Novel(百物語)
02ten

残り香

なんと、この私が昇進した。
20年近く勤めて、初めてのことだ。
他の誰よりも、私自身が驚いている。
パフューム戦略室副室長という活字の下に私の名前が印刷されているのだが、どうも自分の名刺とは思えない。
自分の人事異動よりも、嫌な上司が消えたことのほうが、実は嬉しい。
以前は直属の上司だった。
そのうちに取締役になり、常務になった。
しかし、今回、子会社の社長として栄転してくれた。
彼を尊敬することはなかったが、彼のおかげで私はあの店と出会った。
47年も続いた香水の店、私はその最後の客になることができた。
きっかけは、上司が選んだ店での忘年会だった。
いやいや参加したのだが、世の中、わからないものだ。
まさか、私の嫌いな上司がこんな贈り物をしてくれるなんて。

今回は変わった店を見つけたと上司は自慢げに言い、私たちは古ぼけたビルの階段を下りて行った。
靴音がやたらに響く。
おでんや焼き鳥、時代がかったコーヒー店が並んでいる。
同僚の誰も、このひどく古めかしいビルに足を踏み入れたことがなかった。
「なんだか天井低くない?」
誰かが言った。
地下街は駅に直結しているらしい。
壁に矢印が書いてあるが、騙されているような気がした。
こんな地下街があるなんて知らなかったと、誰もが口にした。
上司が私たちを連れて行ったのは、魚専門の店だった。
店の中はとてもきれいで、狐につままれたような気分になった。
鯵や平目、烏賊の刺身、金目鯛の煮物、鯛の兜煮、鱚の天ぷら、どれもおいしかった。
あの古いビルの中にいることを忘れ、私たちは楽しんだ。
ビールをたくさん飲んだせいか、途中で私はトイレに立った。
店にトイレはない。
目印を頼りに地下街を歩き回り、私はようやくトイレを見つけた。
用をすませ、トイレを出たすぐの正面の壁に、王冠の形をした小さな窓がくりぬいてあった。
壁は厚く、そこに小さな香水の瓶が置いてあった。
とてもきれいな形をしており、思わず私は足を止めた。
暗い店内に、ぼんやりと灯りがともっている。
その店が妙に気になった。
私は壁を回り込んで、入り口とおもわれるところに立った。
少しばかりアルコールが入って、気が大きくなっていたのだろうか。
店は閉まっているようだが、ドアが少し開いている。
そっと覗き込むと、いい香りがした。
目が闇になれると、店内に灯りはないことがわかった。
通路とトイレの電灯が、中にある鏡に反射しているだけだ。
香水瓶だろうか、小さな何かがきらりと光った。
「ごめんなさいね、もう店は終わってます」
奥から声がして、私はびくっとした。
逃げようとしたが、足が動かなかった。
店の奥に、薄い布がかかっており、奥に人の気配があった。
「すみません」
私は慌てて謝った。
急に正気に返った。
「大丈夫ですよ。
ドアを開けているこちらが悪いのだから。
締め切ってしまうと、なんだか息苦しくて。
怖がらせてごめんなさい。
歳になると、店を閉めた後、ちょっとひと休みしないと帰る元気がでないものだから」
優しい女性の声だった。
こちらにやってくる気配はなかった。
「すみません、本当に失礼しました」
私は急いでドアを離れた。
心臓がどきどきした。
通路の蛍光灯がまぶしい。
忘年会の会場がどの方向なのか、私は全くわからなくなってしまった。
あきらめて、私はいったんビルの外に出た。
みなと待ち合わせをした地上に出て、それから地下に入り、ようやく店にたどり着いた。
「どうしたの?」
「遅いから心配したよ」
帰り道がわからなくなったと言うと、大笑いされた。
私も苦笑いした。
あのドアの中に入っていったら、違う世界に行ってしまうような気がした。
いつも醒めた目で周りを見ているくせに、この晩だけは、上司や同僚のところに戻って来られてほっとした。

翌日、私は昼休み、食事もとらずにあの店に行ってみた。
トイレの前に、昨夜と同じように小さな店はあり、ドアは大きく開いていた。
急に落ち着いた気持ちになり、私はすまして店に入った。
香水とオーデココロンが、きれいなテーブルの上に、少し無造作に置いてあった。
小さな丸椅子に、年取った女性が座っていて、「いらっしゃいませ」と挨拶した。
所作の美しい人だった。
「昨日いらした方じゃありません?」
私は驚いた。
「どうしてわかります?」
また、心臓がどきどきした。
「この店、お客様は少ないから」
女性は笑ってそういった。
黒いカーディガンに真珠のネックレス、ワインカラーの少し長めのスカート。
「昨日は本当に失礼しました」
私は頭を下げながら、彼女の紐靴を眺めた。
たしかに足はあった。
「昨夜、私がどこにいたか、気になっているんじゃない?」
彼女は立ち上がると、奥にかかっている淡い紫の布を開けて見せた。
深い緑色をした、革張りの大きな安楽椅子が置いてあった。
少しすり切れてはいるが、座り心地がよさそうだ。
足を載せる小さな台も前に置いてある。
いいなあとつい思った。
「仕事が終わったら、ここに座るの。
気持ちいいのよ。
ただ、立ち上りたくなくなってしまうのが困った点でね。
昨夜も、つい、うとうとしてしまったみたい」
奥の椅子は、店主の持ち物で、商品ではない。
座ってみたいけれど、見せてもらっただけでもありがたい。
それで満足しなくてはと私は我慢した。
店主と、しばらく話をした。
やはり、ここは香水の店だった。
47年もここで店を開いていると聞き、私は驚いた。
自分が生まれる前から、このビルは建っており、この店があったなんて信じられない。
47年などという長い月日を、さらっと口にする店主が不思議だった。
店主が一番古い店子らしい。
あっという間に昼休みは終わり、まるでシンデレラのように、私は階段を走って上り、会社に戻った。

あの店で初めて、私はシンデレラのような気分になった。
今の時代は、40才近くても、若さや自信を持っている人はたくさんいる。
しかし、私はさえないおばさんだった。
それなのに、店主は
「あなたは、まだまだお嬢さんですよ」
と言ってくれた。
香水のことを何ひとつ知らない女は、大人の女性ではなかったのかもしれない。
昼休み、お弁当をさっさと食べて店に通うことが、私にとって何よりの楽しみになった。
オーデコロンやオードトワレ、香水の違いを店主は私に教えてくれた。
香水をどこにつけるのが一番いいのかということも、私は初めて知った。
さまざまな香りを知ったが、私にはどれが好きと答えることができなかった。
香りは、まだ私にはなじみ薄いものだった。
店に来る客はほとんどいなかったが、たまにはやってくる。
皆、顔見知りらしい。
「あれ、まだある?」
と客は聞き
彼女は、
「まだ残っていますよ」
とか
「ごめんなさい、もう仕入れていないの」
といった簡単な会話で終わる。
英語で応対する客もいたが、あまりにシンプルなフレーズで、私ですら聞き取れた。
かなり年輩の男性が店にいる私をちらっと見て
「よかった、新しいお客さんも時には来るんだね」
と言ったことがあった。
「そうなの、ありがたいものだわ。
きっと最後のお客さんね」
彼女は答えた。
わざわざ尋ねなくても、店をそのうちに畳む予定でいることは私にもわかった。
駅前再開発の区域に入っているらしく、ビル自体が取り壊されるということだった。
だからこそ、時間がある間は私は店に行きたかった。
すぐそばにあった幸せに気づかなかった自分が悔しかった。
会社勤めをして、もう20年ちかく経っている。
この店を知って、仕事の帰りに立ち寄っていたら、なんの変哲もない私の人生も少しは潤いがあっただろうに。
まさに香りのある人生だったろう。
変えることのできたかもしれない歳月を思うと、情けなかった。
「あとわずかだと思うから、きっとこの店に魔法がかかって見えるのよ。
香水なんて、毎日買いに来ると思う?
気がつくと一年ぶり、きっとそんなおつきあいだったはずよ。
あとひとつしか残っていませんと言われたら、人は焦って買うものよ。
お客さんになってくださった、店を見つけてくださった、それでいいじゃない」
店主の言葉は、私のこわばった心に沁みた。
「10年も前から、もうやめようと思っていたの。
でもね、年をとってくると、店をたたむことすらおっくうなのよ。
すべてを片づけて、と思いながら、先延ばししてきたの。
ブレーキの利かない自転車みたいなものよ。
誰かとめてちょうだいって言いながら、坂道を走っていたようなものね」
あの店にどうしてあんなにのめりこんだのか、自分でもよくわからない。
昼休みだけでなく、仕事を定時に終えると、急いで店に通った。
ちょうどその頃、会社は残業を減らそうと努力していたから、私の定時退社は目立たなかった。
早く店に行きたくて、仕事のやり方も変わっていたようだった。
珍しく上司に褒められ、驚いたこともあった。
朝、会社に行くのが、私は嬉しくてしようがなかった。
この店に来るために通勤しているようなものだった。
店に来て、香水の話を聞いているだけで楽しかった。
そんな私を店主は嫌な顔ひとつせず、毎日迎えてくれた。
私が香水を買おうとすると、
「いいのよ、無理に買う必要はないの」
と私を止めた。
ある日、店主が私の給料の額を聞いた。
「失礼なことは重々承知なんだけれど、ごめんなさい、時給を計算するのに必要なの」
と言った。
会社と同じ時給を払うから、店をたたむのを手伝ってほしいと店主は私に頼んだ。
あの忘年会から、すでに半年以上経っていた。
この店に来る理由ができるのだから、嫌なわけがない。
私は二つ返事で引き受けた。
店の片付けよりも、まずは経理関係の書類をまとめなくてはならなかった。
店主の書類はすべて手書きだ。
パソコンに数字を打ち込み、私は依頼された仕事をこなした。
わからないことは、会社の経理の人間にも尋ねた。
これまで話そうともしなかった別の部署の人とも、店のためなら積極的に会いにいった。
自分でも不思議だった。
最初はこのわくわくした気持ちを、同僚につい口にしそうになったこともあった。
しかし、母との電話がきっかけでその気持ちはしぼんだ。
両親は共働きだったが、すでに退職している。
私からは遠く離れているが、兄夫婦が車で20分ほどのところに住んでいる。
両親は元気で、旅行を楽しんだり、地域活動に関わっている。
だから、兄夫婦も特別なことはしていない。
しかし、私に比べればずっと親孝行だ。
私はひと月に一度、母に電話するだけで、それも短い。
元気かと聞き、あたりさわりのない話をするだけだ。
電話をかけたとき、母に聞いてみたくなった。
「おかあさん、若いころ、香水買ったことある?
それとも、お父さんからもらったとか」
「そんなことあるわけないじゃない。
あんたが買ってくれるの?
香水なんかいらないから、結婚相手でも連れてきてよ。
兄さんはそばにいるけれど、やっぱり娘のほうがいいに決まっているものよ」
母の返事はにべもないものだった。
しかし、私はまだ気づかなかった。
毎日が楽しいせいか、閉店の手伝いをしていることや、その店が香水を扱っていることなどをつい口にした。
母の口調が変わった。
「あんた何をやっているの。
きちんと真面目に仕事をしているかと思っていたら、まったく。
妙なことに首をつっこむんじゃないの。
今の仕事、やめたりするんじゃないわよ。
その歳で再就職なんて無理だからね。
まさかお金を貸したりしてないでしょうね、近ごろはろくでもないことが多いんだよ。
ほんと、心配させないでよ、あんたは昔からぼんやりしているんだから。
お人よしだって見くびられているんだよ。
ちょっとバイト代払って安心させて、根こそぎ持っていこうという腹かもしれないでしょ」
母の言葉はまだ続いていたが、私は聞いていなかった。
この人は昔からそうだったのに、どうして忘れていたのだろう。
しっかり者で無駄なことをせず、蓄えもできる立派な母に違いない。
やるべきことをこなしている人だ。
「ちゃんとやりなさい」が口癖だった。
ちゃんとやれない私は、いつも母に叱られた。
自分が足りないところだらけだから、私が偉そうに批判できるはずもない。
しかし、母とはしっくりいかず、心を伝えあえないことは小学生の頃から知っていた。
私から見れば、大切な何かを知らないで生きている母だった。
例えば、母はコーラが大嫌いだった。
コーラは体に悪いといわれているからだった。
そうなのかもしれない。
しかし、飲み物とは思えないような奇抜な黒い色や強い刺激は、私には魅力的だった。
1年に数回飲むことすら嫌うことのほうが、私には奇妙に思えた。
コーラを牛乳や水と同列に語るわけにはいかないが、世の中からコーラのようなものが消えたら、さぞかしつまらないにちがいない。
そんな人に自分の幸せを軽々しく語ってしまった自分が腹立たしかった。
「そうね、やめておくわ。
お金なんか貸していないから心配しないで。
きちんと気をつけて生きているわよ」
母が喜びそうな言葉をいくつか口にして、私は電話を切った。
香水も店も店主もあの古いビルも、すべて私ひとりの秘密になった。

店主が店を始めた理由は、わからなかった。
店を片づけながら、店主が思い出話をしてくれることがある。
その断片をつないでいくのが、私には楽しみだった。
以前は、男性からの贈り物として香水を選ぶことは多かったらしい。
私にはもちろん縁のない話だが、私の周りでも聞いたことがなかった。
なんだか昔話のようだった。
プレゼントされた香水をあれこれ使い、いつのまにか、好みの香りを見つけていくらしい。
別れたとしても、香りだけは残っていく。
店主は
「プレゼントもいいけれど、自分のために香水を買ってもらうほうが、私はもっと好きだったのよ」
と言った。
「オーデコロンを枕や靴にさっとかけておいたり、お風呂上がりの体にスプレーしたりするのは気持ちいいものよ」
店主は、どちらかというと、日常の生活の中でオーデコロンを使ってもらいたかったようだ。
しかし、プレゼント用の高価な香水の売り上げがよかったおかげで店は続いた。
数万円もする香水が、一日に何本も売れたという。
トイレの前という立地も、決して悪くはなかった。
トイレに来たようなふりをして、さっと香水を買っていく男たちは多かった。
店主はそんな男たちを、男性とは言わず、殿方という。
古めかしいその口調は、私を会社や自分の生活とは違う世界に連れて行ってくれる。
ただし、そんな殿方が素晴らしい男かどうかは、わからない。
現実は私の上司よりも、もっと嫌なやつかもしれなかった。
私の思いに気づいたのかどうか、店主は
「さあさあ、昔ばなしはこのくらいにして」
と話を変えた。
それから、遠慮しながら私に訊いた。
緑色の革張りの安楽椅子を引き取ってもらえないか、と。
最初に声をかけられた時、店主がうたたねをしていた、店の奥にある椅子だ。
あまりに嬉しくて、私は声が出ず、ただ、黙って頷いた。
「いいんですか?」と聞いたが、声はしゃがれてしまった。
「他にほしいものがあれば、なんでもあげるわ。
香水でもなんでも」
急なことで、私は驚き、訝しんだ。
この狭い店は物が極端に少なかったが、ガラクタの類はどこにもなかった、
香水が載っている小さなテーブルも、かなり凝ったものだった。
店主は小さいとはいえ、家を持っている。
そこに店の物を持っていくのではなかったのだろうか。
「最初はそう思っていたのよ。
でもね、手伝ってもらってよくわかったわ。
自分がどんなに年取っているかを。
自分の家に住もうと考えていたのよ、当たり前のように。
おかしいわね、自分ひとりで暮らしていけると思っていたの。
通勤もなくなるから、朝ゆっくり起きて、散歩したり本を読んだりすればいいって。
でもね、この店すら片づけられなくなっているのに、ひとりで何もかもやれるわけがない。
ようやく実感したのよ。
手伝ってもらわなかったら、店を閉めることだってできやしない。
もう、誰かに頼らなくてはいけないことを自覚しなくちゃってね。
自宅を処分して、老人ホームに入ることに決めたのよ、昨日」
店をたたむだけなく、やらなくてはならないことが一挙に増えた。
自宅を片づけ、家を売り、老人ホームを探すというのは、大事業だった。
同じ地下街の喫茶店で、私たちは何度も話し合い、ふたりでとりかかる決心をした。
店主は何度も私に言った。
「成り行き上、私がやるしかないなんて考えないでね。
店をたたむお手伝いを、私は確かに頼んだわ。
でも、そのあとのことはまた、別問題よね。
手伝わないとはっきり口にしたからといって、何が変わるわけではないのよ」
店主が私に頼んだのは、あの緑色の革張りの椅子をもらってくれということだけだった。
しかし、私は彼女の人生の最後の引っ越しを手伝うことにした。
あの店に出会えたのは、案外、遅くはなかったのかもしれないと私は思えるようになった。

家を買ったこともない私が、家を売ったのは妙な話だ。
私はこれまでの人生で、かかわったこともない仕事に挑戦した。
インターネットを利用し、私は彼女の資産で入れそうな老人ホームを探した。
いくつもの老人ホームに、実際に足を運び、それがふたりの小旅行になった。
調べてみると、ひとからげに老人施設といえるものではないことがよく分かった。
私は不動産売買に関する本や老人医療の本を読んでは、店主に説明した。
人に説明するのはむつかしく、質問されるとしどろもどろになる。
自分でもわからなくなり、途方にくれていると、
「もう一度、ふたりで読み直してみましょう。
私だってわからないのよ。
でも、ふたりならどうにかなるわよ」
と店主は励ましてくれた。
私が理解し、彼女に説明したのは確かだったが、私の頭が動くように仕向けてくれたのは彼女だった。
私は有能だとほめられた。
まさか、と思いながらも、あの「お嬢さん」という言葉同様、私には何よりうれしかった。
彼女とふたりで外出し、食事をしてはおしゃべりをした。
「香水はひとつずつ渡すことにするわね」
店主と会うたびに、私の部屋には香水やオーデコロンが増えていった。
寝る前に香りを楽しんだ。
マリリンモンローのように、シャネルの5番だけを着てベッドに入るというようなことは決してなかったが。
店を閉じて、店主は老人ホームに入居した。
彼女の住む場所を確保してから、家を片づけるようにしたのは、私のアイデアだった。
店がなくなり、自宅がなくなって新しい場所に住むのは、辛いことのように思われたからだった。
店主は老人ホームから自宅にやってきて片づけをすることを面白がった。
「こんなに小さい家でも、片づけることはいろいろあるものね」
週末にふたりで家を片づける作業は、昔語りを引き出すことにもなった。
香水瓶に描かれている女性の顔の原画と思われるものが、寝室に飾ってあった。
「デパートに支店をいくつか持っていたのよ。
オリジナルの香水も、あのころはあったの。
その時のパッケージ用に描いてもらったの。
これはホームに持っていくわ。
残り香のようなものかしらね」

家の売買だけは時間がかかった。
不動産業者との電話やメールのやりとりは、主に私が担当した。
店主はパソコンを持っていなかったし、電話のやりとりは聞こえづらいときもあるようで、苦痛になっていたからだった。
業者は、私を娘か親戚の人間だと思い込んでおり、
「若い人がいてよかったですね」
と会うたびに言った。
本当のことを知ったら、さぞかし私を疑いの目で見たに違いない。
私がそういうと、老人ホームで会った店主は笑った。
「そうよね、でも、どっちが悪者かわからないわね。
利用しているのは私なんだから」
たしかに、母が言うように彼女に利用されているかもしれない。
しかし、香水を楽しみ、不動産の知識を得て、老人ホームに関することまで私は物知りになった。
不動産業界に転職する気もなかったが、国家資格まで取ってしまった。
家の売買のために本を読み、説明する私に、店主が勧めたのだった。
今さら受験勉強なんて、と私は尻込みした。
「手伝うだけで終わったら、なんだかもったいないわ。
きっとできると思う。
今の仕事には必要ないかもしれないけれど、だからこそ、気楽に勉強してみたら?」
勉強は予想以上に大変だった。
やめようかと思いながらも、店主に会うと報告し、すごいとほめられると励みになった。
勉強の途中で家が売れ、手伝いのすべてが終わった。
ひまになり始めていたから、資格試験はいい刺激になったのかもしれない。
店主の手伝いをしてみると、私が本来の自分の仕事に対し、かなり怠け者であることを感じた。
上司がそんな指摘をしたわけではない。
もちろん、真面目に勤めてはいた。
しかし、月末に給料をもらうのは当然で、ボーナスが減ると文句ばかり言っていた。
そんな自分を、私は少し恥じた。
考えてみれば、20年近く部署も変わらないことを言い訳にし、仕事に関する勉強などしたこともなかった。
店主の家を売るためにも、私は勉強をしようと考え、売れた後も同じ気持ちを持ち続けた。
約1年、私は退社後は試験勉強に没頭した。
老人ホームに行く時間も減らした。
手紙で伝えると、彼女から返信があった。
「いいことですよ。頑張って」
黄ばんだ葉書に大きな文字でそれだけが書いてあった。
住所も書いてはなかったが、彼女だとわかった。
その葉書には、寝室に飾ってあったあの女性の顔の絵が描いてあった。

模擬試験が本番前に数回あった。
受けてみると、判定は一応合格ラインだった。
少し安心はしたが、実際の試験はとても難しいらしい。
本業が不動産関連の人には必須の資格らしく、社員らしき人が会場には多かった。
自分には何の制約もないのが、唯一の特権かもしれなかい。
試験が近づいてくると、私はそう思って心を落ち着かせていた。
困ったことがひとつだけ起きた。
試験日は日曜日だったが、あいにく社内運動会と重なってしまった。
社内運動会だけでなく、私が入社したころに消えたイベントが復活し始めていた。
仕方なく、私は欠席の理由を伝えた。
「へえ、資格試験なんてすごいね」
人事の担当が驚いている。
「遅れていいから、ちょっとだけでも顔出してもらえる?
飲み会だけでもいいから」
押し切られて、打ち上げのほうだけは出席する約束をした。
実際の資格試験は予想以上に難問で、模擬試験とは全く違った。
私は焦り、解答欄のマークシートを塗りつぶす手が震え、何がなんだかわからない状態だった。
それでも、私は必死に問題を読み、解答欄を埋めていった。
90分という時間はあっという間に過ぎていった。
ベルが鳴った時、どうにか私は解答し終わっていたが、見直す時間もなかった。
私は茫然とし、一年近く勉強したことが、なんの意味もなかったように思え、落ち込んだ。
周りの人たちはみな、落ち着き払っているように見えた。
運動会の打ち上げには行きたくなかったのだが、約束した以上仕方なく、私は会場に向かった。
そのまま帰っていたら、食事もとらず、落ち込んだままだったにちがいない。
運動会の興奮が冷めやらない同僚たちに囲まれ、打ち上げが終わったころには試験直後の気持ちは消えていた。
店を見つけたときの忘年会もそうだったが、結局、私は会社のイベントに助けられていた。
仕事仲間とはよく言ったもので、気が付けば親よりも長い間一緒に過ごしている人たちだった。

「最初に私が声をかけたでしょ、あの時、死神がやってきたとばかり思ったの」
資格試験が終わると、すぐに、店主は私をレストランに招待してくれた。
家の売買が成立した時、手伝いはすべて終わったのだが、私の試験勉強の最中だったからだ。
食後のコーヒーを飲んでいるとき、店主がそういった。
「私を死神だと思ったんですか?
でも、私、よく憶えていますが、とっても落ち着いていましたよ」
「そう、落ち着かなくちゃと必死だったのよ。
いつのまにかあの椅子で眠ってしまって、気付いたら誰かがいたのよね。
どうして泥棒ではなく、死神と思ったのかしらね。
もう死神が来てもいい年だと思っていたんでしょうね。
ただ、そのまま連れていかれるのは嫌だったから、怒らせないように丁寧な口調にしたのよ。
店は閉まっていますからとね。
ありがたいことに死神じゃなかったのよ。
幸運の女神ってところかな」
そう言って、店主はにっこり笑った。
その日、店主は深い緑の地に、青色や辛子色の線が入ったシルクのワンピースを着ていた。
長い金のネックレスがきれいだった。
明るい老人ホームの時とはちがい、少し暗めのレストランでは、店主はさほど年取って見えなかった。
私は彼女を眺め、美しい人だと思った。
なぜ、香水の店を開いたのかも、どんな人生を送ってきたのかも、よくは知らない。
ただ、なぜか私を信用してくれ、私と時を過ごしてくれた。
「今、社内公募の企画があって、応募してみようかと考えているんです。
ちょっと面白いことを考えたんです。
自分でもやれることがあるんじゃないかと思って。
こんなこと、今までなかったんですが」
私は、自分の中で温めている考えを口にした。
自宅で、あの緑色の革張りの安楽椅子に座ってくつろいでいるうちに浮かんできたのだった。
それは、香水の新しい販売戦略に関してのアイデアだった。
店に通い、店主に思い出話を聞いている間に、私の中にも香水への愛着が生まれ始めていたのだった。
「あの椅子も役にたったようね」
店主は嬉しそうな顔をした。
それが彼女と出かけた最後だった。
骨折をしたわけでもなく、入院をするような病気にかかったわけでもない。
ただ、老人ホームに見舞いに行き、私が外出を勧めても、
「不思議ね、もう出かけたいとは思わないの。
ここから外を見たり、庭を歩くくらいで満足なのよ。
気を遣ってくれてありがとう」
という返事だった。
私の企画が通ったことを告げた時も、よく理解してはいないように思われた。
日常の仕事と、特別プロジェクトの2つを掛け持ちすることで、私は忙しくなった。
しかし、2つの仕事をするのは、これが初めてではない。
私はプロジェクトの最初の企画者として、まずは他のスタッフに丁寧に説明できるよう努力した。
周りにわかってもらい、企画を実現したかった。
そのために手間をいとわず、目的を達成するために根気よく仕事ができたのは、店主のおかげだった。
私は、プロジェクトがうまくいかなくなるたびに、彼女とふたりでやり終えた、いくつものことを思い出した。
老人ホームをいくつも見学に行ったことを思い浮かべた。
自宅の片づけも大変だった。
しかし、店主がふたりで決めた老人ホームに入り、くつろいでいるのを見たときは嬉しかった。
仕事がすべて終わった時は、達成感があった。
プロジェクトは香水に関係していたから、私はいつも店主を思い出しては仕事をした。
あの古いビルから、このプロジェクトは始まっていた。
ビルはすでに取り壊しが始まっていたが、このプロジェクトを私は思い出のあのビルの中に作ろうとしていた。
どんな苦労をしても、成功させてみせる。
そう思うと、諦めたりなげやりにはならなかった。
仕事の合間に、私は老人ホームに行った。
彼女は病気もなく、静かに暮らしていた。
ただ、彼女と私の間には、いつしか、薄い布がかかっているように思えた。
彼女は、あの店同様、この世の奥まったところでひっそり眠っているようだった。

地下に香水の店があったビルは、辺りの同じような古いビルとともに、再開発のために壊された。
ビルに覆いをかけ、解体作業が続いていたが、そのうちに何もかもがなくなった。
駅の周りは、急に見晴らしがよくなり、プラットフォームが良く見えた。
あと数年もすれば、駅は、みごとな建物群に取り囲まれるにちがいない。
近ごろのビルは、2階や3階のベランダ部分に大きな木が植えられている。
街路にも立派な樹木が現れ、埃っぽかった駅周辺は、まるで公園のようになるだろう。
「私も見に行きたいわね。
生きていたらね」
見舞いに行くと、久しぶりに店主がそんな言葉を口にしてくれた。
最後に意識がしっかりしていたのは、なぜだろう。
彼女が住む部屋はとても狭い。
「店にいるみたいだから、落ち着くのよ」
彼女はそう言って、このホームを選んだのだった。
「あなたも来てくれるのだから、ほんとに店と同じね」
成功した香水のプロジェクト名に、私がこっそり店の名前を入れているのを彼女は知らない。
これは私だけの秘密だ。