Novel(百物語)
02ten

サンクスエイジング

私が池田さんを知ったのは、息子からの情報だ。
「池田さんが今度学校に来るんだよ」
小学3年生の息子はあたかも自分がその人を招待したかのように、自慢げに私に伝えた。
台所で唐揚げを作っていた私は「そうなんだ、へえー」と返事をした。
しかし、池田さんが誰なのか、見当もつかなかった。
地域の役員の名前や、講演会に来そうな有名人をしばらく考えてみたが、お手上げだった。
息子に背中を向け、私は唐揚げをひとつ試食した。
音を立てないで食べた。
教えてもらったばかりの、衣に卵を加えた唐揚げは私が空腹だったせいもあるが、とてもおいしかった。
ゲームに熱中している息子に、私は「池田さんて誰?」と聞いた。
息子は顔を上げ、びっくりしたような表情をした。
「おかあさん、知ってるよ。だって、何度もしゃべったじゃない」
なおのことわからなくなった池田さんの正体を、息子から聞き出すのは大変だった。
そういえば、以前に夕食を食べながら、おじいさんの話を聞いたことがある。
昨年の春から、近所の公園で子どもたちと遊んでくれるようになった人だ。
息子たちはその人のことを「おじいちゃん」とよんでいる。
そのせいで、同級生のおじいさんとばかり私は思い込んでいた。
そういえば、池田のおじいちゃんと息子が口にしたこともあった。
ゲームに夢中になっているときは、私が話しかけても息子はうるさそうにしていたくせに、
私が自分の脳の中からかすかに残っている「池田さん」を引きずり出そうとすると、今度はやたらに話しかけてくる。
「思い出した?」
「うん、少し」
「おじいちゃん、すごいんだよ。ジャンプ台とか、なんでも作ってくるんだ。
自転車にのせてくるんだよ」
ジャンプ台とは何かが気になったが、息子に質問してきちんとした答えが返ってきたためしはない。
質問は我慢して、私は息子の池田さん礼賛をじっくり聞くことにした。
しかし、その人がなぜ、学校に来るのかまではわからなかった。
小学生の親というのは、気長に待たねばならないようだ。
ただ、これがうまくいくことはなかなかない。
仕事の上では少々せっかちな私だが、子ども相手では私が変わるしかなかった。

数日後、息子が学校から持って帰ったプリントで、ようやくなぞが解けた。
学校の区域に住む人から話を聞くというような授業があるらしい。
先生は、商店主を考えていたようだが、「池田のおじいちゃんを招待したい」という声が子どもたちから出てきた。
先生も私同様、「池田さん」を知らなかった。
そこで、副校長先生が公園に行き、池田さんと会って話をした。
最初は固辞していた池田さんも、周りで遊んでいる子どもたちから「学校に来て」と頼まれ、引き受けることにしたという。
そのような経緯が、息子が持って帰ったプリントに書いてあった。
保護者もどうぞと書いてあるが、会社を休んでまで行くつもりはなかった。
「おかあさん、行けないけれど、あとで教えてね」
息子にはそう伝えた。
しかし、予想通り、息子から詳しい話を聞くことはできなかった。
彼の言葉は、職場なら、無駄がなく褒められる。
「池田のおじいちゃんが来て話をしたよ。
遠くから来たんだって。
僕たちがいるから楽しいってさ」
息子がこれだけ言えただけでもよしとしなければ、と私は頭を入れ替えた。
「そうなんだ、へええ」
結局、息子と話していると、この言葉しか言いようがない。
池田さんに関しては、翌週の学校のプリントを待つしかなかった。

池田さんは香川県で、長年、桶職人として生活してきた。
子どもたちはみな、家を離れ、奥さんと二人で暮らしてきた。
数年前に奥さんに先立たれ、ひとり暮らしをしてきたが、東京に住む長男がこちらにこないかと誘ってくれたという。
香川県から出たことのない池田さんに、先生は「不安ではありませんでしたか?」と質問している。
「そうだね、でも、生きていれば、今までとは違うことをやらなきゃいけないこともあるよ」
と池田さんは答えている。
池田さんは家の近くを散歩して、公園を見つけた。
子どもたちが遊んでいる。
東京でも子どもたちはいるじゃないかと池田さんは思った。
たしかに、池田さんが幼いころにくらべれば少ないが、それは香川でも同じようなものだった。
公園で、池田さんは楽しく過ごした。
子どもたちは、ローラースケートのようなもので遊んだりしていたが、どうもうまくいっていない。
下手な子はこわがり、うまい子は滑れるようになると、もう興味がわかなくなっている。
こうやったらおもしろくならないかな、子どもたちを眺めながら、桶職人の池田さんはあれこれ頭の中で考えた。
長男の妻に頼んでホームセンターに連れて行ってもらい、板やのこぎりを買っては、池田さんは小さな道具を作るようになった。
息子の家がマンションでないのが幸いだった。
小さな庭で池田さんがなにやら作っているのを見て、池田さんの息子とその妻はほっとしていた。
慣れない東京で大丈夫だろうかと心配していたからだ。

池田さんは、自転車に自分が作った遊び道具を載せて、3時ごろの公園に行く。
学校から帰った子どもたちが、そのころから公園に集まってくる。
それから約2時間、5時のチャイムが鳴ると池田さんも自転車を引いて家に帰る。
いつのまにか、池田さんは木で作った道具を使い、子どもたちが楽しむゲームまで作っていた。
小さい子にはハンディをつけているから、年の離れた子どもたちも一緒に遊んだ。
池田さんが子どもたちに溶け込めたのはなぜなのか、先生にもわからない。
あまりしゃべらないのもいいのかもしれなかった。
こどもたちが別の遊びを始めると、自分が持ってきた道具を改めて点検している。
ここではゲームなんかしないで、身体を使って遊びなさいというようなことも言わない。
わからないことはただ、黙っている。
塾に行く子どもの中には、「水曜日なら僕、来るからね」と池田さんに予約を入れるものも出てきた。
「来たかったらおいで」
池田さんはそれしか言わない。
池田さんの道具のおかげで、元々得意だったスケートボードがもっとうまくなった子がいた。
先生からみると、池田さんの道具がいいのか悪いのか、よくわからない。
ただ、子どもたちが誰も注意をしていないのに、池田さんに敬意を払っているのが不思議だった。
「おじいちゃん」とか「池田のじいちゃん」と、子どもたちは口にしていた。
それを池田さんはちっとも得意そうに思っていない。
あたかも、自分の周りにいた、桶職人の仲間のような態度で子どもたちに対している。
特別、優しそうにも見えなかった。
ただ、
「ここ(公園)に来るのは楽しみですよ。ありがたいですね」
と静かに話してくれた。
息子の担任の先生は、そんな授業風景を学年通信にまとめてくれていた。

今でも、こういうお年寄りがいるのかと、夜遅くプリントを読んだ私は不思議に思った。
私の職場では、年上の同僚たちは男女問わず、話題と言えば介護のことだった。
苦労している様子を見ると、いつか自分もそうなるのかと、少々暗い気持ちになることもある。
子育てと介護が同時にやってきたら最悪よ、と私の出産が早かったことをほめているのか、からかっているのか
わからない口調で愚痴られたこともある。
社会人になったのと親になったのがほとんど同時であることも最悪ですよ、と私も返したかったが、相手が年上だったから
黙っていた。
私の両親はまだ老人と言っても若いが、自分たちが認知症になるのを恐れている。
電話で話しても「あんなになりたくない」とか「そこまで生きたくはないわ」と言う。
他人ごとのような言葉だ。
あんなになりたくないといっても、なってしまうこともあるし、
生きたくないといっても、自分で寿命を決められるわけでもないだろう。
認知症を遅らせることはできるかもしれないが、それでもいつかは受け入れなくてはならない時もくるかもしれない。
生きていれば変化もあるだろうと口にする池田さんは、いったいいくつなのだろう。
「すごくおじいちゃんだよ」と息子は言っていたが、池田さんは怖がっているようには見えなかった。
私も公園に行ってみよう。
池田さんと話さなくてもいいから、そっと眺めさせてもらおう。
授業に呼ぶなんて、子どもたちもなかなかやるものだ。
塾にも行くが、池田さんにも予約する子どもの気持ちが、私にはなんとなくわかるような気がした。