大久保利通と岡山
大久保利通が明治11年(1878年)5月14日に暗殺された地は、紀尾井坂、清水谷公園あたりだと言われています。
暗殺時、馬も御者も殺されましたが、青山墓地には、孤児だった御者の墓もあります。
岡山県倉敷市の五流尊瀧院は修験道の寺院ですが、そこに暗殺時の馬車が現存しています。
明治11年(1878年)5月14日に大久保利通は暗殺されました。
自宅があった三年町、現在の霞が関、文部科学省や財務省のあたりですが、そこから馬車で出かけ、現在の迎賓館あたりにあった赤坂仮皇居へ向かっていました。
現在の東京の地図で確認すると、霞が関、外堀通りから赤坂御門、日枝神社を通り過ぎ、弁慶橋を通ると、右側に清水谷公園があります。
左にホテルニューオータニを見て曲がると、そこは紀尾井坂です。
紀尾井町という町があり、紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷の名前に由来しています。
このあたりが、暗殺の地だと言われています。
千代田区観光協会HPによりますと、清水谷公園には、公園を入った正面に大久保の業績を称える「贈右大臣大久保公哀悼碑」があります。
石碑は千代田区の文化財に指定されています。
明治21年(1888)に完成した石碑は、高さ約6mにおよび、同僚たちによって建立され、表面の碑文は太政大臣三条実美の揮毫です。
暗殺時、馬も御者も殺されました。
御者、中村太郎は孤児で、その名前も大久保利通が付け、従僕にしたと言われています。
大久保家の墓のある青山墓地に、御者の墓、そして馬の墓もあります。
没後100年の昭和54年に、鹿児島市に大久保利通の像が建立されました。
製作者は、彫刻家の中村晋也さんです。
大久保利通がこの世の最後に座っていた馬車は、現存しています。
岡山県倉敷市林に所在する修験道の寺院、五流尊瀧院にあります。
五流尊瀧院は、修験道の祖と言われる役小角(役行者)の高弟の一人が大宝元年(701年)に建立しました。
馬車は、大久保家より永代供養のため奉納され、本殿と棟続きの五流会館に安置されています。