Novel(百物語)
02ten

梅ノ木アパート

その一
久子さんは、自室の窓から遠くに見える海を眺めた。
冬になると、このあたりは北風が強く、海はいつも荒れている。
天気予報の気温よりも、実際はずっと冷える。
去年の冬までは、本当に寒かった。
子どもたちが心配して、ストーブや上着を送ってくれるのだが、家自体が寒いのだからどうしようもない。
かといって、ひとりで暮らす家をリフォームする気持ちにもなれなかった。
経費もかかるし、子どもの手を煩わせたくなかった。
我慢すれば大丈夫だと思っていた。
風が吹きすさぶ冬場はいつもより寂しい気持ちになり、テレビの音が自然に大きくなった。
このアパートに住むようになってからは、窓から海を眺める余裕ができた。
寒くないことが、こんなに幸せだとは思わなかった。
長年住んだ家からは、直接海は見えなかった。
海に沈む夕陽を眺めるのが、久子さんの楽しみのひとつになった。
旅行者でない住人であっても、夕陽が毎日見られるわけではない。
雲が多ければ、それまでだ。
だからこそ、楽しみになるのかもしれなかった。
このアパートの一階には、六人の年寄りが住んでいる。
みな、元々、近くに住む人だ。
元気に生活している人、少々くたびれている人それぞれだが、ひとり暮らしという共通点がある。
家はあっても、ひとりで暮らすことに自信がなくなっている人や、子どもたちが心配した人たちが
アパートの話を聞いて、申し込んできたのだ。
自分の家はそのままにしてある。
持ちこんだ荷物も、たいして多くはない。
最初は誰もが、自分の家がいいと言った。
このアパートは単に借りているだけだから、自分の家にいつでも帰れる。
そう思うと、皆安心してアパートの悪口を言った。
ところが、入居後一年以上経ったが、帰った人はいなかった。
梅ノ木アパートが過ごしやすかったからだ。
工事用の簡易宿舎を少しだけ立派にしたような細長いアパートの個室は六畳で、トイレも風呂もついていない。
アパートに接して、平屋の四角い建物が直角に位置し、L字形を構成している。
サイコロのような簡単な建物には、男女二つ、大きめの浴室とトイレがあり、だだっ広い部屋がある。
広い部屋は台所と食堂、居間を兼ねていて、アパートの住人はたいていそこにいた。
共同の台所と風呂場・トイレというだけで、施設でもないから、食事の時間に遅れるということもない。
その代り、誰かが食事を作ってくれるわけでもない。
それぞれの以前の生活同様、自分で食事を作るか、出来合いのものを買ってきて食べる。
風呂も、入りたい人が湯を入れる。
テレビを見飽きたら、自分の部屋に行き昼寝をする。
住人は、自分なりのリズムで生活をしていた。
久子さんは、自分の個室にベッドと軽い藤の引き出しを置いている。
アパートは、部屋だけでなく、廊下や平屋の家まですべて室温が調節されている。
簡単な建物のように見えたが、さすがに今時のものは便利にできていると久子さんは感心した。
自宅にいる時よりも、トイレや風呂に行くのがおっくうではなくなった。
冬場がこんなに過ごしやすいとは久子さんは思わなかった。

このアパートの仕組みを考え出した久子さんの息子が、連休に様子を見に来てくれた。
「何かいるものある?」
息子は軽く聞き、
久子さんは
「何もないよ。元気にやっているから」
と返した。
春になったら、アパートの敷地に少しだけ畑を作ってもいいだろうかと久子さんは息子に相談した。
「大丈夫だよ。他にやりたい人がいたら、そう言っておいて」
返答し、息子は安心した。
母親が帰りたいと言い出したら、引き止めてはいけないと覚悟していたが、その必要はなさそうだった。
息子から見ても、久子さんだけでなく、他の住人達もおおむね満足そうだった。
入居希望の問い合わせも、ちらほら出てきている。
元気に見えてはいるものの、ひとり暮らしをしている老人が久子さんたちの様子を見て、うらやましく思うらしい。
離れて暮らす子どもまた、梅ノ木アパートの様子を耳にしているようだった。
自分の家のローンを抱えている子どもには、実家のリフォームは敷居が高かった。
一方、年老いた両親たちは子どもが呼び寄せても、見知らぬ場所に行きたがらなかった。
老人ホームに入居することも、まだ元気だと言って躊躇している。
結局、何も変わらぬままで年月だけが経ち、両親の具合が悪くなって初めて行動を起こすことになるのが常だった。
久子さんは何の理由もなかったが、息子が梅ノ木アパートを建てることに反対した。
「じゃあ、おふくろはどうしたいの?
おふくろの好きなようにしていいから」
そういわれると、なおのこと返事はできなかった。
「だったら、しばらく俺のやり方を試してみない?
いやだったらいつでも言っていいから。
おふくろが入らなくても、アパートに入りたい人は見つけてあるんだよ」
もう一棟アパートを建て、L字形ではなく、コの字形にしようかと息子さんは当初からの案をもう一度頭に浮かべていた。
マンションと違い、この形式のアパートなら建設費が格段に抑えられるから採算は取れる。
二階は旅行者用のウイークリーマンションとして設計した。
こちらもどうにか軌道に乗っているが、他にも利用者がいた。
この村の出身で、今は別の場所に住む人たちが使ってくれている。
墓参りや、休みに親に会いに来た子どもたちが素泊まりで泊まる場所として重宝されていた。
実家があっても、空き家だったり、住めるような状態でないところが多いのが現状だった。
このあたりには、ホテルなどない。
遠くのホテルを利用するよりも、安くて便利らしい。
何より、自分たちが生まれ育った場所だから懐かしいらしい。
二階の利用者が増えると、アパートの家賃も下がる仕組みを作った。
おかげで、一階の住人も積極的にPRしてくれる。
自分たちが同窓会の後に使ったら、卒業五十年の小学校の同窓会で帰省した人たちも、合宿気分で泊まってくれた。

「梅の木アパートって言うけれど、梅ノ木はどこにあるの?」
と聞く人は、アパートが建っている場所をよく知らない人だ。
「梅木さん」の畑だった場所だから、梅ノ木アパートだった。
梅木のおじいさんは、久子さんの息子を幼いころからかわいがってくれた人だった。
亡くなってもう七年が経つ。
以前、このアパートの構想を話したとき、自治会長の梅木さんは言ってくれた。
「お前だったら、俺の畑を使っていいよ。どうせ誰もいないんだから」
梅木のおじいさんのためにも、皆が元気になれるところにしたいと久子さんの息子は思っている。


その二
個人タクシー運転手の重田さんは、この頃、気分が明るい。
悲観的な気持ちのときに、案外そうでないことがわかると、人生に薄日が差してきたように感じる。
集落にポツンと離れて住むひとり暮らしのお年寄りたちが、どこかのアパートに移り住むと聞いた時はがっかりした。
移動手段のないお年寄りは、通院や買い物にと、たまに重田さんのタクシーを使ってくれた。
料金をもちろんもらってはいるが、乗り降りの手伝いや荷物を玄関まで運んだりしては喜ばれていた。
重田さんもそれなりに、お年寄りの面倒をみているつもりだった。
「こりゃ困ったな」
アパート建設のうわさを聞いた時、重田さんは悲観的になった。
その時、雨が降っていたのを憶えている。
「降れば土砂降り」そうつぶやいた。
自治会長だった梅木さんの土地に、アパートは建設されるらしい。
そのうち、地元で建設労働者の募集があった。
重田さんは喜んで手をあげ、久しぶりに満足のいく日当を手にした。
土砂降りどころか、雨は止みそうだった。
アパートが出来上がると、入居者の引っ越しが始まった。
自分の家からちょっとした荷物を持っていくだけだから、重田さんのタクシーを利用してくれる。
以前と同様、重田さんはアパートの個室まで荷物を運んであげた。
久子さんの藤箪笥も、重田さんが運んだ。
若い人なら自分で持っていけるくらいの軽さだった。
アパートのお年寄りは集まって暮らすと、かえってタクシーを使うようになった。
たしかに、四人で乗ると割安になる。
病院や買い物と出かける理由は違うから、帰りはバスの時間を調べて、それぞれに帰宅するようだった。
これならもう少し個人タクシーを続けられそうだと、重田さんはほっとした。
梅ノ木アパートのサイコロ形の平屋の建物に入ると、いつも誰かがそこにいた。
テレビを見ている人、新聞を読んでいる人、ぼんやり座っている人、さまざまだ。
個室はあるが、食堂や台所でもあるその場所に、お年寄りは集まっていた。
タクシーで迎えに行くと、「まあ、一杯お茶でもどう」と誘われることもあった。
なんだか自分の家よりも居心地がよさそうで、重田さんも少しうらやましくなる。

「今度、梅ノ木アパート、もう一棟作るらしいよ」
ある日、知人が重田さんに教えてくれた。
そうか、今度も募集があるかな。
今年も特別手当を期待できそうだと、重田さんは気持ちが明るくなる。
少しは体を鍛えておかなくては、と柔軟体操を始めている。
梅ノ木アパートに住んだお年寄りは、家に戻りたがらないらしい。
そのわけが、重田さんにはよくわかる。
冬のあの激しい風の音をひとりで聞いていると、心が沈む。
ただでさえ心細くなっているところへ、あんな風の音を聞くと重田さんだっていやになる。
梅ノ木アパートに慣れ親しんだお年寄りは、子どもたちが家を片づけることを嫌がっていたのに、なぜか気持ちが変わるらしい。
実家でいらなくなったものを片付けている仕事を、重田さんは子どもたちから請け負った。
トラックを借りてきて、市の粗大ごみの集積場所まで運んでいく。
持ち込むと、料金も安かった。
すぐに家を取り壊したり、人に貸すわけでなくても、まずは片づけなくてはならない。
しかし、そこにお年寄りが住んでいると嫌がるのは仕方がなかった。
一番嫌がっていたはずの人が梅ノ木アパートで気持ちよく過ごし始めると、逆に子供たちにはっぱをかけることすらある。
「おふくろときたら、まったくねえ」
と息子たちは呆れていたが、人の気持ちなどはそんなものだろうと重田さんは思った。
便利屋としての仕事も増えていたから、重田さん自身、知らず知らず寛容になっているようだった。


その三
会社から長期休暇をとるように言われた時、すぐ頭に浮かんだのが、あのアパートだった。
一年前の同窓会合宿で使った、梅ノ木アパートの二階だ。
一階にはお年寄りが住んでいるが、二階は主に旅行者用の簡易宿泊所になっている。
台所やトイレ、浴室が別棟についている。
これで近くに温泉でもあれば、昔の湯治場に近い。
台所があるおかげで、小学校の同窓生たちは一緒に鍋をつついたり、カップラーメンを食べたりした。
たったそれだけのことだが、それも同窓会と同じくらい楽しかった。
卒業三十六年目という、節目でもない年に同窓会を開いた理由は、担任の先生が米寿を迎えたからだ。
私は、四年生の三学期にこの村に来て、六年生の夏休みに引っ越した。
厳密に言えば、この村の小学校を卒業していない。
卒業アルバムにも出ていない私を、同級生はわざわざ探し出してくれたのだ。
嬉しかった。
同級生と過ごしたせいかもしれないが、アパートの二階も気に入った。
三週間過ごしても、二泊三日の温泉旅行と同じくらいの値段だ。
あそこで、ゆっくり海を眺めて過ごしてみようと思いついた。
「行ってもいいかな」
妻に話すと、
「どうぞどうぞ」
とあっけない返事だった。
「ひとりだけでもかまわない?」
念を押すと
「どういたしまして。そのうち、私も行ってみようと思うの、ひとりでね」
妻はにやりと笑った。
彼女は不思議な女性だ。
仲がいいのか悪いのか、よくわからなくなることがある。
ともかくも、休暇をひとりで堪能することはできそうだった。

同窓会が終わり、幹事はいったん、先生を家まで送った。
現在、村に住んでいる同級生はひとりもいない。
自宅が村に残っている者もいたが、すぐに住めるという状態ではないらしい。
全員で梅ノ木アパートの二階を借りた。
三連休を利用した同窓会は、先生参加の当日だけでなく、延々と梅ノ木アパートで続いた。
酒を飲むのも飽きてくると、一緒に風呂に入ったり、料理を作って楽しんだ。
「梅ノ木アパートって、梅木さんと関連があるのか?」
幹事のひとりの須賀尾に聞くと、彼は驚いた顔をした。
「おまえ、よく梅木さんを憶えているな」
「いや、忘れていたんだが、梅ノ木アパートで思い出した。
怖いというか、迫力のある人だったよな。
小学生でもそう感じたよ。
怒鳴ったり、いかにも厳しいという人ではないんだけどな。
おれ、あの人とは案外話をしていたんだよ。
引っ越すのが嫌だとかね」
「そうか、お前、武道少年団にいたからな。
梅木さんは顔を出していたんだろ?」
「剣道も習ったけれど、梅木さんはいつも学校の近くにいたじゃないか」
「えっ、そうだったかな」
須賀尾が憶えていないのに、なぜ、急に梅木さんのことがこんなにも出てくるのか、私も不思議だった。
子どものころ、セーターをほどく手伝いをさせられたが、それに似ている。
編み物の上手な母親は、よくセーターを編んでいた。
時々、間違ってしまうらしく、やり直す。
「あんた、ちょっと手伝って」
そういわれて、私は母親のそばに座る。
「あーあ。せっかくここまでできたのに」
そういいながら、間違えたところまで母親はほどいていく。
毛糸を軽くひっぱるだけで、するすると気持ちよくほどけていく。
「ほら、からまないように、早く巻いてよ」
この村でも頼まれて、母親は皆のセーターやワンピース、上着などを編んでいた。
家に置いてあった毛糸の束が、いつのまにか形になって村の人が着ている。
そんなことがよくあった。
それはこの村に限らない。
転勤の多かった私の子ども時代、母はあちこちでセーターを編んだ。
恋人を思いながらセーターを編んでいる、という歌詞があのころの流行歌には多かった。
編み物をしている母親をいつも目にしていたせいか、小学生の私には、どうもあの歌詞がしっくりいかなかった。
母は楽しそうに、鼻歌など歌いながら編んでいる。
母の編み方は変わっていて、製図もせず、頭の中にできあがっている完成品を目指して編み棒を動かしていく。
いわゆる立体裁断というものだろうか、どんな形でも母は編んでしまう。
母が編んだものは着やすいと評判だった。
自分の仕事であれだけ喜ばれたのだから、母は幸せだ。
父は日本全国を家族と共に移動し、公共工事の現場監督として働いていた。
私の家族はあたかも遊牧民のようで、簡素な宿泊所でしばらく寝泊りすることもあった。
工事が終われば、また次の場所へ移動する。
母の編み物のおかげで、短い滞在期間の割には、周りの人とうまくいくことが多かった。
内助の功だと母をほめる人もいた。
しかし、私はそれ以上に、毛糸を編んでいるときの母の嬉しそうな表情が思い出深い。
手も口も動く人で、機嫌よく話をしてくれる。
フィッシャーマンズセーターといって、漁師は編み物の腕もいいのだと母が教えてくれたこともある。
漁港の工事では、いつのまにか漁師と仲良くなり、一緒に網を繕っていたこともあった。
父への献身というよりは、自分の家族だけでは使いこなせない多量の毛糸を使うために周りを巻き込んでいたようにも思える。
編むごとに母の技術は上達していた。

「お前のお母さんは、手先が器用なんてレベルじゃないな」
梅木さんも褒めてくれたことがあった。
そのあとに、おまけのように私の剣筋がいいと言ってくれたから憶えている。
須賀尾によると、梅木さんは自治会長だったらしい。
梅木さんは小学生の下校時になると、校門近くに立っていた。
通学路の途中にいることもあった。
横断歩道に置いてある黄色の旗を持っていることもあった。
田舎でも、子どもを狙った嫌な事件が起きた。
実際に、女の子が車に引き込まれるようなことも起きた。
梅木さんが立ち番をしていたのは、そのせいかもしれない。
須賀尾は、梅木さんからアパートの土地を借り受けたと言った。
「親とうまくいかない時、梅木さんには自分の気持ちを伝えられたんだ。
不思議だよな、むしゃくしゃしているときに限って、梅木さんと会うんだよね。
こんな狭い場所だからかな、当然か。
引っ越していったお前がうらやましかったよ。
そうそう、確かにおれ、そんなことを梅木さんに言ったんだよ」
「へえ」
「そしたらさ、梅木さんも、俺もうらやましいって言った。
日本中、あちこち行ってみたいって。
俺は強いからいじめられないしっていうから、笑っちゃった。
年寄りが口にする言葉じゃないよな。
でも、そのあとに、俺たちみたいに村で生活している者たちが知らないことがあるんじゃないかって。
数年おきに引っ越ししていくお前だって、楽しいことばかりじゃないって教えてくれたんだよ」
須賀尾は、中学校を卒業して村を出ても、帰省すると梅木さんには会いに行っていたらしい。
「だって、他にすることがないんだよ。
親父とおふくろとは、話をすることがないし。
梅木さんと話が弾むわけではないけれど、説教なんかしないから、気づまりじゃなかったんだよね。
うちの両親も、梅木さんのところに行ってくるっていうと安心しているから、どこかに遊びに行く前には好都合だったんだ。
梅木さんは知っていたけれど、笑ってたよ」

須賀尾のそんな縁もあって、梅ノ木アパートが生まれたらしい。
あいつとあのアパートで会うのもいいかもしれない。
そう思って連絡をとってみた。
「来るんだってな、待ってたよ。
俺、仕事が忙しいから、お前に考えてほしいことがあってな」
「なんでお前が知っているんだよ」
「俺、お前の奥さんとやりとりしているんだよ。
アドレス教えてくれたのはお前じゃないか、会ったことはないけれど」
そういえば、同窓会の時、お前よりは奥さんの連絡先を教えてくれといったのが須賀尾だった。
たしかに、俺は音信不通の傾向がある。
あまりに引っ越しが多かったから、その場その場の付き合いしかしない癖があるのかもしれない。
妻に確認をとってから、須賀尾に教えたことは憶えている。
「奥さんから連絡があったんだよ。
何考えているのか知りませんが、私もいつか行ってみたいと思っていたので、先発隊ですってね」
なんだか子どもの保護者同士の会話のようで、私は嬉しくなかった。
道理で妻が落ち着き払っていたはずだ。
須賀尾は、会話よりも文章になったほうが自分を出せるタイプだ。
きっと妻を安心させたに違いない。
「ろくでもないやつだな、お前は」
「そう怒るなよ。
仕事を抱えながら、おふくろのために梅ノ木アパートを考えたんだが、自分ひとりではけっこう大変なこともあるんだ。
知恵を貸してくれたら助かる」
「どうも知恵なんかじゃないような気がするけれどな。
まあ、いいよ。
どうせ三日もすれば飽きるかもしれないから、いい暇つぶしになるかもしれない」
考えてみれば、こうやって梅ノ木アパートと私たち夫婦はつながっていった。
現在、アパートは七棟になった。
もちろん、あの村にすべてがあるわけではない。
名前もそれぞれ違う。
しかし、私にとってはすべてが梅ノ木アパートだ。
ホテルだけのものもある。
いつから関わったのかと聞かれることもある。
梅木さんが、話のついでに私の剣筋をほめてくれたあの時だと私は勝手に思っている。