Novel(百物語)
02ten

さんばさんば

「リング、完成しました。ご来店をお待ちしております。」
私は注文主にメールを送りました。
リングを受け取る頃は上海にいる予定だと、彼は言っていました。
ですから、すぐに受け取りに来るとは思っていませんでした。
ただ、リングがようやく完成した喜びを、彼に伝えたかったのです。
彼の帰国が遅れたとしても、ありがたいことに、私が代金のことで気に病む必要はありませんでした。
注文が確定した時に、一括で受け取ったのです。
通常は前金をもらい、品物と引き換えに残代金をもらうのですが、今回は特別でした。

リングを手作りの袋に入れ、きれいに包み、自分の手元から一応離れてしまう儀式を終えると、ようやく私はほっとします。
作り終わってからも、しばらくは何度も手直ししてしまうのが、私の悪い癖です。
完璧にしたいという気持ちが高じて、あげくのはては精魂込めて作った作品を壊してしまったことも以前はありました。
注文を受けて期日内にリングを作り、完成したら即、渡して代金をもらう。
そうすればリングは手元に残らず、自分の作品を壊すこともない。
頭でわかっていても、私にはなかなかできません。
作品が完成したら、次に何をすればいいのかの手順を、私が無理のないやり方で自然な流れを作ってくれたのは、夫でした。
ものづくりにのめりこみすぎ、そのあげく身動きがとれなくなっていた私が小さな工房を持つことができたのも、夫の協力があったからです。
夫は、私が自分の欠点だと思っているところを笑い飛ばしてくれました。
「大したことはないよ。
うまくいかないところは、こっちで知恵を出すから。
指輪を作ることができるのは、俺じゃなくて君なんだよ。
それで十分じゃない」
ビジネスマンとして立派に仕事をこなしている彼が、なぜ私が好きなのか、いまでもよくわからないところがあります。
彼はひとりでも十分にやっていけそうなのですが。
しかし、彼が言うには、私のほうが彼なしでも指輪を作っていけるというのです。
そんなことはないのにと思いながらも、願いがようやくかなって、私は宝石職人になれました。
私としては、デザインが好まれていると思いたいところですが、注文主から送られてくる壊れかけた宝飾品を再利用したりするのをいとわないからかもしれません。
どこにでもありそうな、当たり前のペンダントや指輪、あるいはカフスピンもその人には大切な思い出の品です。
思い出に耳を傾けていると、デザインのアイデアが膨らんでいくこともありました。

今回の注文はちょっと変わっていました。
私が受ける注文は、結婚指輪か婚約指輪、あるいは注文主がつける指輪、そのうちのどれかです。
注文主は、30代に見える男性でした。
婚約指輪だとばかり、私は思い込んでいました。
しかし、打ち合わせを始めると、普通のプレゼントだということがわかりました。
相手の指のサイズを知らないから、サイズが調整できるような指輪がほしいのだそうです。
まだ付き合ってもいないと聞いた私は、指輪以外のプレゼントのほうが無難ではないかと、つい口にしてしまいました。
「商売気がないんですね」
彼は笑いました。
「ネットでリングの写真を見て、プレゼントしてみたいと思ったんです」
「そう言っていただけると、とても嬉しいです。
ただ、受け取ってもらえなかったとしたら、お辛くありません?」
「たしかに。自分がつけるわけにはいかないですからね」
男は言いました。
「でも、そんなこと、考えていなかったな。
自分がプレゼントしたものを拒否されるなんてことはありえない、そういうことじゃないんですよ。
相手がいいなと思ってもらえたら、自分も嬉しいだろう、ただそれだけなんです。
先を考えて行動しないんですかね」
私はなんと答えてよいか、わかりませんでした。
もともと、私はうまく話を続けられるタイプではないのです。
仕方がないので、私はこれまで作ってきたリングの写真を出して、彼に見せました。
「このタイプがお好きだったんですよね」
男は頷きました。
「ただ、この宝石は外してもらえませんかね。
ご本人を前にして言うのは何だけど、ここに宝石はいらないと思うんですよ。
シルバーの感じがとってもいいから、それだけで十分です」
全く、どこが「ご本人を前にして言うのは何だけど」だ、と私は心の中でため息をつきました。
こういう率直な人は、どうも苦手でした。
同じ意見を言うにしても、もう少し相手に配慮があると楽なのに、とつい思ってしまうのです。
とはいえ、打ち合わせを続けなくては、私もリングを作ることができません。
そんな客はいらないというほど、強くもありません。
「ちょっとお茶でもいかがですか」と私は言いました。
「ありがとうございます」
男は素直に言いました。
「日本茶ですよね、大好きです」
「よかった、ちょっと待っていてくださいね」
彼に出すというよりは、お茶を飲んで頭をリングのことだけにしたかったのは私のほうでした。
私は丁寧にお茶を淹れました。
おかげで、少し落ち着きました。
細かい打ち合わせをしていると、彼が私のデザインをひどく気に入ってくれていることがわかるのです。
恥ずかしいことですが、そうなると、苦手も克服できる感じさえしてきます。
けなされたりほめられたりと、なんだか船酔いをしているような奇妙な気分になる客でした。
料金の話までこぎつけ、前金の説明をすると、彼は上着のポケットから封筒を取り出しました。
かなり厚い封筒でした。
「ボーナスが出たんで、全額持ってきました。
前金なんて言っていたら、最後に払えなくなるかもしれないから」
「そんなにリングを渡したいんですか、その人に?」
思わず私は聞いてしまいました。
「人生に一度くらい、そんなことってありませんか?」
逆に私が聞き返されてしまいました。
まだありませんというのも悔しくて、私は答えませんでした。
私は夫が大好きでしたし、夫もそうだろうとは思っていますが、私たちの間はもっと穏やかな感じがします。
ひがみではなく、うらやましいとは思いません。
ただ、贈ってもらった彼女がリングを気に入るかどうかは、まさに私の力量次第です。
彼の愛情は、まだ伝わっていないのですから。
全くとんでもない客にぶつかってしまった、と思いました。

打ち合わせがすべて終わり、私はもう一度お茶を淹れました。
「おたくのロゴ、よく見ると四つ葉のクローバーではないんですよね。
そこも気に入ったんです。
あれ、茶碗蒸しに入っている三つ葉ですか?」
どうやら、お茶が好きらしく、男はおいしそうに飲んでいます。
私も、打ち合わせが終わったせいか、少し気楽になりました。
リングを作るのは大変ですが、それは明日からの仕事です。
「さんばさんばっていう言葉からイメージしたんです。
実は、葉っぱとも三つ葉とも全く違う意味なんですけどね。
夫が生まれ育った土地の言葉なんです。
別れの時に使うらしいんです。
最初、耳にしたとき、三つの葉のイメージが浮かんでしまって」
「へえ、面白い方言ですね。
ブラジルのサンバをすぐ思い浮かべてしまうせいかな、すごく陽気に聞こえるけど」
「幼いときから使っていない言葉だと、そうですよね。
私も似たようなものです。
でも、言い方で、とってもしみじみとした雰囲気になるんですよ」
彼は頷いていましたが、私の言葉に対してだったのかは、わかりません。
たった一度の打ち合わせでしたが、彼を見送った時、打ち合わせの最初に感じた不安は薄れていました。
一緒にお茶を飲んだせいかもしれませんが、さあ、これから作るぞと軽い興奮状態にすでに入っていたのでしょう。
苦労はしましたが、いいリングができたと思っています。

リングが完成して1ヶ月経ちましたが、まだ受け取りにきてもらえません。
もう一度メールを出しましたが、返事はありませんでした。
代金を受け取っているので、私が困ることはありません。
ただ、彼が渡したいと思っている女性が私のリングを喜んでくれるかどうか、気になります。
感想も聞いてみたいのでした。
こういうとき、私が話せる身近な人と言えば、夫しかありません。
しかし、夫は少々上の空でした。
私は拍子抜けしました。
しかし、聞いてくれただけでもありがたいと思い直しました。
私が黙っていると、
「さんばさんばって覚えてる?」
夫が突然言いました。
「もちろんよ。ロゴにまでしたんだもの」
夫が時々口にする言葉は、とても不思議な語感が多く、付き合っていた当初は頼んでは聞かせてもらったものでした。
「さんばさんば」も人によっては「さんばよう」と言うそうです。
流れるような口調が多いので、夫が口にしても、なんだか優しく響きます。
私はどちらかというと、「さんばよう」のほうが好きでした。
「今日、つい、さんばさんばって口にしたら、その隣で、さんばようって言っている子がいたんだよ」
「おどろいたでしょ?」
「ああ、驚いた。相手もびっくりしていたよ。
専務はなんで知っているんですかって」
「若い子なの?」
「うん、若かった。
ただ、場所が場所だったから、それ以上は互いに話すわけにいかなかったけれど」
「生まれが近いのかしら?」
「うちの田舎だって、もうさんばようっていう人は少なくなったからね。
家の人が使っているのかな」
「私、いっちゃちゃちょうも好きなんだけど、その子、知っているかしらね」
「よく覚えているね」
夫は笑顔を見せました。
夫は着替えた背広をすぐにしまわずに、小ぶりなハンガーラックにかけています。
湿気やほこりがついたまま、クローゼットにいれることはしません。
ブラッシングもきちんとする夫の行動は、私には驚くことばかりです。
背広を片づけている夫を眺めて、初めて私は気付きました。
帰宅した夫が、いつもとは違い、寂しそうだったのです。
ラックに黒いネクタイがかかっているのに私は気づき、だから「さんばさんば」だったのかと納得しました。
別れの言葉の「さんばさんば」は、ふだんの別れにも使いますが、永遠の別れの時にも口にすると夫が説明してくれたことがありました。
「さんばよう」と言った若い子の話をもっと聞きたかったのですが、さすがに遠慮しました。
元気が出たら、夫は何か話してくれるかもしれません。

夕食後、ふたりで片づけをすませると、夫はソファも何もないリビングに寝転がりました。
広い家ではありませんが、我が家は家具や置物が極端に少ないので、大人が寝転がっても十分なスペースがあります。
いつもはテレビをつけるのに、今日の夫はただ寝転がっているだけでした。
「若い人が死ぬのは、やっぱり辛いね」
天井に目を向けたまま、夫が言いました。
「私たちぐらいなら、まだあきらめもつくけどね。
会社の人?」
私が尋ねると、夫は頷きました。
「ひき逃げされたらしい。
もうちょっと早くに発見されていたら、命は助かっていたかもしれないんだ」
夫は寂しそうに言いました。
「会議で、前の日に会っていたんだよ。
態度は今ひとつだったけれど、なんだかおもしろいやつだなと思って見ていたから、憶えていた。
たった1回、顔を合わせただけになってしまった」
それから、夫は小さな声で「さんばさんば」と言いました。
夫にしては珍しいくらい落ち込んでいるように、私には思えました。
もちろん、人が死んだのだから当たり前ですが。
「上海で運がついてきたって言ったのにな」
立ち上がると、今日は早く寝るからと、夫は行ってしまいました。

私は、その時もまだ気づかなかったのです。
上海に仕事で行く人は、いくらもいます。
私は彼からもらった名刺も、仕事を始めるとろくに見ていませんでした。
引き出しに入れたままにせず、よく見ていたら、夫と同じ会社に勤めていることはすぐわかったはずでした。
仕事で帰国が延びた場合、私が気にするといけないからと、彼は名刺を渡してくれたのです。
いつまでも連絡がないために、私は3度目のメールを送ろうと考えました。
その時になって、彼から名刺をもらったことを思い出しました。
電話をかける直前に、その企業名が夫が働いている会社と同じであることに私はようやく気付きました。
夫の話に出た若い人というのは、もしかするとリングの注文主かもしれません。
もしそうだとしたら、彼は私のあまりの鈍感さにあの世で苦笑いしているに違いありません。
代金を返さなくちゃいけない。
最初に思ったのはそれでした。
どうしよう。
慌てた私は夫にメールを送りました。
「すみません。
この間、亡くなったのは時田勇樹さんですか?」
夫からのメールが来るのが待ち遠しいというよりは、恐ろしく感じました。
私は仕事もできず、あのリングをテーブルの上に載せて待っていました。
「どうして知っているの?
そうだよ、時田だよ」
どうしよう、私はつぶやきました。
私が一生懸命作ったリングだけが、渡されることなくテーブルの上で時田さんを待っています。
「いつ気付くのかと、死ぬほど心配しましたよ」
にやりと笑ったそんな彼の声が聞こえてきたような気がしました。