割烹着
老舗デパートと道を隔てて、古びた喫茶店があった。
にぎやかな大通りに面したほうではなく、 従業員出入り口側だ。
搬入の車が絶え間なく出入りする裏口は、豪奢な正面入り口と、とうてい同じ建物とは思えなかった。
喫茶店とデパートの裏口のほうがしっくり合っている。
クラシカルといえば聞こえはいいが、時代を二週遅れしているほどに見えた。
どうしてつぶれないのだろうと、不思議に思えるほどだ。
しかし、ドアを開ければ、客でほとんど満席だった。
デパートの従業員も、よくやってくる。
移動距離がほとんどないから、短い休憩時間を少しも無駄にしなくてすむ。
背広姿の、商談中の男も多かった。
このあたりは小さな雑居ビルが多い。
応接間など持たない事務所には便利な店だ。
店内は意外に広く、八人や十人で来てもテーブルを確保できた。
もちろん、窓際の一人用の丸テーブルで静かにコーヒーを飲んでいる客もいる。
通りの様子は、店内からはよく見えるが、外からはただの褐色のガラスだ。
通りを歩く人をじっと見ても失礼にならないのはありがたい。
窓際に座って寂しげにクリームソーダを飲んでいる中年女性も、以前に来た時は通行人の姿を楽しんでいた。
デパートに中元の品を買いに来て、初めて店のドアを開けたのだった。
偶然に入った店だったが、案外落ち着いた。
だからこそ、その日は、どうしてよいかわからない感情を抑えるために、デパートの帰りではなく、わざわざその店にやってきたのだった。
それにしても、メニューの少ない店だと彼女は思った。
コーヒー、紅茶、日本茶、クリームソーダ、そして「今日のランチ」それだけだ。
これでは、何にしようかと迷うことも少ないにちがいない。
頼んだクリームソーダのアイスクリームを食べてしまうと、手持ち無沙汰になった。
彼女は思い出したように、時々、白濁している黄緑色のソーダをストローで吸った。
店内にいる客の話し声は大きかった。
うるさいはずなのだが、その日はかえって助かった。
まるで、彼女の気持ちをなだめてくれているようにも思える。
耳をすますと、音楽がかすかに聞こえた。
一応、この店も音楽はかけているのだと、彼女はおかしくなった。
笑うと、少し気分に余裕が出た。
姑の言葉に腹が立ったことも、冷静に思い出すことができた。
検診に行こうと急いでいる最中に、姑から電話がかかってきた。
時候の挨拶も抜きで、「もしもし、啓子さん?」という言葉すらない。
この人は、いつもこの調子だと、彼女は受話器を耳から少し離した。
姑の声が直接耳に流れ込むのが嫌だった。
手伝いにきてくれないかという。
「啓子さん、聞こえてる?」
「ええ、聞こえています」
彼女は答えた。
病院に行くといっても、検診だから予約をしているわけではない。
時間に遅れるということはないが、いつまでも姑と会話を続けたくはなかった。
なぜか、姑は必ず家の電話にかけてくる。
外出すると言って切ることができるのはありがたかった。
「来週から来てほしいの、週の半ばがいいわね。
午前中は大変だろうから、午後にお願い」
「考えておきます」
啓子は答えた。
「大丈夫よね」
「すみませんが、今すぐには答えられません。
おかあさんが大変なら、ヘルパーさんを雇ったらいかがですか」
「だから言ったでしょ」
姑の口調がだんだん険しくなってくる。
「私はまだ要介護にならないから、自費になるの。無理よ」
それでは、私はヘルパー以下なのか。
息子の妻はただで使える人間だと思っているのかと口にしたかったが、抑えた。
言ったところで、相手は泣き叫ぶだけだろう。
彼女にとって、何もいいことはない。
かつては、子どもが生まれないことをあからさまに非難するような姑だった。
「ああいう母親なんだ。悪い人ではないんだよ。でもわからないんだ。
この通り、俺があやまるから、許してほしい」
夫は何度もそういってくれた。
子どもができないのは、夫のほうに原因があった。
夫自身が母親にそう伝えても、母親は認めなかった。
「啓子さん、きちんとしたものをあの子に食べさせているの?」と真顔で聞かれたこともあった。
何十年も過ぎて、子どものことは姑の話題からようやく消えた。
しかし、年を取ってくると、今度は自分の生活の不安が問題らしい。
いつも自分のことしか考えられない人だった。
大喧嘩をしていないだけで、決して仲の良い関係ではないのに、いまだに息子や嫁が手助けしてくれると思っているらしい。
図々しいのか、お気楽なのかと、彼女は呆れてしまう。
夫だけは自分を守ってくれると長年信じていたが、近ごろはそうも思えなくなった。
妻と母親のどちらに対しても喧嘩をしたくないだけかもしれない。
結局、妻が我慢してくれさえすれば、どうにかなる。
なんの解決もしない夫であることは、さすがの彼女も理解するようになった。
しかし、そんな夫は世の中にたくさんいる。
期待しなければいいのかもしれない。
そう思い始めた彼女の悟りは浅かった。
そうでなければ、姑の電話にこんなに腹が立つはずもない。
その日、彼女は子宮がんと乳がん検診に行く予定だった。
無料検診表が、市役所から送られてくる。
彼女が検診を受けるのは、自宅近くの病院だ。
病院に行けば、辛い思い出がこみあげてくるが、スタッフの態度が悪いわけではない。
子どもができないかと望みを託し、何度も通ったからだ。
婦人科の待合室は、ほかの病院とは何か違う。
女性だけということもあるが、緊急を要する、いかにも病人に見える人が少ない。
問題を体の中に抱えているが、見た目は健康そうな人たちが、診断を静かに待っている。
がん検診なら、別の病院に行けばいいはずなのに、なぜか、足はここに向く。
家から近いという理由もあるが、女医さんが信頼できる人だった。
自分よりずっと若いのだが、気さくで話しやすい人だった。
不妊の相談にも親身になってくれた。
自分の身体の相談なら、あそこの病院がいいと思ってしまう。
子どもをあきらめたとき、つい、彼女は先生に尋ねてしまった。
「先生はお子さんいらっしゃるんですか」
先生はしばらく黙っていたが、頷いた。
「男の子ですか、女の子ですか?」
失礼なことを聞いているとはわかっていたが、止められなかった。
理不尽に思えてならなかった。
美しく知的で、そのうえ子どもがいるなんて、えこひいきとしか思えなかった。
「女の子が三人です」
先生は静かにそう言った。
彼女は圧倒されて黙ってしまった。
忙しい病院の医者でありながら、三人もの子どもの母であるなんて信じられなかった。
「私も女の子のお母さんになってみたかった」
彼女は小さな声でそう言い、涙ぐんだ。
「すみません」
先生もまた小さな声でそう言った。
触診を受けながら、彼女はあの当時のことを思い出していた。
「特に異常はありませんね。でも、何かあったら、ぜひすぐにいらしてください」
先生は、彼女の顔を見てそう言った。
検診を終えても、姑の言葉が頭に残っていた。
まっすぐ家に帰りたくなかった。
ひとり、家で過ごせば、ますます嫌な気分になっていくような気がした。
最初は美容院にでも行こうかと考えたが、倹約家なのか、けちなのか、もったいない気がしてやめた。
ふと思いつき、電車に乗り、かつて行ったことのある喫茶店まで足を伸ばしてみた。
彼女にとっては、小さな冒険だった。
しかし、ソーダ水を飲み終わると、手持無沙汰になった。
レジの脇に、白百合が無造作に活けてある。
彼女の席からは、真正面だ。
座っているだけで美しい白百合が目に入る。
彼女は、こんなにたっぷり花を活けたことはない。
白百合を眺めていると、贅沢な気分になった。
やはり、ここにきて正解だったと思った。
レジ台に紙が貼ってあることに、彼女は気が付いた。
「ウェイトレス募集」と書いてあり、「何歳でもかまいません」とある。
そういえば、と彼女は店内を見回す。
この店に最初に来た時から、何かが気になっていたのだ。
その理由がやっとわかった。
店員がみな年寄りなのだ。
注文を取りに来た女性は、どう見ても七十代だった。
自分でもできそうだと姑の電話のせいで、珍しく感情が高ぶっていたことが幸いした。
彼女は席を立ち、レジに向かった。
「あの、伝票は」そう聞いた店の人に、彼女は貼り紙を指した。
「私、働きたいのですが」
自分が口にしていることが、彼女自身、現実とは思えなかった。
自分にそんな行動力があったとは思えない。
しかし、いったん動き始めると、案外こわくないものだ。
おばさんになった証かもしれなかった。
働きたいと店の人に伝えると、彼女より十歳以上年上に見える女性は笑顔で答えた。
「はい、ちょっとお待ちください。オーナーを呼んできます」
まだ少し残っているクリームソーダをテーブルに置いて、彼女は店の奥に行った。
真っ白のワイシャツに上等そうなネクタイをしたオーナーが質問をするたびに、彼女は緊張した。
「週にどのくらい働けますか?」
そう聞かれても、彼女はすぐには答えられなかった。
「どのくらい働けばいいのでしょうか?」
そんなやりとりもオーナーは慣れているようで、呆れるそぶりも見せない。
おかげで、彼女も次第に落ち着いてきた。
しどろもどろの彼女の説明を、オーナーが辛抱強く聞いてくれたことも大きかった。
「つぶれそうな喫茶店に見えるでしょ」
オーナーはにやっと笑ってそういった。
思わず、彼女は頷きそうになった。
「ところがね、意外にはやっているんですよ。まあ、他の店とは喧嘩しませんからね」
店はオーナーの道楽ではないが、目的が少し変わっていた。
喫茶店は、オーナーが怠け者にならないためのものだった。
株や不動産で十分に稼いでいたとしても、怠け癖がついたら人間はだめになると彼は信じている。
朝、誰より早くやってきて店の前の掃除をし、花を活け、夜は従業員に任せずに自分で鍵を閉める。
店の入っているビル自体が、オーナーの持ち物だった。
「最初のコーヒー店はロンドンにあったそうですよ。そこで、さまざまな情報が飛び交った。この店も、そうだ」
証券会社の営業マンがこの店を使わざるを得ないのは、当然だった。
結局、オーナーは自分の店に営業マンを呼びつけ、自分の分のコーヒー代までも払わせる。
儲からないはずがなかった。
来週から、まずは週に三回ということで、面接は終わった。
「慣れていなくても大丈夫、一カ月は見習いということで。どうしても無理だったら、その時にまた相談しましょう。
これまで通り、お客さんで来てくださいね」
オーナーは彼女に言った。
クリームソーダは無料になり、もう一度彼女は礼を言った。
店を出るとき、レジの脇の白百合に目にとめた。
きれいだった。
心がなごんだ。
「こんな年齢でも大丈夫ですかって、最初はみんな気にするんですよ。
でも、ご覧になってわかるように、楽しく仕事をしているでしょう?
失敗しても大丈夫ですよ、わかるまで教えるから。
うちはメニューが少ないから、意外にスムーズにいくんですよ。
無理なことは、機械も手伝うから安心してください。
働いて給料をもらうのは、楽しいですよ」
オーナーの言葉が店を出た後も彼女の耳に残っていた。
結婚前の仕事は事務職だった。
学生時代のアルバイトも接客関連ではなかったが、もしかしたら大丈夫かもしれない。
六時までの勤務だったら、夫に迷惑をかけることもない。
本当に雇ってもらえるまでは、秘密にしておこう。
久しぶりに彼女はわくわくしてきた。
まずは「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」と大きな声を出す練習をしなくては。
そんなことを考えて、彼女は地下鉄に乗った。
姑の言葉のせいでうんざりした気持ちはまだ消えてはいなかったが、あまり気にならなかった。
店で働いた金は、姑にヘルパーを頼むために使うつもりだった。
オーナーと話しているうちに、そう心に決めた。
年取って気弱になるのは、仕方がない。
ただ、姑が考える解決方法ではなく、彼女が考えるやりかたもあっていい。
それが、彼女なりの姑への介護だった。
彼女が働き始めてから、もう一年が過ぎようとしていた。
自分があてにされている場所があるというのは嬉しいことだった。
最初はどうなることやらと当人も不安だったが、一番の若手ということもあり、仲間からは期待された。
「大丈夫よ、啓ちゃん」
いつも仲間はそう言ってくれ、その後で注意をしてくれた。
「あんたが来てくれてよかったわ。じゃないと、ウェイトレスがいなくなりそうなんだもの」
七十代どころか、八十代も数人いる。
八十六歳の最年長の仲間は、ウェイトレスの仕事はしない。
厨房で、丁寧に紅茶を入れる。
時々、自分も紅茶を飲んでいる。
「ここはデイサービスみたいなものよ」と笑っている。
店は七時から開く。
朝のメニューは一つ。
パンを厚切りトーストにし、バター、クリームチーズ、それにハチミツがつく。
飲み物は紅茶だけだ。
シンプルな朝食だが、どれも上質だ。
その割には安いときているから、客は多い。
早番で来る仲間は、ここで朝ごはんを食べている。
「私の朝ごはんはここなの。だから、食べそびれることがなくて便利なのよ」
六時半に店に来て、九時には帰る朝番の仲間と顔を合わせたのは、彼女が働き出して半年以上過ぎてからだった。
「としさんでしたっけ、ひとりでよくやれますよね」
彼女が感心して仲間に言うと
「あれっ、啓ちゃんはうちのモーニングサービス、知らないんだね。
ホテル形式っていうとかっこいいけど、お客さんが自分で取りに行くのよ。
自分でトースターでパンを焼いて、皿に入れて自分で席にもっていくの。
こちらがするのは、厨房からパンを持って行って大皿に乗せることと、バターやクリームチーズを冷蔵庫から出すだけよ。
紅茶は、としさんが、しょっちゅう作ってはポットにためておくんだけどね。
だから、としさんひとりでやれるのよ。
まあ、うちのモーニングは、素材がすごくいいからね。
時々、ホテルの人が調べに来ているんだって。
オーナーが自慢してた」
その話を聞くと、彼女はこの店のモーニングも食べてみたくなった。
紅茶もコーヒーもおいしい店だった。
この店で、初めてブラックコーヒーのおいしさに目覚めたのだから。
「なぜ、朝食はコーヒーにしないのかしらね」
「ああ、それは私たちが覚えられないからよ。
あたしもオーナーに何度も注意されて、ようやく紅茶の淹れ方、OKもらえたんだもの。
これ以上、コーヒーなんて言われても、無理よ。
コーヒーを淹れられる人がどうしても育たたないから、オーナー、いい機械、買ったんだもの」
呆れる店でもあった。
ランチには、かつてコックだった人が、数時間の仕事に来ている。
この人もかなりの年輩だったが、作るものはどれもおいしかった。
それでも、オーナーは時々、話し合いをしている。
味付けや盛り付けに、満足しないらしい。
店の特色は、高齢の従業員だが、もうひとつは白い割烹着だった。
開店当初、エプロンにしたところ、評判が悪かったらしい。
客ではない。
従業員から文句が出た。
着物姿の従業員もいたくらいだ。
あんなもの、着たことがない、とか、恥ずかしくて着られないということで、割烹着になったらしい。
たしかに、下に着る洋服が汚れることもなく、便利だ。
何より、ウェイトレスとは見えない。
だから、てきぱきとした応対でなかったとしても、誰もが納得する不思議さがあった。
変わった店だなと、彼女も最初は思ったが、清潔感があり、気に入った。
近ごろは、家でもエプロンではなく、特に冬場は割烹着愛好家になってしまっている。
月に数度、夫と姑の家に行くときも、彼女は割烹着を手提げに入れていった。
店で使用し、何度もクリーニングに出して傷んだ割烹着は廃棄せず、ほしい従業員がもらって帰った。
姑の家で使うのは、その割烹着だ。
傷んでいるとはいえ、十分に使える。
台所で洗い物をするときは役に立った。
何より、それを着ていると、仕事と割り切って姑の言葉を聞き流せた。
姑の家には、夫と一緒にしか出掛けなかった。
一週間に数回来てくれるお手伝いさんの費用は、彼女が出している。
「そこまで無理しなくてもいいのに」と姑は気にしている。
「もったいないから、啓子さんでいい」と姑が言っても、彼女はにこにこ笑ってお断りした。
「何言ってるんだ、啓子がきちんと出してくれているのに」
夫は彼女を守っているつもりで、一生懸命弁護してくれる。
自分ひとりで実家に行っても、手持無沙汰だからこそ、彼女を連れていく。
ここにもひとりで何もできない人がいると思いながら、彼女は自分も結局は似たようなものだと思い、黙っている。
店で働くようになってから、夫にもあまり不満が出なくなった。
花が身近になったからかもしれない。
レジの脇の花は、いつもオーナーが買ってきて、自分で活けている。
どこで買ってくるのか知らないが、珍しい花もある。
たっぷりの花は、いつも見事だった。
家ではそこまで贅沢はできないが、花屋に寄って数本の花を選ぶ習慣ができた。
玄関や食卓に飾る。
バラも好きだが、ナデシコもいい。
「なんていう花?」
夫もそんな質問をするようになった。
そんな日常が、彼女を落ち着かせてくれるようになった。
ある日、店に知り合いが来た。
窓際の一人用の丸テーブルに座っていた。
というよりは、向こうが彼女に声をかけたのだ。
「 いらっしゃいませ」
そう言って、水のコップとメニューを置いていこうとすると、
「コーヒー、お願いします」
客はそういった。
「はい、かしこまりました」
何気なく客の顔を見ると、相手がこちらを見つめている。
「もしかして、今井さん?」
そしてにっこり笑った。
笑ってくれたが、どうみても元気のない顔だった。
やつれている。
いつもはもっと美しく、そして気さくな、婦人科の女医さんだった。
「先生」
彼女も思わず声が出た。
「割烹着、お似合いですね。とっても素敵」
「まあ、うれしい。先生、すぐコーヒー、お持ちしますね」
なんだか気になった。
病院はまだ開いている時間だった。
あの先生が勝手に休むはずもない。
何より、疲れ切ったような様子が気になった。
コーヒーを持っていったあと、しばらく様子を見ていたが、先生は飲んでいるようにも見えなかった。
ぼんやりと窓の外を眺めている。
図々しいとは思ったが、彼女は声をかけてしまった。
「先生、大丈夫ですか?」
先生は力のない目で、彼女を見上げた。
まるで、先生が患者のようだ。
「大丈夫じゃない。私の命はもうすぐおしまいらしいの」
ありがたいことに、客は少なかった。
ウェイトレスはほかに数人いる。
ちょうど店にいたオーナーに願い出て、三十分だけ仕事を休ませてもらった。
割烹着を外し、自分用の紅茶を手に、先生の前に座った。
一人用の席だから、少々狭い。
しかし、先生との距離が近いのはありがたい。
話し声も小さくてすむ。
「先生、お邪魔だったら言ってください。すぐ離れますから。
でも、今、ひとりでいるのは苦しいのではありませんか?」
先生は子どもみたいに頷いた。
涙がテーブルに落ちた。
「今井さんは、お辛いこともあったのに、あれからも私の病院に通ってくださって。
ありがとう。
嫌なことがあると来なくなるものなのに。」
「先生は私のこと、憶えてくださっていたんですか?」
「もちろんですよ。今井さんが私も女の子のお母さんになりたかったといった言葉、忘れたことはありません」
啓子は両手を握りしめた。
あの当時のことが昨日のように思い出される。
ただ、ありがたいことに、今はもう古傷になってくれた。
あの当時、医者の立場だけでなく、一緒になって考えてくれたこの女医さんからどれだけ助けてもらったかわからない。
苦しかったが救われた。
今は立場が逆転し、先生が追いつめられている。
いくら医者とはいえ、仕事も家庭も放り出さねばならないのは、どんなに辛いことだろう。
先生は病気のことを話してくれたが、理解できたとは思えない。
ただ、先生の悔しさだけは彼女も理解できた。
同じ病気で亡くなった母親の遺伝を受け継いでいると考え、毎年検査を続けていたにも関わらず、致命的な状況になったというのだ。
「こんなものかもしれませんね」
力なく女医さんは微笑んだ。
何も言えず、啓子は聞くばかりだった。
「今井さん、お願いがあるんです」
私などにお願いなんて、と彼女は驚き、女医さんの顔を見つめた。
「急にこんなことを言ったら驚くでしょうね。でも、私には時間がないんです。
偶然に入った喫茶店で、今井さんに会えたのはなにか理由があると思うんです。
割烹着姿の今井さんを見ていたら、どうしてもお願いがしたくなりました。
だから、許してください。
ぜひ、うちの娘たちのそばにいてください。
SOSを出したとき、来てやってください。
そう思ったら、私は安心できるんです」
「先生、私をご存じないのに」
「そんなことありません。今井さんがあのころ、ずっと私のところに通ってくださって、私は今井さんをよく知っています。
その後だって、年に一回はお会いしていたんですよ。
実は、娘たちには、今井さんの話はよくしていました。症状じゃなくて、お人柄のこと。
自分に与えられた運命をあきらめるのではなく、きちんと受け取れる人だと思っていました。
だから、これからは病院ではなく、私の家で、時々でいいから娘たちを見守ってもらいたいんです。
ぜひ、一度、娘たちと会ってください」
「私はかまいませんが、ご主人は反対なさいませんか?
突然、見知らぬ人が顔を出したりすることは。」
「夫は以前に事故で亡くなったんです。
彼は医者ではなかったし、病院にかかわっていなかったから、みなさん、あんまりご存じないと思います」
そうだったのかと、啓子は冷めてしまった紅茶を飲んだ。
自分ひとりが大変だと、いつのまにか思い込んでいた。
世の中などと言わなくても、すぐそばにもっと困難な状況で生きていた人もいる。
いい年をして、つらい辛いと愚痴をこぼしていたものだと、恥ずかしかった。
「私でよかったら、必要な時は顔を出しますよ。お嬢さんたちにお伝えください」
「ありがとうございます。なんだかほっとしました。混乱していましたが、やっぱり子どものことが一番心配でした」
「先生、でも、私、子育てしたことないんですよ。主婦としても大したことないし。
だから、あんまり期待しないでくださいね」
女医さんはようやく笑った。
「うちの娘たちはそういう今井さんが好きだと思いますよ。私などは煙たがられて。
だからさっさと煙になるんでしょうけど。
ここで会えるなんて本当に不思議でした。こんな時でもいいことってありますね」
女医さんはそう言いながら、レジのほうに目を向けた。
「ここは花がきれいですね。明日は枯れるかもしれないけれど、本当にきれい。
私もあの花よりは生きられるんだから、それでいいんですよね」
女医さんを見つめて、啓子は頷いた。
それからきっかり半年後に先生は亡くなった。
その後、オーナーは店の模様替えをした。
花の位置が変わった。
一人用の丸テーブルは、窓際のままだが、そこには椅子がない。
花を置くテーブルになった。
あのテーブルに座った女医さんのために、いつも花が飾られているのだと、啓子は勝手に思っている。
オーナーは花代をけちらないから、うっとりするような花がいつも飾られている。
先生、お嬢さんたち、大丈夫ですよ。
花を見ながら、啓子は女医さんと心のうちで話をする。
割烹着は、女医さんのうちに手伝いに行くときも、役に立っている。
お古ではなく、彼女が買った新しい割烹着だ。
お母さんになりたかったという願いは、不思議な形でかなってしまった。
「今井さんって、スーパー主婦だよね」
お嬢さんたちはほめてくれるが、言われた啓子はいつも冷や汗をかいている。