Novel(百物語)
02ten

こども図書室に出るものは

敏子さんはまだ65歳だが、近所を歩くたびに、自分が年寄りになったように感じる。
浦島太郎はこんな気持ちだったのかもしれない。
理由はなんとなくわかっていた。
近所に高層マンションが立ち並び、ここ数年で自宅周辺の風景があまりに変わっていったからに他ならない。
結婚してこの土地に住み、もう30年以上になる。
出産、子育て、パート、子どもたちの独立、親の死、現在の仕事と、いろいろなことがあった。
しかし、つい数年前まで、町の雰囲気だけは変わらなかった。
不便な場所で、地下鉄もJRも、もちろん私鉄もない。
敏子さんの周りの人は、すぐに「陸の孤島」という言葉を使いたがる。
しかし、島出身の敏子さんだけは、その比喩がどうしてもなじめない。
全然違うと思う。
ただ、都会にしては少々不便だと思っていた。
最寄りの駅まで行くのに、自転車かバスを使うしかなかった。
近所には、工場や倉庫は多かった。
不便な場所だが、都心に近いせいだった。
ホテルのパン工場は、月に1回、地元サービスがある。
足を踏み入れたこともない有名なホテルのパンやケーキを、手頃な値段で買えた。
幼稚園に子どもを送った帰り、敏子さんも月に1度は工場まで自転車で通ったものだ。
近所の共働きの夫婦にも、おすそ分けした。
敏子さんの長男が、その家の息子をよく泣かせていたから、お詫びの品でもあった。
魚の粕漬で知られた店の工場もあった。
大手衣類メーカーの流通センターでは、近所の主婦の多くがパートをしていた。
そこでも、年に2回バーゲンがあり、仲間がバーゲン情報を教えてくれる。
家族の衣類を少しでも安く手に入れようと、敏子さんは友人たちと自転車で走り回ったものだ。
慣れ親しんだ倉庫や工場が、この数年、あっというまに消えていった。
それはあたかも、誰かが敏子さんの生活をつぶさに観察しているかのようだった。
家族のために買い物はするが、もう以前のようではない。
夫と2人分の食品など、たかが知れている。
育ちざかりの子供が4人もいた頃とは、状況がすっかり変わってしまった。
安いからといってたくさん買い込むほうが不経済なのだ。
そうはいうものの、見慣れた風景を形作っていたものが消えていくのは、心が落ち着かなくなる。
便利になり、きれいな街になるのは嬉しいのだが、気持ちはあちらを応援したりこちらに声援を送っていたりと、自分でもわけがわからない。
その合間に、解体された工場跡地では、高層マンションが雨後の筍のようにずんずんと天に向かって伸びていく。
住民の長年の夢だった地下鉄の駅がようやく完成したからに違いない。
地価が上がり、夫は今頃になって、マンションではなく、狭くても一戸建てを買うべきだったと愚痴をこぼす。
この場所を離れ、どこに行くつもりなのだろう。
敏子さんは夫が決して嫌いではないが、この年になっても、夫の頭の中がよくわからない。
二人が住むマンションは8階建てだ。
その当時、この土地には珍しい建物だった。
しゃれたこぎれいなマンションに住むのがとても嬉しかったのを、敏子さんはよく憶えている。
中古の、狭くてきれいでない一戸建てを望まなかったのは、たしかに夫が言うように、敏子さんの希望だったかもしれない。
敏子さんは、今でもこのマンションが好きだった。
30年経って、少々みすぼらしくなっているマンションは、鏡に映った自分の姿のようで、いとおしく感じる。
子どもたちが出ていくと、夫婦二人で暮らすには十分すぎるほど広かった。
男の子4人が使った二つの部屋からベッドと勉強机を捨て、壁紙を貼り変えたただけで、夫婦それぞれの個室が生まれた。
家の中に隠れ家があるのが、敏子さんには嬉しくてならない。
夫も同じ気持ちらしく、ほとんど同居人のような生活になっていた。

敏子さんに似ている建物がもうひとつある。
マンションと同じく、高層マンションに埋もれてしまった2階建ての保健所だ。
Hの形をしていて、手前は保健所、Hの横棒の奥はアパートになっている。
四番目の子どもの友達がそこに住んでいたから、敏子さんにとっても身近だった。
息子が見当たらないときは、敏子さんはまずそこに出かけたものだ。
たいてい、男の子たちが数人、アパートの入り口付近にいた。
しゃがみこんで、ゲームをやったり、壁に向かってサッカーボールを蹴っていた。
古いがしっかりした造りで、壁の厚さは驚くほどだった。
いたずらな子どもたちは、外階段からよく飛び降りて遊んでいたが、怪我をしたことはなかった。
たとえ、足をくじいても親に言わず、親もまた気づかなかったのかもしれない。
子どもが4人もいると、気付いていないことはたくさんあった。
40を過ぎてできた末っ子の子育ては、かなりいい加減になっていた。
腰痛が出始めた敏子さんは、上の子供たちが学校に行ってしまうと、時間を見つけては横になっていた。
なるべく楽にというのが、敏子さんがそのころ覚えた4人の子どもの子育てだった。
末っ子と公園に出かけ、砂場で一緒に遊ぶことなどなかった。
子どもは勝手に遊んでいた。
午後になれば、兄たちが学校から帰ってきて、ついでに末っ子も連れ出してくれるから、どうにかなった。
敏子さんは認めたくないが、もともと神経質でなかったともいえる。

保健所の一隅には、子どものための図書室があった。
図書室と言っても背の低い本棚がいくつかあるだけだ。
奥には、白いカーテンで区切られた小さなコーナーがあった。
レントゲン室か、あるいは保健所ならではの検査室なのかと、敏子さんは思っていた。
そこが、子どもたちのおはなし会の部屋だと知ったのは、ずいぶんあとになってからだ。
敏子さんの子どもや仲間たちは、誘われても、おはなし会に行くようなタイプでもなかった。
いつも、保健所の奥のアパート側で遊んでいる。
敏子さんも、時々、思い立って紙芝居や絵本を借りたりする程度しか、図書室を利用することはなかった。
ある日、息子が言った。
「おかあさん、あそこでろうそくをつけるんだ。暗くなってね。それから絵本を読むんだよ。
こわかった」
珍しく、敏子さんの子どももおはなし会に行ったらしい。
遊園地のジェットコースターは少しも怖がらない息子がそんなことを言うのが、敏子さんには面白かった。
「へえ、おかあさんも今度行ってみようかな」
「残念でした。子どもしか入れないよ。お母さんたちは入りたくても追い出されるんだから」
「だって、ひとりじゃだめな子もいるんじゃない?」
「そうなんだ。だから、カーテンから出された子もいたよ」
息子は得意そうな顔をした。
これで少しは本でも読む子になってくれるのかと、敏子さんは期待したが、息子がおはなし会に通ったのは数回だけだった。
やはり飽きたらしい。
それでも、時々息子は図書室の話をしてくれた。
小学生も高学年になったころ、あそこには幽霊がいると教えてくれた。
「おかあさん、知ってた?
あの図書室で小さい子がひとりで絵本を読んでいると、おばあさんが出てきて読んでくれるんだって」
「また、あんた嘘ばかりついて」
「ほんとだよ。みんな言ってるよ。
怖い人じゃないんだって。
そのおばあさんは、子どもが死んだから、俺たちに本を読んでくれるんだって」
敏子さんは息子をつくづく眺めた。
息子はサッカーがうまかった。
マンションでも、保健所と続いているアパートでも、迷惑がられても飽きることなくサッカーボールを壁打ちしたせいなのだろうか。
兄たちに交じってサッカーボールを蹴っていたが、小学校にはいると、サッカーチームに入り、いまは都の選抜チームにも選ばれている。
身体もずいぶん大きくなり、サッカーのおかげで少しは成長したかと思ったが、やはり親ばかだったと敏子さんは改めて思った。
その時、敏子さんが悟ったように、息子たちは誰もサッカー選手にはならなかった。
「なに言ってんの、あんたのところは、みんなすごいじゃない」
そういわれることもある。
たしかに、4人全員、高校までサッカーを続け、都のベスト8にまで残ったとなれば十分だ。
子どもたちは、みんなさっさと家をでて、上の二人は結婚までしてしまった。
「早く孫ができないかな」と夫は言うが、敏子さんはとんでもないと思っている。
息子の結婚相手が嫌いなわけではなく、そんなスピードにはついていけない。
「だってお前が赤ん坊の相手をしているのは、そのせいだろ?」
夫はのんきに言う。
「まさか」
呆れて敏子さんはつぶやいた。
しかし、考えてみると、夫がそう思うのも無理はない。
彼女の現在の仕事は、若い母親の育児補助だ。
軽い気持ちで始めたボランティアだったが、いつのまにか、仕事になった。
4人も子どもを育てた経歴は、影響力があるらしい。
研修を受け、若い夫婦の家庭に行き、相談を受けたり手伝いをする。
保育園で働こうかと思ったこともあったが、今の仕事が楽しく、いつのまにか5年以上続けている。
しかし、だからといって孫のことなど考えたこともなかった。

その日、敏子さんは若い人に声をかけられた。
以前に敏子さんに子育てを手伝ってもらったことがあるという。
「私のこと、憶えていますか?」
子ども連れの若い女性は元気そうで、敏子さんは嬉しかった。
「あの時は、本当に助かりました。どうしていいか、わからなくて、もうパニックだったから」
親子連れは図書室に向かっていた。
「あそこには今も白いカーテンがあるの?」
敏子さんは尋ねてみた。
母親が頷くより早く、手をつないでいる小さな男の子がうんと答えた。
「へえ、私も行ってみようかな」
敏子さんも親子の後について、久しぶりに保健所の建物に入っていく。
男の子はおはなし会が楽しみらしく、母親と敏子さんにバイバイと手を振って、カーテンの中に消えていった。
若い母親は貸出カウンターに向かう。
手持無沙汰で、敏子さんは絵本を眺めた。
「ねえ、読んで」
小さな子がやってきて敏子さんに本を押し付ける。
しゃがみこむと、敏子さんは読み始めた。
気が付くと、小さな子はいなくなっている。
「おやおや」
苦笑いをして、敏子さんは立ち上がった。
さて、買い物でも行こうか。
母親に手を振って、敏子さんは図書室を出た。
「今、おばあさん、いなかった?」
「いたいた、ぼく、見たよ」
「あの子に絵本、読んでいたよね」
「やっぱ、いるよね、ここ」
図書室に出る幽霊のひとりに数えられてしまったことを、敏子さんは知らない。