎です。
父、園田仲兵衛は藩馬役を務めており、兵助はその長男でした。
藩馬役とは、薩摩藩の兵馬の役に立てるためなどに、馬を管理、調教する仕事です。

1885年(明治18年)に、兵助は獣医師の免許を受け、獣医を開業しました。
兵助は獣医のかたわら、十数頭のホルスタイン種の乳牛を買い入れ、牛乳屋を始めています。
当時の牛乳は薬と同様の貴重品で、病人や母乳不足の赤ん坊には最適のものでした。
乳牛の飼育は、多くの人に栄養価の高い牛乳を広めるためでした。
当時、しばしば発生したコレラやチフスの感染症予防にも兵助は全力を注ぎました。
そのため、牛舎の衛生管理には非常に厳しい態度をとりました。

兵助が豚の飼育を人々に勧めたのは、枕崎の厳しい自然環境が背景にあります。
明治中期の頃の枕崎市は、狭い耕地と毎年の台風被害で農家の経済状態は深刻なものでした。
沿岸漁業を主な生業とする漁民の生活もまた、苦しいものでした。
枕崎に適した産業として兵助が養豚を考えたのは、豚の飼料としてサツマイモと魚類を活用できることが理由の一つです。
当時、鹿児島県もまた養豚の可能性に注目していたこともあります。
兵助が獣医のかたわら、人々に勧めたのは、もともと枕崎にいた豚ではなく、イギリスから輸入した黒豚です。
バークシャー種と呼ばれる黒豚は、イギリス原産で肉質、肉色とも良く、精肉に適しています。
兵助は、獣医として、鹿児島県とともに、バークシャー種のさらなる品種改良に積極的に協力しました。
どんなに上質の豚を育てても、販路が広がらなければ需要は増加しないと兵助は考え、養豚組合の設立にも中心となって尽力しました。
豚を飼うことを勧める時も、養豚組合の設立を勧める場合も、まずは農家を一軒一軒訪問し、説明して回りました。
無報酬で、日々養豚の有利性を説き勧めた兵助のおかげで、明治40年代には、枕崎全体で飼育されている豚は数百頭に達していました。
1907年(明治40年)無限責任・東南方村養豚信用購買販売利用組合が設立されました。
組合の設立によって、養豚業を営む家庭の生活も少しずつ安定していきました。
兵助は初代組合長となり、枕崎養豚の発展に貢献し、それが後のかごしま黒豚の基礎となっていきます。