Novel(百物語)
02ten

傘の出番

雨が降って、屋外にいたら濡れる。
その点は誰も反論しないのだが、濡れることをどう感じるかは、人それぞれだ。
雨降って地固まるとはいうが、雨がきっかけで夫婦喧嘩が始まるとは、思いもよらなかった。
一緒に住んでみないとわからないことは多い。

彼は雨に濡れることが気にならない。
濡れて困ったと思ったことがない。
もちろん彼だって、建物から出る前に雨が降っていたら、傘をさすこともある。
しかし、外出中に雨が降り出しても、気にせず歩いている。
傘を持ってこなかったと苦にすることはない。
濡れても、そのうちに乾く。
霧雨などは、気持ちいいとさえ感じる。
人々が走り出すのが、彼にはよくわからない。
上等な洋服を着ていて、濡れたら困るということがあるのかもしれない。
しかし、周りを見ていると、雨に濡れることはとんでもなく困ったことのようだ。

彼が幼いころ、周りの大人たちは雨が降り出しても、全く変わらず普通に作業をしていた。
漁師のおじさんが、傘を差して網をたぐっていることなどありえない。
農作業中の両親は、雨が降ったからと言って畑仕事をやめることなどなかった。
黙々と仕事を続けていた。
遊んでいる最中に雨が降り、子どもたちも濡れてしまうことはよくあった。
家に帰ると、母親は「乾いてから帰っておいで」と言ったものだった。
たしかに、濡れた衣類は面倒だ。
汚れていても乾きさえすれば、後で洗濯もできる。
だから、子どもたちも大人同様、雨の中でも楽しく遊んでいた。

傘を持っていくのを忘れると、妻は彼を叱る。
散歩の途中で濡れてしまい、湿った衣服で帰宅すると、彼の身に一大事が起きたかのような大騒ぎをする。
妻が心配してくれるのはありがたいが、彼には不思議だった。
たいして降ってもいない雨の中を歩くのは、そんなに悪いことなのだろうか。
雨に濡れたら、すぐに死ぬのだろうか。
いや、そんなことはない。
彼は風邪すらひいたことがなかった。
彼が大したことではないと感じていることが、妻にとってはストレスになるようだった。
自分の考えが軽く見られていると思うのだろう。
なるべく喧嘩にならないようにしてはいたが、それでも五回に一回は口喧嘩になった。
「いい背広だったならまだ、わかるんだけど。
でも、今日のかっこうはTシャツにジーンズだよ。
そんなに困ることはないんじゃないかな。
洗濯が大変なら、俺がするよ」
「そういうことじゃないの。
おかしいでしょ。
雨が降るかもしれないのに、傘ももたないなんて」
おかしいといわれ、彼もつい口がすべる。
「たしかに俺はおかしいかもしれないね。
でも、田舎で暮らしていた人間はそんなもんだよ。
君の考えが俺と違ってもいいんだよ。
ただ、君が一番正しいっていう言い方だけはやめてくれないかな」
あとはお決まりの夫婦喧嘩だった。
三か月前のことまで持ち出され、えんえんと口げんかが続く。
彼が持っていくのを忘れた傘こそ、いい迷惑だったにちがいない。

そのうち、妻は彼をあだ名で呼ぶようになった。
いかにも外国の響きだった。
機嫌がよかったのか、ある日、妻はあだ名の由来を教えてくれた。
大好きだった絵本に出てくるカエルの名前らしい。
つまり、雨にぬれても平気だからということだった。
一応、妻が大好きだった絵本ということで、彼も反論はしなかった。
あだ名がついただけで、彼の行動は変わらず、妻も懲りずに文句を言った。
夫婦に、ふたり子どもができた。
どちらも男の子で、サッカーに熱中している。
幼いときから、彼が教えたわけでもないのに、マンションの中庭でボールを蹴っていた。
小学校入学とサッカーチーム入部は、同時だった。
中学生になると、もっと忙しくなった。
平日だけでなく、土日も練習や試合で埋まり、家族でどこかに出かけることは少なくなった。
それでも、母親は弁当を作って見送り、夕方に息子が帰ってくるのを心待ちにしている。
サッカーは、天候に関係なく試合をする。
雨の中でプレーをしているうちに、息子たちは雨に濡れるのが全く平気になっていた。
遠い試合会場から、自転車でびしょぬれになって帰ってくる息子を、母親は心配する。
「連絡してくれればよかったのに。
風邪ひかなかった?
気持ち悪かったでしょ」
息子たちは、元気そのものだ。
「試合の時にもうずぶ濡れなのに、帰り道に濡れたって、大したことないよ。
いまさら嫌になったりしないよ。
おかあさん、心配性だね」
こんなところで、彼に援軍が来るとは思わなかった。
田舎暮らしをしていない人にはわからないのだろうとあきらめていたが、
息子たちがスポーツを始めて同じ気持ちになるとは思ってもいなかった。
「あなたが言わせているんでしょ。まったく蛙の子は蛙ね」
妻は皮肉を言う。
そんな悠長な仕返しを彼がするわけがない。
「馬鹿だな。
どうして俺が息子に頼ってお前に仕返ししなくちゃいけないんだよ」
彼は言い返す。
しかし、妙なもので、家庭で多数派になってしまうと、面白くない。
気持ちというのは厄介だ。
妻の考えはもっともなことに違いないと、改めて感じるようになった。
「ねえ、今日は雨、降るらしいわ。
傘、持って行ってね」
相も変わらず、妻は彼が出かけるときにそう言う。
「わかった」
彼も返事だけは素直になった。
持っていくかと言えば、怪しいものだったが。
玄関にある彼の傘は、なかなか出番がやってこない。