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歴史・文化


出水、野田の感応寺

出水市、野田の感応寺は建久五年(1194)、栄西が創建した日本最初の禅寺のひとつです。
境内には島津家初代忠久、二代忠時、 三代久経、四代忠宗、五代貞久までの分骨された墓碑があります。
明治2年の廃仏毀釈で鹿児島の寺院は徹底的に破壊され、感応寺も例外ではありませんでした。
本尊、脇立四天王や雲山和尚像の掛け軸等の幾つかの絵画は甕に入れて隠されたことで難を逃れ、現存し、現在、鹿児島県重要文化財に指定されています。
当時の状況を考えると、奇跡的ともいえます。

由緒ある寺と言えば、京都、奈良と思いがちですが、鹿児島も古刹が多く、歴史的、美術史的にも非常に価値の高い仏像・仏画が存在しました。
ただ、非常に残念なことに、鹿児島県では、明治2年の廃仏毀釈が他県よりも非常に激しく、殆どの寺院が徹底的に破壊されてしまいました。
800年以上も前に、鹿児島に禅宗の寺が創設されたことは、現在、あまり知られていません。

鹿児島県出水市、野田の感応寺のHPによりますと、島津家始祖、惟宗忠久は鎌倉時代の初期、文治元年(1185) 島津庄の地頭職や薩摩、大隅、 日向の守護職になりました。
惟宗姓から島津庄の島津姓となり、家臣の本田親恒に命じて木牟礼(きのむれ)城を築かせ、 島津の三州支配の基礎を作りました。
建久五年(1194)、島津家の菩提寺として感応寺を創建しました。
従って、感応寺は島津家と非常に密接な関係のある寺であり、境内には島津家初代忠久、二代忠時、 三代久経、四代忠宗、五代貞久までの分骨された墓碑があります。
毎年7月17日には法要が営まれています。

栄西は、備中、現在の岡山の出身で、比叡山で修業したのち、中国に二度渡り、臨済禅を究めました。
その後、日本において禅宗を広め、九州に日本最初の禅寺を七か所創建しました。
感応寺もその一つです。
その後、栄西は鎌倉幕府の庇護を受け、鎌倉寿福寺、京都建仁寺を創建し、日本臨済宗の祖となりました。
また、当時の中国の宋より、茶の実を持ち帰り、日本に茶を広めたことでも有名です。
茶祖としても有名な栄西を偲び、感応寺では毎年、茶業関係者による献茶法要が行われています。

感応寺は禅宗の草分けのひとつではありましたが、創建時より約百数十年後、室町時代に島津五代貞久の時に、七堂伽藍九社十景の大禅堂が完成します。
中興の祖は、京都東福寺第二世圓鑑禅師から仏法の奥義を受け継いだ雲山和尚です。
肥前、現在の佐賀の高城寺より感応寺に入山しました。
雲山和尚が徳の高い僧であったことを伝える逸話があります。
島津五代貞久が上京し、 将軍足利尊氏に謁見した際、薩摩の人材を問われた時、 「感應寺に雲山あり」と貞久が答えています。
雲山和尚像の掛け軸(鹿児島県文化財指定)は年に1度だけ、花まつりの折に公開されています。

本尊の十一面千手観世音菩薩は鹿児島県重要文化財に指定されています。
平成元年に、京都国宝修理所美術院で修復され、その際に内部から「文安二年(1445) 院隆作」の銘が発見されました。
中央の仏師による丁寧な造りです。
脇立四天王(東方持国天王、西方広目天王、南方増長天王、北方多聞天王)は本尊と同様、に鹿児島県重要文化財に指定されています。
本尊と四天王は嘉吉二年(1442)仏殿火災により当初の千手観音を焼失、その後の勧進によって再建されたものであることがわかっています。
山門仁王像は出水市の文化財に指定されています。
寛延四年(1751)の建立で、右は阿(あ)型で金剛像、左は吽(うん)型で力士像です。

明治2年の廃仏毀釈の嵐により、感応寺も他の寺同様、廃寺の運命を辿りました。
梅嶺和尚は還俗しながらも道心を守り、本尊、脇立四天王や雲山和尚像の掛け軸等の幾つかの絵画は甕に入れて隠されたことで難を逃れ、現存しています。
当時の状況を考えると、奇跡的ともいえます。
その後、野田郷士の力添えもあり、明治13年に臨済宗相国寺末として再興されましたが、それでも廃仏毀釈の崩壊は大きく、多難でした。
昭和46年には本堂、昭和55年には鐘楼が再建され、また平成6年(1994)には創建八百年の記念事業として仏像・仏画の修復、書院庫裏の再建が行われました。