Idea
02ten

シェア・キッチン
2001/6
台所と云うのは、ひとつの家、現在の核家族の単位にとどまる必要はない、そんな風に私が考えるようになったのは、いつだったろうか。
近頃の若い人は包丁すらもっていない、まな板がないと、テレビや新聞でしたり顔にいう人々に、どこか嫌悪感を感じたころだろうか。

江戸という場所は、働く男が多く集まる場所だったという。
女は極端に少なく、だから、いわゆるファーストフードが発達した。
家は寝る場所であり、家で食べるとは限らなかった。
屋台をはじめ、食べる場所がたくさんあった。
大都市はもともとそんな側面を持っている。

話が飛ぶように思われるかもしれないが、今の世の中、老人に周りの人間が台所仕事をさせたがらないのは、火事ややけどなどの事故が増えたからだ。
もちろん、高齢者自身が、もう食事の支度をしたくないからだという側面もある。
ただ、少々年取った人から、これまで当たり前のようにしてきた生活を取り上げることに、わたしはどこか、違和感を感じる。
毎日義務のように食事の支度をするのは、「もうごめん」かもしれない。
でも、「作りたい」と思う時でも作れないのは、残念だ。

じゃあどうすればいいのだろう。

だれかが見ていればいい。
火がついていますよ。
もう消しておきましょうか。
水気がなくなってきましたよ。
そういってくれる人が居ればいい。
1つだけ重要なことは、そう注意してくれる人が、お嫁さん、娘さんでなくていい、ということ。

以前の日本に存在した学生下宿には、共同の台所があった。
共同だから、台所は広かった。
住人が全員、台所に立ったら混雑するが、そんなことはほとんどない。
ワンルームマンションでなくても、こじんまりした部屋に住んでいたら、必然的に台所も狭くなってしまう。
狭い台所、というのは、やはり使い勝手が悪い。
居住空間に比べ、台所がかなり広い、といったようなアパートやマンションは、多分、見当たらないに違いない。
広い台所はないものだろうか。
あるはずだ、と私は思う。
スポーツジムを想像してもらえば、可能性は高くなる。
ランニングマシンを、プールを、自宅に持つ人は少ない。
しかし、今の時代、年会費と毎月の会費を払えば、スポーツジムに通うことは出来る。
台所にも、そういう考えがあったらどうだろう。
会費をはらって、使い心地のよい、広い台所が共有できたら、楽しいに違いない。
それがわたしのシェアキッチン案だ。

らっきよう、梅干、漬物、味噌作り。
こんなことを個人の台所でおこなうのは、かなり苦しい。
梅酒を保存しておく場所も、シェアキッチンならありえる。

「もう、台所仕事からは卒業させてちょうだい」
と思うおばあさんも、1ヶ月に1回くらいは、自分のご飯を作ってみたいなと思う時だってある。
小さい子供をもつ親なら、泣き喚く子どもと2人、家にこもっているよりは、だれかが子どもを見てくれて、そのあいだに夕食作りができたら、案外楽しい日々になるかもしれない。
働いている両親が、保育園に子どもを迎えに行って、誰かが作ってくれた夕食と子どもを一緒に受け取れたら、夜の時間はずいぶん楽になる。
子育ての1年、休職するあいだに、料理を上達させる、あるいはシェアキッチンの経営に参加する。
そんなことが出来たら、子育てがもっと楽しくなるし、キャリアだって充実できる。

いろんなことがまだ、この世の中には存在していないのではないだろうか。
いまの若い人がコンビニのない生活が考えられないというように、シェアキッチンがないとき、いったいどうやってご飯を作っていたの?
大変だったでしょう?と言わせてみたい。