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地域・歴史・文化


大崎町の永吉・天神段遺跡から弥生時代中期(約2100年前)の円形周溝墓を発掘

鹿児島県の大隅半島に位置する大崎町では、遺跡発掘調査が実施されています。
公益財団法人 鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センターが行なっています。
その目的は、東九州自動車道が建設されるにあたり、失われてしまう遺跡を調査し、記録に残し、
次代に受け継ぐことです。
平成26年度は、京の塚遺跡(西持留集落付近)、永吉天神段遺跡(档ヶ山集落)(まてがやましゅうらく)、
荒園遺跡(仮宿上集落)の発掘調査が行われました。

平成26年9月10日、埋蔵文化財調査センターは永吉天神段遺跡での発掘成果を発表しました。
弥生時代中期(約2100年前)の円形周溝墓をはじめとする集団墓や、葬式などの祭祀を行なったとみられる
掘立柱建物跡が発見されました。
朝日新聞デジタル(平成26年9月11日)によりますと、
集団墓は約20基で、3タイプ。
円形周溝墓の溝は直径約8mです。
この発表に関し、大崎町の広報おおさき(2014.10)では、詳しい特集を組んでいます。

広報おおさき(2014.10)によりますと、
平成25年度までの永吉天神段遺跡の調査で、弥生時代中期((約2100年~2000年前)の住宅跡が
多く発見されました。
集落が存在したことが、住居跡の発見により推測できます。
しかし、これまでの調査では、当時の、首長を中心とする広域的集団組織『クニ』の存在がいまだ不明でした。
その解明には、共同墓地である集団墓や副葬品が手掛かりとなります。
大隅地域でこれまで発見された弥生時代の集団墓は、京ノ峰遺跡(志布志市松山町)のみであり、解明が困難でした。
今回、円形周溝墓を含む集団墓が永吉天神段遺跡から発見されたことは、学問上、貴重なことでした。
集団内に身分差ができると、墓の形態にも格差が生じ、首長層は墳丘墓(ふんきゅうぼ)に葬られます。
円形周溝墓は墳丘墓のひとつです。
結果、首長を中心とする政治的秩序が存在したことがわかりました。

縄文時代は、住宅近くに穴を掘って直に埋葬し、
弥生時代には集落とは別のところに共同墓地(集団墓)を作るのが一般的です。
平成26年度の調査実施場所は、集落跡の西側にあたる区域です。
ひとつの遺跡の中に、住居空間の集落と、聖なる空間である墓域がある、珍しいタイプです。
永吉天神段遺跡では、集団墓が発見されたエリアと集落が立地するエリアとの間には、浅い谷が入り込んでいます。
つまり、自然の地形を使い、集落と墓域を区分したと推測されます。
集団墓は、遺跡の立地する台地の北側部分にあります。
円形周溝墓は、小高い場所にあり、東側にある集落を見渡すことができます。
円形周溝墓のある場所を頂点とした傾斜地に、集落とは逆の方向に集団墓が2つの列群で形成されています。
円形周溝墓は一基のみで、その他は、土坑墓(どこうぼ)と呼ばれる墓です。

円形周溝墓とは、墳丘墓(ふんきゅうぼ)のひとつです。
墳丘墓とは、集落内の身分の高い首長層が葬られた墓です。
弥生時代後期には規模の大きい墳丘墓が近畿地方や瀬戸内海沿岸で作られ、それが古墳となっていきます。
墳丘墓の作り方は次の通りです。
埋葬地の周りに幅約1~2mの溝を掘ります。
溝によって、溝の外と区分された埋葬地に、溝を掘った時の土を盛ります。
結果として、低い墳丘が形づくられます。
溝の形が上から見て円形のものを円形周溝墓と呼び、上から見て四角形のものを方形周溝墓と呼びます。
円形周溝墓は瀬戸内中部に出現しました。

土坑墓(どこうぼ)は、竪穴を掘った形をしています。
人が身体を伸ばした状態(普通に寝ている状態)で埋葬されるようにできています。
今回の調査で、横口式土坑墓(よこぐちしきどこうぼ)という形態の墓も発見されました。
竪穴を掘ったその壁側に、もうひとつ穴を掘り、その掘り込み部分に遺体を納めた墓です。
木棺を使用した痕跡がみられる墓もありました。
横口式土坑墓は、北部九州に確認されますが、県内での発見は初めてです。