Novel(百物語)
02ten

ATM

妻の敦子さんが亡くなってから、井上さんは以前よりはおしゃべりになった。
他の人と話すのではない。
奥さんの写真に向かって、今日1日のことを話している。
敦子さんの生前、井上さんはもっぱら聞き役だった。
今頃、敦子さんは、夫の変わりように驚いていることだろう。
帰宅すると、井上さんは手を洗う前に、まずは小さな仏壇に向かう。
仏壇に向かって手を合わせるが、その時は「ただいま」としか言わない。
簡単な食事を終えると、井上さんは台所もテーブルもきれいにする。
それから、ホットウイスキーを一杯だけ作る。
「今日、面白いことがあったんだよ」
ちびりちびりと飲みながら、テーブルに置いている黒い手帳を開く。
そこには、かなり若い敦子さんが笑ってこちらを見ている。
新品同様だが古い手帳に、井上さんは敦子さんの写真をはさんでいる。
ウイスキーを飲みながら、数枚の写真のうちのどれかの敦子さんに話しかける。
敦子さんは写されるのを好まなかったから、写真は少なかった。
若い敦子さんを選んだわけではないのだが、敦子さんだけを撮った写真は、やはり結婚当時のものが多かった。
何となく敦子さんに怒られるような気がして、井上さんは葬式の時に使った写真も手帳にはさんでおいた。
しかし、この敦子さんに話しかけることはほとんどない。
きれいに撮れているのだが、今日一日にあったことを話しかけるのは、何となく気づまりだった。
敦子さんが事前に選んだ写真は、中年の頃の写真としては最高に美人に撮れた一枚だった。
法事の時の集合写真だ。
「喪服だから、地味でいいんじゃない?真面目に撮れているし」と元気だった敦子さんは、葬儀の写真にまでTPOを配慮した。
葬式に来るやつが喪服を着るんじゃないのか、と井上さんは疑問に思ったのだが、聞き役としては、黙っているに越したことはない。
井上さんが否定しようが肯定しようが、敦子さんは、自説を変える時はすぐに変えるのだ。
いい加減と言えばそうなのだが、そこがまた、井上さんが敦子さんを好きなところでもあった。

ホットウイスキーのつまみは、一個ずつ銀紙にくるんであるプロセスチーズだ。
井上さんは、チーズを深く噛み切り、チーズに残る歯型を眺めた。
「真似してみた」
敦子さんに向かってそう言う。
写真の敦子さんは笑っている。
以前は、敦子さんのその癖を井上さんが笑ったものだった。
「全くねずみみたいだ」
「だって、友だちからねずみっていわれてたんだもの」
チーズが好きなせいなのか、前歯が大きいせいなのか、どっちだったのだろう。
「ずいぶん太ったねずみだな」
「結婚前は痩せてたのよ」
ふくよかな敦子さんが、井上さんは好きだった。
「ふくよかっていい言葉ね」
敦子さんは喜んだ。
「服がよかね、いいねってことだよ」
敦子さんは自分で服を作る。
だから、このセリフも喜んでくれた。
もう少し一緒にいてくれると思っていたのだが、胸が痛いと病院に行き、大動脈瘤破裂と診断され、数時間後に亡くなった。
中年後期とはいえ、まだ若かった。
「ずるい奴だよ、お前は」
井上さんは、敦子さんにだけ愚痴を言う。
今年で九年になる。
敦子さんだけがふくよかな中年のままで、井上さんは初老になった。
井上さんはホットウイスキーをすする。
「今日な、面白い人がいたんだよ。
笑わせてくれてな。
でも、あの場面で笑うわけにもいかず、本当に困っちゃったよ」

井上さんは、都市銀行支店に併設されているATMで、警備の真似ごとのような仕事をしている。
敦子さんが亡くなって2年後に、長く勤めた職場を定年退職した。
一年ほどは、無駄遣いをせず、質素に暮らしてみた。
家事は、どうにかこなせるように努力をしたから困らない。
しかし、敦子さんのいない家にひとり過ごすのは、思っていた以上に辛かった。
少しでも給料が入るのは有難いが、なにより、朝から夕方まで気を紛らわせていられるのが助かった。
しかし、いいことばかりあるはずがない。
今の仕事は、仕事先からも客からも、理由なく怒られる。
順番の列が長いと、客はいらいらしてくる。
そんな時に限って、ATMの機械に利用中止のサインが出る。
機械になり代わり、人間の井上さんが謝る。
ATMのそばにぼんやり立っているように見えるが、案外忙しい。
難しい質問をする人もいる。
「いったいどのくらい時間かかるの?」と聞かれても、正解はない。
通帳を何冊も持って、記帳を続ける人もいる。
振り込みを何度も間違える人もいる。
井上さんが口ごもっていると、相手は馬鹿にした顔をする。
「申し訳ございません。少々お待ち下さいませ」と質問に直接答えないのが一番無難だと、井上さんもようやくわかってきた。
同僚ができたと思っても、辞める人が多かった。
注意を受ける日が続くと、井上さんも辛くなる。
しかし、怒られようがなんだろうが、まだ自分のそばに誰かいてくれるのだと思えば、我慢できた。
敦子さんに話す出来事が毎日必ずあるという意味では、いい仕事場だった。

その日も朝からクレーム続きだった。
午後になると、ATMに並ぶ人はますます多くなった。
「おい、君」
井上さんはすぐに、声の主に近づいた。
八十前後の老人だ。
井上さんよりずっと年寄りだが、身なりもよく、恰幅もいい。
はたから見れば、井上さんのほうが年取って見えるかもしれない。
老人はポケットから小さなカードを取り出し、井上さんに押し付けた。
「ハンコ、押してもらっておいてくれ」
車で来店の客は、窓口でこのカードを渡すと、スタンプを押してくれる。
指定の駐車場を利用すると、二百円の駐車料金が百円になる。
しかし、窓口利用者のみの特典だった。
このシステムを知らず、井上さんは失敗をしたことがある。
「お客様、申し訳ございません。これは窓口利用のお客様のみの特典でございまして」
そう言い終らないうちに、老人はうるさそうに井上さんの言葉を遮った。
「そんなことはどうでもいい。上田と言ったらわかるから」
老人にそう言われても、職務上、井上さんはATMのそばから離れることはできない。
以前、お客様のために窓口まで行き、感謝されたものの、あとで叱責されたのだ。
「あの、お客様、申し訳ございませんが」
「もういい、君じゃ話にならん」
老人の声は大きい。
列に並んでいる人たちが、井上さんを見ている。
窓口近くにいた女性行員が気付いたらしく、小走りでやってきた。
「申し訳ございません」
「君ね、私は上田と言うもんだよ。支店長の坂口君はいるのかね」
誘導係の女性は
「誠に失礼いたしました」
と何度もお辞儀をしている。
老人はいらいらした素振りで
「これ、押してきてくれ。こいつじゃ話にならん」
と言うと、井上さんに向かって手を振り、あっちへいけというような仕草をした。
こいつとは私のことか、と心の中でため息をつき、井上さんは老人より一歩後ろに立った。
女性はカードをおしいただくようにして、走って窓口に行く。
暫くして戻ってくると、老人にカードを手渡して、またぺこぺことお辞儀をした。
今日もまた注意を受けるのか、と井上さんは列に並ぶ人たちを眺め、本来の業務に戻るために、頭を切り替えようとした。
すると、老人の後ろに立っていたサラリーマン風の男が、井上さんに一歩近づき、体を少し寄せると低い声で言った。
「このくらいのことをしないとね、金って貯まらないもんなんだよ」
思わず笑い声が出そうになり、井上さんは慌てた。
声を出さず、口を開けずに笑うのは、難しい。
腹に力をいれ、神妙な顔をしようと努力したせいか、心の中に入りこみそうになった屈辱感はどこかに消えてしまった。
男を改めて見ると、サラリーマン風の、真面目な背広姿だが、井上さんをじっと見ている様子は、ただものではない。
口元が少しだけ笑っているが、ゆがめているだけのようにも見える。
男はすぐに姿勢を戻した。
誰も聞えなかったに違いない。
それなのに、つい、井上さんはきょろきょろとあたりを見回してしまった。
しかし、男は意図してか、前の老人にだけは聞えるくらいの声量調節をしたようだった。
上田という老人が、むっとした顔で振り向いた。
その瞬間、後ろの男が眼光鋭く睨み返した。
井上さんはあっけにとられて二人を見ていた。
目の前で、すばやく剣が舞い、男が老人を一瞬で切り殺したかのように、井上さんには思えた。
老人は男の視線を受けた途端、さきほどの横柄さはどこに消えたのか、慌てて前を向いた。
急に体を揺らし始める。
金持ちが貧乏ゆすりをしていると思うと、井上さんはまた笑いたくなった。
今度は上手にこらえた。
都合のいいことに、すぐに老人の番が回って来た。
逃げるように、急ぎ足で老人は空いたATMへと近づいていく。
もう一度井上さんは男を見たが、男はもう、書類カバンを手に、澄まして立っている。
手品を見たかのようだった。
井上さんはふうっと息を吐いた。
それから終業までの数時間、井上さんは何だかぼんやりした気分で、どうにか仕事を終えたのだった。

「笑わせて切るなんて、時代劇にもないよな」
井上さんは敦子さんに語りかける。
「そう言えば、お前もよく笑っていたよな」
若い敦子さんを見つめながら、井上さんはホットウイスキーの最後の数滴をすすった。
台所に行き、コップを丁寧に洗う。
歯磨きをすませ、パジャマに着替えると、仏壇にもう一度向かった。
葬式の時に使った、笑っていない、きれいな敦子さんの写真をじっと見た。
「忘れていたよ。
笑って、あげくに俺を切って行ってしまったのはお前だよ。
あの男、お前の弟だったのかもな。
あっちゃん、おやすみ」