Novel(百物語)
02ten

海野

海野が死んだ。
担当医から電話があり、俺は仕事を放り出し、病院のある海岸に車を走らせた。
車の中で大声でわめいた。
「ばかやろう」
あいつの命がもう長くないことは、当人も知っていた。
電話をかけてきてくれた医者と三人で、余命の確率に関しての馬鹿話をしては笑っていたのだ。
しかし、こんなに早く逝ってしまうとは。

俺は、砂浜に丸く描いた円を眺める。
二週間前だ。
この海岸で、相撲を取ったのは。
あの時、海野は、砂浜に円を描いた。
「のり、相撲をしよう」
俺は痩せこけた海野を見た。
負けてやったら、あいつは嫌がるに違いない。
だから、少しも手加減しなかった。
投げ飛ばされ、海野は頭から砂にのめりこんだ。
「ひでえなあ、お前」
俺が抱き起すと、海野は砂の上に倒れて息をつき、そういった。
そう、あいつは、俺と最初に柔道をしたときも同じ言葉を口にしたのだ。
海野は忘れているのだろうか。
それとも、だからこそ、俺と最後に相撲をしたのだろうか。
あいつに聞いてみることは、もうできない。
俺は砂の上に寝転がった。
誰もいない砂の土俵が俺の横にある。
砂浜がほんの少し湿った。

高校に入って、俺は当たり前のように柔道部に入部した。
新入生に初心者はほとんどいなかった。
誰もが俺は強いというような顔をしていた。
そういうのが一番あぶないんだが、と俺は思っていた。
先輩たちはそうではない。
強いのではなく、柔道部にしては紳士だ。
この学校が弱いという証拠でもあった。
高校で始めた人もいる。
先輩なのだが、俺たちに敬意を払ってくれる。
技なんかどうでもいいんですよ、と俺は思っていたが、これもまたやりづらかった。

海野は、柔道部の仲間だった。
あいつの最初の質問を憶えている。
「おまえ、市内?」
県内の様々な地域から、この高校に入学してくる。
外様か譜代じゃあるまいし、と俺はおかしくなるが、生徒たちは高校所在地の市内出身かそうでないかをかなり気にしていた。
「ちがうよ」
「でも、なんで方言じゃないんだ」
「ここの方言話してるじゃないか」
「まあ、ここだってなまってるけどな」
海野は少し嬉しそうな顔をする。
「英語習ってるだろ。実践だよ。バイリンガルになればいいじゃないか」
「市内の言葉を覚えたのか?」
「覚えるも何も、使ってみればいいんだよ。相手も面白がってくれるし、楽しいぜ。
実践だよ。柔道もいっしょだろ、どれだけやってきたかだろ。お前とは違うんだよ」
そういったとたん、海野の表情が変わった。
いつもは穏やかすぎる顔をしているから、そのくらいきりりとなると、なかなかいい顔になる。
そういう顔をしていればもてるのにな、俺はそう思った。
もちろん、俺だってもてているわけではないが。
「おい、やってみようじゃないか。俺がやってこなかったっていうのか」
海野の挑発に乗ったふりをして、俺たちはもう一度、道場に戻った。
下宿に帰ってもひとりだから、時間をつぶすのはありがたい。
誰もいない道場で、俺たちは何度も組んだ。
そして、一度も海野は勝たなかった。
海野の名誉のために言っておくが、あいつが弱いわけではない。
俺はあの頃強かったのだ。
中学三年の試合では、高校の監督が何人もスカウトにきていた。
ただ、残念ながら、普通に部活で柔道をやっている中学生が、おれのささやかな過去の栄光を知ることはない。
もう一度、もう一度、と組んで、さすがに二人ともくたびれた。
「腹減ったな」
海野がそういい、俺たちは学校を後にした。
それがあいつと親しくなったきっかけだった。
海野の実践は、勉強だった。
部活で忙しくても、決して勉強に手を抜かなかった。
俺だって頑張ったのだが、あいつには完敗だ。
どれだけやってきたか、お前とは違うんだよ。
まさにあいつはやってみせたのだ。

海野とは40年の付き合いだった。
あいつは俺のことを「のり」といい、俺はあいつのことを「海野」と呼んだ。
きっかり40年で付き合いは終わってしまった。
しかし、俺はあいつがどこかでひょっこり出てくるような気がする。
困っている。
夢枕に立ちそうだ。
「のり、また連絡するから」
俺が最後に聞いたあいつのセリフだ。
海野、連絡なんかするなよ、また投げ飛ばされるだけだから。