奇妙な店
2002/11
幼い頃の思い出があります。
玄関先で、薬屋のおじさんと祖母が話しているのを、見ていた憶えがあります。
あのおじさんが「富山の薬売り」だと思いこんでいましたが、本当はどうだったのでしょう。
わかりません。
おじさんは、薬箱を点検して、使った分を補充します。
祖母がお代を払い、よもやま話になるころには、おじさんは、子どもたちにもおみやげをくれました。
とても嬉しかったものです。
しかし、実を言うと、もらったおみやげよりも面白かったのは別のものでした。
おじさんが大きな鞄から次々と出して、玄関先で広げた小さな店が、何より魅力的でした。
「奇妙な店」というのは、何の店と限定できないからです。
小さな町がありました。
そこに一軒、変わった店があります。
ハンカチの店、文房具の店、靴下の店、乾物屋さん。
小さな町のこれまた小さな店に、一年に一回あるいは数回、品ぞろえをして、売れるのでしょうか?
だれもが最初はそう思っていました。
店を出す側は、東京や別の場所にきちんと店をかまえています。
デパートにも出ています。
しかし、肩書きが通用しない場所で一度認められると、自分たちの商品が本当に買う人たちに喜ばれていることを実感します。
やはり良いものは良いのです。
町の人も、良いものに触れる機会が多いせいか、目が肥えています。
なによりも、テレビで、これはお勧めと連呼しているのを、ぼんやりと眺めるのとはちがいます。
東京にしかない、と言われて、テレビの画面越しにきれいな店を確認するのは、何の意味もありません。
実際に触って、一つ買ってみて、使ってよかったから、次にお店が来たときは、もう一つ買ってみる。
そんな積み重ねが、町の人々に、落ち着きと自信を与えているのかもしれません。
買い物が暇つぶしではなく、あるいはストレス発散でもなく、純粋に楽しみなのです。
たとえ、自分が買わなくても、いいものは他の人にお勧めします。
旅行客が立ち寄ってその店で買い物をするのは、ホテルのスタッフや、駐車場のおじさんに紹介されたからです。
特産品でもない品を勧めるなんて、変な人たちだなと、旅行客は最初は不思議に思います。
しかし、大都市の繁華街でもないこんな小さな町で、気に入ったものを見つけた人はとてもうれしい気持ちになり、なぜかその町にまた立ち寄ります。
今度は何に出会えるだろうかと。
デパートの催事場とちがい、町の店は、不思議なところで開かれます。
ひとり暮らしのおうちが選ばれます。
玄関のそばのひと部屋を借り、町の人が店を作ります。
玄関も少し細工します。
最初は試行錯誤で作っていましたが、納得のいくものになりません。
「こういうものはどうですか?」
旅に来ていた建築家志望の大学生が、デザインを考えて、「店作りキット」を作ってくれました。
毎回壊して捨てることがないので、なかなか落ち着いた店構えになります。
この町が少しずつ知られるようになると、建築科の学生たちが、町にくるようになりました。
町の人たちは彼らをただで泊めてくれますが、彼らの頭脳や知識をお代にさせてもらっています。
肉体労働に、町の中学生は、よく頼まれます。
町の中学生は、頼まれると、うんざりします。
しかし、断れません。
元気で力があるのは中学生です。
当人たちもわかっています。
そのくらい、小さな町には人が少ないのです。
高校生になると、もうやりません。
それだから、中学生もやる気になるのです。
高校が町にないので、高校になると皆、町を出て行きます。
店の手伝いをしなくてもいいので、やれやれと言う気持ちは高校生にはあります。
重労働であることは確かなのですから。
ただ、店づくりが好きな子は、夏休みに手伝います。
建築科に進んだり、店に来た人の会社に勤めた子もいました。
目の前で見たものは、子どもの心に深くとどまるものです。
やってくる店は日本ばかりではありません。
アジアからもヨーロッパからも来ます。
東京を跳び越して、こんな小さな町で販売するので、ときどき、東京の人が町にやってきます。
いい町ですね、こんなところで暮らせたら。
そんなことをすぐ口にする都会の人に、町の人は頷きますが、心の中では「そうかなあ」と言ってみたりもします。
小さな町の人も、色々と忙しいのです。