Novel(百物語)
02ten

すれちがい

久しぶりに会った笹塚は、まったく面影がなかった。
苗字も変わっていたから、私は接待先のえらい女性としか思わなかった。
笹塚は私の隣に座っていた。
話はするが、取引のことではもちろんなく、天候や世間話をあたりさわりなくというところだ。
少々目つきの悪い女性だと思ったが、近視かもしれないと考えるようにした。
私も仕事上は失礼ギリギリの男だから、相手の視線など気にするわけにはいかない。
昼間からこんなに高いランチを口にするのは久しぶりだった。
会食相手がすべて女性というのも珍しい。
しゃれたレストランに決めたのは、そのせいかもしれない。
いつもは話題豊富な部下が、緊張しているのか、無口になっている。
それを見ているのが面白く、私はフランス料理をゆっくり味わった。
コーヒーと紅茶が出るころに、トイレに行くかのように部下が席を立った。
支払いに行ったのだろう。
「高田だよね」
隣の女性が顔を寄せてきて、小さな声でそう言った。
私は心底驚いた。
もちろん、顔には出さない。
しかし、ここ何年、こんなにびっくりしたことはなかった。
「ということは、おまえ、もしかして笹塚?」
同じように小声で返すと、笹塚はにたっと笑った。
そうだ、この顔だ。
女の子が、顔をつぶしたようなとんでもない表情をなぜ平気でするのか、高校生の私は全くわからなかった。
ふつう、思春期の女生徒というものは、自分をなるべくきれいに見せたいと思うのではなかろうか。
笹塚は決して美人ではないが、醜い顔ではない。
それなのに、彼女はこの表情が大好きなのだ。
何度、やめろといったかわからない。
「お前、鏡を見たことあるのか?
そんな顔すれば、だれも近寄ってこないぞ」
「ええ、ええ、いいんですよ。
だって、好きなんだもん。この顔すると、なんかすっきりするんだから」
座席が近くだった私と本田はよく注意したのだが、笹塚はまったく聞き入れなかった。
あの頃、私が笹塚をもっと観察していれば、どのタイミングで彼女があの表情をするか、わかったはずだった。
しかし、笹塚を観察する趣味は私にはなかった。
笹塚は国語と英語だけが得意で、国語のできない本田と私を馬鹿にする。
本田は真面目に勉強する優秀な生徒で、国語ができないといっても、国語だけはトップの笹塚に負けているというだけだ。
国語以外の教科では本田のほうがずっと上位だったのだが、彼女は日本人で国語ができないのは情けないといい、
ちっとも反省しなかった。
笹塚は他人の言うことを聞かないけれど、面白いやつだった。
私だけでなく、クラスの他の連中もそう思っていたに違いない。
ひとつだけ、よく憶えていることがある。
笹塚がいやにしつこかったからだ。
笹塚の好きな国語の話だ。
「邯鄲の夢」ということわざを教師が説明した。
不思議な枕を借りてみた夢で、人もうらやむような一生を知る。
しかし、目覚めてみると、朝食もまだできていないほどの短い時間だったらしい。
人の世の栄枯盛衰は儚いことのたとえとして使われると、さらっと教師は説明した。
高校生にとっては、はあ、そうですかという感想しかない。
そういえば、ラーメンの湯を沸かしている間にテレビに夢中になって、大変だったことがあると思い出す程度だ。
授業の後に、笹塚にそんな感想を一言伝えたら、百倍くらいのお説教をくらった。
笹塚はもともと、「邯鄲の夢」を知っているらしい。
「ねえ、わかんない?
自分って何をしているんだろう、と思って、あの人は枕にたどり着いたんだよ。
それから見た夢はね」
と教師の何倍も正確に話をしてくれるんだが、私も本田もろくに聞いてはいなかった。
「お前、国語の教師になりたいの?」
と本田に話の腰を折られ、笹塚は怒って教室を出ていった。
あいつだけは、きっと何かを感じているんだろうね。
そのあたりにいた男子生徒が出した結論は、そういうことだった。
それだったら、先生と討論すればいいのに。
私はそう思ったが、私と本田にからんできた理由が、まったくわかってはいなかった。
私が笹塚を怒らせたことは何度もある。
「国語に対しては、お前は素直なんだよね。
どうして、化学や数学の時、わからない自分に対して素直にならないんだよ。
わからなかったら、どこができないのか、素直になればいいじゃないか。
教えている教師が悪いとか難癖ばかりつけてさ。
古典と化学と先生自体、たいして変わんないよ。
教科で態度変えているのはお前だよ」
少しも反省しない笹塚は、そういう時、必ず本田に聞く。
「本田君はどう思う?
私は素直じゃないかな?」
本田は困ってはいるものの、まったく正直に
「素直じゃない」
と答え、私はひとりで笑っていた。
ただ、笹塚は読解力はあるやつで、「邯鄲の夢」を素材にした夏休みの作文は、私たちを圧倒した。
「朝食を作っている間の夢だろ、すごいよな、それだけでこんだけの文章を作るんだから」
本田は心底感心したように私に言った。
私もまったく同感だった。
卒業した後も、高校からの腐れ縁で三人でよく飲み歩いたものだった。
大学も違うのだが、偶然、住んでいるアパートが近かった。
それが、いつのまにかすっかり音信が途絶えてしまった。
社会人になればそういうものかもしれないが。

おえらいさんが笹塚とわかって、私の食欲は落ちたが、残っているのはコーヒーとケーキだけだ。
なんの味かもわからず、私はケーキをさっさと平らげた。
「それではこれでお手合わせということで」
と部下がわけのわからないことを言っている。
私たちは戸外に出た。
「これからのご予定は?」
と笹塚が聞いてくる。
「いや、ちょっと出かけるところがあって」
と私が言っているのに、笹塚はしつこかった。
「高田は逃げるの?」
と低い声で私を脅しにかかる。
部下たちが、私と笹塚を見ている。
なごやかに会食をすませたと思ったのに、やはりトラブルでもあったのだろうか。
互いの部下がそんな顔をしている。
「1点だけ納得していらっしゃらないようだから、さっさと話をつけてくる」
私は部下にそう説明し、笹塚と二人になった。
「お前変わったな、まったくわからなかった」
そう言うと、笹塚は笑った。
「高田ってまったくかわらないんだね。変わらなさ過ぎてびっくりした」
それから、真顔になって、
「女性に向かってそういう言い方、ないんじゃない?」
と言った。
「男に向かって、逃げるのかなんていうやつが女性だとは思えない」
私も真顔で返した。
互いに音信不通になってから30年以上も経つはずだが、そんな気分がしなかった。
「お前、なんで急に連絡しなくなったんだよ」
笹塚は返事をせずに、
「本田君は元気なの?」
と聞いてきた。
今度は私が返事をしなかった。
これからの予定は、まさに彼の見舞いだったからだ。
誰にも言うなというから、本田の周りの人間ですら、彼の病状を知らない。
もう余命もわずかしかない。
彼の見舞いに行こうと考えた日に、まさか笹塚と会うとは思ってもみなかった。
一瞬迷ったが、本田との約束を破ることにした。
笹塚と本田と私の三人は、なんとなく仲間だったような気がしたのだ。
「一緒に本田のところに行くか?あいつに会うのはこれが最後だと思うよ」
予想していたとおり、笹塚の表情は変わらなかった。
「えっ、何があったの?」
とか
「どうしたの?」
と反応を見せない。
それが、笹塚らしかった。
やっぱり、こいつ、笹塚だと私は思った。
高校時代からそうだった。
女子生徒にしては珍しい。
かわいげがないともいえる。
何を考えているのか、よくわからない。
その割には、彼女から男子生徒に告白しては振られていた。
からかわれると、自分でも笑っている。
男としては付き合いやすかったが、女子というよりは、なんだか変わったやつという感じだった。
都会は車より電車のほうがスムーズに移動できる。
私たちは電車を三度乗り換えて、本田のいる病院に向かった。
電車の中で、私は本田の病状をある程度伝えた。
「高田と今日会えたのは、ほんとに幸運だったんだね」
笹塚はぽつりと言った。

見舞いの品も何も買わずに、私たちは病院のエレベーターに乗った。
何かそういうことを途中で尋ねるのかと思ったが、笹塚は何も言わない。
もしかして、私が買うものと思っているのだろうか。
「笹塚はえらくなったからな」
私が嫌味でそういうと、
「たかがこれしきで」
とあの表情で笑った。
私はなんだか嬉しくなった。
本当に久しぶりに三人で会うのだ。
「手土産は笹塚だな」
私は笑ってそう言った。
「そうだ、何か買ってくればよかったね」
「なんだ、忘れていたのか」
そういいながら、私たちは本田の病室のドアを開けた。

本田は眠っていたが、私たちが入ってきた音で目を覚ましたようだった。
ぼんやり私を見ていたが、後から入ってくる笹塚に気づき、不審な顔をした。
私は説明しようとしたが、笹塚はまっすぐ本田の元に行く。
上等な毛皮のコートを着ている小太りの笹塚は、まるで外国の女のようだ。
呆れたことには、まさに外国人のように、ベッドの中の本田を抱きしめているのだ。
「お前、これ、誰だよ」
抱き付かれた本田は、バタバタしている。
「あたしだよ、笹塚だよ」
すました顔で彼女は言い、毛皮のコートを脱いだ。
思わず、私はコートを受け取り、執事のような気分になった。
「えっ、笹塚か」
本田はまじまじと彼女を見つめている。
「お前、変わったな」
「今日、高田にも言われた」
表情一つ変えず、笹塚はそう言った。
「二人とも変わらなさすぎよ。いや、あんたは変わりすぎだけど」
「お前、こいつにしゃべったな」
本田は私をにらんだ。
「許してあげてよ。
高田のところに受注するかどうか、決裁者はあたしなの。
脅しちゃったから」
「まあ、お前ならいいや」
本田は寝返りをうち、まっすぐ天井を見上げた。
「お前、急にいなくなっただろ。
年賀状くらいよこせよ。
人に言えないような結婚でもしたんじゃないか」
「そうだったら、今頃、高田とまっとうな仕事をしているわけないでしょ。
学生時代の付き合いって、いつかは消えるものよ」
笹塚は冷静な口調で言った。
本田は、以前よりも元気に見えた。
笹塚と会ったせいだろうか。
私たちはそれから10分ほどで部屋を出た。
「じゃあまた」
笹塚と私は本田にそう言った。
「じゃあな。わざわざありがとう」
本田はそう言い、目をつぶった。
本田とは、それが最後だった。
彼の葬儀に私は出かけたが、笹塚は海外出張中だと聞き、私はそれ以上は連絡をとらなかった。
初盆に、私は笹塚を誘って墓参りに行った。
毛皮のコートを着ていなくても、笹塚に昔の面影は全くない。
それなのに、そばにいると、ふっと昔の笹塚が現れてくる。
なんだか能の舞台みたいだと私は思った。
過去がふいと現れてくる。
生きていると、いつのまにか能面をかぶっているのだろうか。
「あいつはお前の気持ち、全然気づかなかったんだね。
そういう俺だって、ついこの間までわからなかった」
私が墓の前でそういうと、思った通り、笹塚はあの表情で笑った。
「男ってぼんくらなのよね」
本田は惚れっぽいやつで、しょっちゅう同級生の誰かに告白しては振られていた。
自分では隠しているつもりなのだろうが、会話のはしばしに、相手をほめる言葉がでてくるから、すぐにわかる。
新しい女子生徒の名前が出てくるたびに、笹塚も似たような行動をしては、ふたりで笑いあっていた。
本田が誰かを好きになり、振られたことがわかると、笹塚はあの表情をしていたことを、私は全く気付かなかった。
笹塚は、変わったやつでもなく、人一倍純情な女の子だった。
きっと、私たちの前から姿を消したのも、本田が結婚した時なのだろう。
「高田と一緒に仕事するなんてね。
おかげで最後にようやく会えた」
笹塚は墓石を丁寧に洗い終えると、ひしゃくで水をかけた。
ただ、私にはその仕種が、ぼんくらの本田に冷たい水をかけているように見えてならなかった。