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歴史・文化


明治4〜6年にかけての東京の西郷隆盛屋敷

中央区日本橋小網町と蛎殻町の境は、江戸時代は姫路藩十五万石の藩主、酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷でした。
明治維新後、鹿児島に戻った西郷隆盛が再び上京した際に住居としたのが、この屋敷の一部でした。現在は日本橋小学校となっています。

東京都中央区教育委員会によりますと、現在、東京都中央区日本橋人形町1丁目にある日本橋小学校は、明治4年から6年まで西郷隆盛の屋敷だった場所です。
この地(中央区日本橋小網町と蛎殻町の境)は、江戸時代、掘割で、その河岸の端に稲荷神社がありました。
この堀を利用し、各種の荷物が船で運ばれました。
多くの問屋で賑わい、特に瀬戸物問屋が多くあったようです。
堀の出入口にあった行徳河岸は、その名の通り、千葉(下総)の行徳村とを結ぶ水路でした。
行徳からは塩が江戸に入り、また、下総に行く人を運ぶ船が出入りする賑やかなところでした。
掘にそって、姫路藩十五万石の藩主である、酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷が幕末までありました。
明治維新後、その酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷の一部が西郷隆盛の住居となりました。
鹿児島にいったん帰った西郷隆盛は、出仕要請にようやく応じて、明治4年(1871)に上京し、約2年間、この屋敷に住んだようです。
その地が、現在の中央区立日本橋小学校です。
日本橋小学校は統合してできた学校で、もともとは、東華小学校の跡地です。
東華小学校の校名は「とうか」と読みますが、稲荷神社の稲荷を音読みで「とうか」とか「とうかん」と読んで、堀をとうかん堀と呼んだと伝えたところから付けられました。
平成2年に中央区立十思小学校と中央区立東華小学校が統合しました。
十思小学校もまた、歴史のある場所です。
ここは伝馬町牢屋敷があった場所で、江戸時代、全国最大の牢屋でした。
吉田松陰が安政6年(1859)に処刑された場所として知られています。