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豊留アサ、女学校校長として農村教育に生涯をささげた女性

1880(明治13年)〜1938(昭和13年)
明治13年、鹿児島の加治木生まれの豊留アサは、日本で最初の女学校校長です。
鹿児島県の女学校ではなく、吉川氏の本拠地である広島県の新庄という地に明治42年に赴任しました。
豊留アサの母校、日本女子大学の創立者、成瀬仁蔵の要請にこたえたのがきっかけでした。
30年間、豊留アサが女子教育に人生をかけた学校は100年以上も続き、現在の広島新庄学園です。

広島新庄学園記念誌より
1909(明治42)年、4月、日本女子大学を卒業したばかりの28歳の若い女性が、広島の新庄女学校の校長に就任しました。
春といっても、広島の山間部はまだ小雪が降るような寒さだったようです。
人力車に乗って着任したうら若い女性は、広島とは無縁の鹿児島の出身でした。
歓迎の宴席において彼女は「この豊留アサは今日から新庄で生まれたと思ってください。
そして有志の一人と思ってください。
それから命がけでやりましょう」と述べ、女学校設立に尽力した人々を感激させたといいます。
女子生徒わずか28名でスタートした小さな女学校は、その後100年以上も続き、広島新庄学園として現在に至っています。
豊留アサを初めとして、誰も想像できなかったことに違いありません。

新任時の挨拶を違えず、豊留アサは情熱をもって約30年、学校経営に取り組み、59歳の生涯を現役のまま終えました。
彼女の指導の特色は、日本女子大学の創立者成瀬仁蔵の教えにならったもので、女性が人として自立し活動することを目指しました。
また、農村に生まれた女学校ならではの、質実剛健な生活を基盤とし、女性を育てようとしました。
教育の特徴のひとつは、自主独立の寮生活で、彼女が体験した日本女子大学の寮を念頭においたものでした。
彼女自身も女生徒たちと共に寮に寝泊まりし、ご飯の炊き方から指導したといいます。
農村で堅実に生きることを念頭に置いた寮生活は、炊事、掃除などの家庭生活だけでなく、農業、養豚、養鶏、養兎、蚕糸と多岐に渡るものでした。
雛祭り、お花見、お月見といった、女性らしい風雅な趣も、もちろん忘れることはありませんでした。
女生徒たちは、豊留アサの強さと優しさのもとで、堅実に育ち、「信念徹底」「自発創生」「共同奉仕」という成瀬仁蔵の教えは、広島の山間部において花開いていったのです。

女学校が開設された新庄は、中世は安芸吉川氏の本拠地として、さらに戦国末期からは毛利元就の次男元春公が治めた土地です。
文化の地として栄えましたが、江戸時代に吉川氏が岩国に移されたことにより一山村へと変わりはて、明治時代もかつての文化の面影は消えつつありました。
明治41年、政府より吉川元春公に正三位追贈が行われ、村にとってのターニングポイントになりました。
村民たちは吉川公への顕彰を喜び、農村の復興への強い思いを持つ人々は何らかの記念事業を計画しました。
村や近隣の有力者たち35人が同士となり、資金を持ち寄り、新庄女学校設立への道を作っていったのでした。
誰に頼るのではなく、自分たちの意志と資金で作り上げた学校でした。
寒村に女学校設立など荒唐無稽と思われるスタートであり、苦難の道でもありました。

豊留アサは明治13年、鹿児島、加治木に生まれました。
その数年前の明治10年、明治維新後鹿児島と改名された薩摩では西南の役が起きています。
同郷の男たちが敵味方となり、戦い、死に、鹿児島は平穏な状況ではなかったと推測されます。
直接戦わなかったとはいえ、女性たちも人生が大きく変わりました。
結婚したばかりの若い女性が取り残され、大きな社会問題のひとつとなりました。
県は未亡人の再教育のため、大塩平八郎の娘でその当時、延岡に滞在していた関月尼に要請し、未亡人たちに二年間の技芸教育を行っています。
しばらく豊留アサの年譜を追ってみましょう。
明治20年、柁城(かじき)尋常高等小学校入学。
幼い頃から優秀な生徒であったようです。
明治29年鹿児島師範学校入学、明治32年卒業。
卒業後、7年間、加治木近辺の尋常小学校数校に奉職します。
師範学校の頃に彼女は心臓病を患い、尋常小学校での教師時代は病弱の体に苦しみました。
明治39年、上京し、日本女子大学国文科に入学します。
日本女子大学創立者、成瀬仁蔵の「女子を先ず人として、第二に婦人として、第三に国民として、教育する。この順序を間違えてはならない」(『女子教育』)とういう思想は、病弱であるにもかかわらず、日本女子大学へ彼女を駆り立てたと思われます。
教職生活も経験してきた彼女は、現在で言えば社会人入学に近く、妹のような年齢の他の学生よりも、高等教育の学問の場に立ち会う意味を骨身に沁みて感じていたと思われます。
それが、後の行動にもつながっていくように思われます。
明治42年 日本女子大学卒業。
成瀬仁蔵が講義の後に、山村の地に設立される女学校に骨を埋める覚悟のある人はいないかと女子学生に尋ねたことが、豊留アサが広島に赴任するきっかけとなりました。
その場で手をあげ、成瀬に応えたのは、彼女ひとりでした。
成瀬は、日本女子大学を開校する前には、大阪の梅花女学校(現在の梅花女子大学)の主任教師を務め、新潟では新潟女学校を興し、女子教育に尽力してきました。
教育の上での男女平等を説き、女子教育の方針を示した成瀬の生き方が、彼女の心を捉えたに違いありません。

もうひとり、豊留アサには、重要な恩師がいます。
柁城(かじき)尋常高等小学校時代からの師である谷山初七郎がその人です。
日本女子大学への道筋を作ったのも、氏の尽力でした。
大正13年に、新庄女学校と中学校は新庄学園となりました。
東京第一高等学校生徒監を退職した氏は豊留アサに懇請され、大正15年に新庄学園初代学園長となっています。

新庄女学校が中学校を併設して新庄学園になったころ、昭和の恐慌が日本を襲います。
都会の学校ですら経営が大変になったのですから、山間部の学校が経営的にも苦しかったのは言うまでもありません。
創立当時から学校を支えてきた人々が経済的に破綻し、学校経営維持に協力できなくなり、意見が相違してきます。
悪意からではないにしろ、学校を支えていた人々の関係が崩れ始めていました。
大切な恩師ふたりは、すでにこの世にはなく、生まれ故郷でもない地で30年間ものあいだ、教育者としての人生を生きた彼女の苦労が偲ばれます。

新庄学園の記念誌等に残る写真を見る限り、豊留アサは立派な体格の女性のようです。
意志の強そうな眼差しが印象的で、目力があるのが鹿児島の女性らしく思われます。
豊留アサという女性は、凛とした態度と、それでいて子どものような笑い声と笑顔を持つ人でした。
彼女は、半ば引退しても、最後まで新庄学園で「豊留先生」として生き続けました。
かなり体調を悪くしていても、医者には行かなかったようです。
ただ、中国山地の冬は厳しく、弱っていた体にはこたえました。
昭和13年、豊留アサは新学期が始まるまで、暖かい鹿児島に静養を兼ねて帰郷しました。
「入学式には戻ります」との言葉を、生徒たちは信じて見送りましたが、それが彼女との最後の別れになりました。
彼女は実家に帰るとすぐに床についてしまい、起き上がることはありませんでした。
彼女が亡くなったのは3月4日、鹿児島は暖かな春の日差しが降り注ぎ、奇しくも尊敬した成瀬仁蔵の命日でもありました。
豊留アサの生まれ故郷である鹿児島でも、彼女の名前を知っている人は、少ないにちがいありません。
彼女は自分が必要とされている場所に行き、広島の山間部で、教育者としての使命を、全うしました。
27歳の女性の大胆な決断力、情熱を感じずにはいられません。