花の名を持った女性、丹下梅(ウメ)
鹿児島の若者にぜひその名を憶えていてほしい
鹿児島のデパート、山形屋本館脇にひとりの女性の胸像があります。
静かに微笑んでいるその人、丹下ウメは1873年(明治6年)に胸像の地、金生(きんせい)町で生まれました。
明治新政府で要職にあった西郷隆盛が、鹿児島に下野した年でもあります。
彼女は鹿児島が誇る、日本の女性科学者の先駆者です。
女性で初めて帝国大学に入学した3人うちのひとりでもあります。
丹下ウメは2つの学位をとっています。
アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学では医学科公衆衛生の研究で博士号を取得、
日本ではビタミンB2複合体の研究で東京大学から農学博士を授与されました。
その功績だけを見れば、まさにエリートそのものに見えますが、彼女の人生をたどれば、決して楽な人生を送ったわけではありません。
1955年(昭和30年)にこの世を去った彼女については、
『白梅のように―科学者丹下ウメの軌跡』(化学工業日報社 蟻川芳子/宮崎あかね共著)、
あるいは、理化学研究所HPのビデオライブラリー、
『女性科学者のパイオニアたち 6 道もなき道ふみ分けて 丹下ウメ』でその生涯と実績を知ることができます。
この2つの出典より、丹下ウメの生涯を紹介します。
丹下ウメは、明治6年に出生、4人の兄、2人の姉、1人の妹がいます。
実家は代々島津藩主に仕えた家柄で、明治維新後、父は砂糖事業、塩田業を営み、町長でもありました。
ウメ3歳の時、怪我がもとで、右目を失明します。
後に、化学者として実験をこなす際、彼女にハンディはなかったのかと疑問を感じることがありました。
伝記等にはあえてそこに触れていませんが、両眼の視力があった人ではありません。
彼女の仕事ぶりからは、右目を失明しているということを感じることはありませんが、
実験を伴う学問において克服しなければならない課題も多かったにちがいありません。
彼女は実験助手のころも、実験の正確さと手際の良さが高く評価されています。
ウメは成長の過程で多大な努力によって、すでにそのハンディを克服していた可能性はあります。
しかしながら、彼女の生涯に「片輪者」という烙印が押されていたことは確かです。
ハンディを克服した上で、別の次元の学問上の試練に挑んだ彼女の強さ、素晴らしさを感じます。
ウメは鹿児島市の尋常小学校を卒業後、すぐに鹿児島県立師範学校に入学します。
卒業後2、3年勉強してから受験するのが一般的だったようで、彼女の能力の高さを示すものです。
師範学校卒業後、小学校教員になり、18歳から10年間教職に就いています。
小学校のみならず、女子技芸学校の教師、学校の事務会計までも担当しました。
一方で、裕福だった実家が衰退していき、ウメには、家のこと、彼女自身の将来にも不安がありました。
親戚にあたる前田正名が、明治政府の役人を引退し、全国を遊説中に鹿児島を訪れていたため、彼女は相談を決意します。
前田は彼女の優秀さと向学心を知ると、友人の成瀬仁蔵が創立したばかりの日本女子大学校を紹介してくれました。
その結果、自然科学専攻である家政学部をに28歳で入学することになります。
当時、自然科学の教育が女性に対して行われたのは、女子高等師範学校と日本女子大学校のみでした。
成瀬仁蔵と前田正名は、学費に関しても配慮し、彼女を寮の舎監にすることで解決しました。
翌年には、ウメ同様、非常に優秀であった姉の丹下花(ハナ)も国文科に入学します。
ウメは学生生活において、他の学生より10歳以上も年上であり、異質に見られる点も多々あったにちがいありません。
しかし、彼女は努力家で研究心が旺盛でした。
中でも、東京帝国大学教授でもある長井長義教授の応用科学の授業は、丹下ウメは実験を含め、全身全霊で取り組みました。
長井教授は明治政府の第1回留学生であり、日本薬学の父とも呼ばれ、女子の教育に関しても、非常に熱心でした。
丹下ウメは優秀な成績で卒業後、恩師であった長井教授の助手のひとりとなり、教授の講義の実験助手も務めます。
期間は出典から推測すると、約8年かと思われます。
その後、長井教授に勧められ、化学中等教員検定試験を受験し、合格しました。
恩師の長井教授には、ウメにこの試験を勧めた思惑がありました。
明治19年(1886)に公布された帝国大学令に、女性の入学を禁じた言葉はありません。
しかし、入学資格は高等学校卒業生のみに限定されており、当時の高等学校は男子のみでした。
現実は、男子にしか門戸を開放していなかったのです。
しかし、東北帝国大学理科大学は、規則を変更し、高等師範学校と高等工業学校の卒業生、または中等教員検定試験に
合格した者に受験資格を与えました。
この結果、女子高等師範学校を卒業した化学専攻の黒田チカ、数学専攻の牧田らく、そして中等教員検定試験合格者の
丹下ウメの3人が受験に合格し、入学を許されたのでした。
当時は文部省ですら、女性の大学入学に批判的でした。
ただ、入学した女性たちの優秀さに、最初は差別した男子学生も不承不承ながら認めざるをえなくなっていきました。
東北大学でもウメは勉学に励み、郷里の島津忠重公より奨学金も授与されています。
大正7年(1918)年に最優秀の成績で卒業し、理学士の称号を得ています。
このとき、彼女は45歳でした。
日本女子大学校や東北帝国大学時代は彼女が学問で研鑽を積んだ幸せな時代といえますが、
一方で、実家は傾き、父親と母親を、そして数学者として優秀な兄を亡くした、辛い時期でもありました。
東北帝国大学を卒業後、ウメは大学院に進学し、有機化学と生物化学を専攻します。
東北帝国大学の助手時代に、ウメは再び前田正名に相談します。
つまり、鹿児島の教職時代同様、彼女に大きな目的があったことがわかります。
彼女の希望は、専門分野の有機化学と生物化学を応用した栄養学を研究することでした。
しかし、当時の栄養学は海外に行くことが必須でした。
この難問を、前田は再び解決してくれたのです。
欧米における理科教育及び児童の栄養に関する社会施設の調査の目的で、文部省・内務省の任命で海外派遣が認められました。
また、母校の日本女子大学校からも、食品に関する化学研究等の目的が認められました。
大正10年(1921)5月、彼女は海外留学への一歩を踏み出したのです。
スタンフォード大学、コロンビア大学、そしてジョンズ・ホプキンス大学でウメは研究を続けました。
昭和2年(1927)、ジョンズ・ホプキンス大学でPh.D(日本の理学博士)の学位を授与されました。
その後、大学院を修了し、シンシナティー大学で研究を続け、昭和4年(1929)に帰国したのです。
残念ながら、恩師の長井長義も前田正名もすでに逝去していました。
帰国後、ウメは日本女子大学校の生物化学教授に就任します。
昭和5年(1930)には、理化学研究所の嘱託として、鈴木梅太郎の研究室に入ります。
日本女子大学校と理化学研究所鈴木研究室でのウメの研究は続き、26もの論文を発表しています。
昭和15年(1940)、「ビタミンB2複合体の研究」により、に東京帝国大学より農学博士の学位を授与されました。
彼女は67歳でした。
ウメにとって大切な姉、ハナは結婚し東京で教職についていましたが、夫の死後、鹿児島に帰郷していました。
昭和19年(1944)6月の鹿児島の大空襲で、ハナは亡くなりました。
ウメにとって何よりもつらいことでした。
戦後の昭和26年(1951)、ウメは日本女子大学を退官し、昭和30年(1955)に世を去りました。
丹下ウメという人を、鹿児島出身の化学者として名を成した人としか、私は知りませんでした。
彼女に関しての文献は、先に掲げたものです。
明治維新から約150年が過ぎ、ウメが生きた時代が昔のようにも思えます。
しかし、科学者の丹下ウメの人生から、特に女性が教えてもらうことはたくさんあります。
新鮮なのは、地道な努力を続けると同時に、自分が迷ったとき、果敢に道を切り開く行動をしていることです。
彼女は、ひとりで悩み、あきらめるのではなく、相談する価値のある人に頼ってもいます。
昔の人が、特に女性がそういうことをしそうにもないと、現代に生きるこちらが勝手に思い込んでしまっていたようです。
制約が以前に比べたらかなり緩くなっている時代にもかかわらず、行き詰った時、「もう遅い」「もうやれない」と
言い訳だけは自分に許しているのが、少なくとも私の実情です。
丹下ウメが10年の教職後、日本女子大学校に入学したのは28歳、助手時代の後、東北帝国大学に入学したのは41歳の時でした。
ただ、自分の人生設計だけをがむしゃらに主張するというのでもありません。
日本女子大学校を卒業し、助手として研究を続け、化学中等教員検定試験が女性にも門戸を開放したことを
恩師から伝えられ、受験を勧められると挑戦しています。
合格した結果が、のち、帝国大学受験資格にもなっていくのすが、先に人生を設計していたのではありません。
諦めずに研究を続ける底力と道を切り開いていく力がふたつあいまっているところが、彼女の能力とともに忘れてはいけない点のように思います。
明治生まれのひとりの鹿児島の女性が、さまざまな障害を乗り越え、化学者の道を全うしました。
丹下ウメという女性の生涯を知るだけでなく、自分自身の成長に関連付けてもらえればと思います。