Novel(百物語)
02ten

砂を詰めた貝殻

天気がよかったせいか、ベランダに出て洗濯物を触ってみると、もう乾いている。
平日のお昼すぎに洗濯物を取り込むことなど、これまでの彼女の生活にはなかった。
両手に洗濯物を抱えたまま、彼女は遠くの山並みを眺める。
この穏やかな生活が心地よかったり、退屈に感じたりと、いまだに揺れ動いている。
夫とともに、この地に来たことは間違ってはいない。
大学生活を送った懐かしい土地なのだ。
しかし、そう思うこと自体が自分を説得している証拠だ。
苦笑しながら、彼女は部屋に戻った。
洗濯物を畳むと、することがない。
午後の郵便物が来る時刻だと、エレベーターで1階まで降りてみた。
東京で仕事をしているときは、帰宅時しか、郵便受けを確認したことはなかった。
時々、それすらも忘れ、不在届けが溜まっていた。
宅急便のドライバーに迷惑をかけたものだった。
何も持っていない自由な手で、今は郵便受けのカギを開ける。
現在の彼女のような人を想定して、この集合郵便受けが設計されていることがよくわかる。
何も不便を感じない。
片手に買い物袋を提げ、もう一方の肩にバッグがかかっていると、取り出しづらかったものだ。
郵便受けの中は、ダイレクトメールやチラシばかりで、すぐにゴミ箱行きだ。
かわいい封筒がちらりと見えた。
嬉しくなった。

字を見ただけで、誰が送ってきたのか、すぐにわかった。
後輩のお蝶からだ。
待ち切れず、彼女はエレベーターの中で封を切った。
手紙をあけると、何かが足許に落ちた。
拾い上げると、映画の前売りチケットだった。
「先輩、お変わりありませんか?
先日、元気のいいメールを出したばかりですが、状況は一変。
現在は嵐の中です。
怒り狂って、仕事に突き進んでいます。
原因は、彼との他愛もない喧嘩です。
一緒に映画に行こうねと前売り券まで買ったのに、あいつは平然と、なくしたらしいとぬかします。
まあ、いいじゃないか、大したことはないよ。
今度、カラオケで有名な主題歌でも歌おうよと、お茶を濁して平気です。
二人で映画を、とそれを楽しみに仕事をしてきた私への配慮はないんでしょうか。
頭にきて、会社でも八つ当たりしています。
しかし、おかげで仕事はじゃんじゃん片付いています。
私のこの鼻息を、誰も止めることができません。
猪突猛進とはよくいったもので、私の干支は猪です。
先輩、ご存知でしたよね。
今日の昼ごはん、久しぶりに部長と一緒に出かけたら、先輩がいてくれたらと、ため息交じりにぼやいていました。
チケット、捨てるのも悔しいので、先輩に送ります。
私の代わりに見てください。
爆発の理由はわかっているんです。
あちらにもいろんな事情があるんです。
でも、時々でいいから、私だけの彼になってほしいとつい思ってしまうんですよね。
今度メールする時は、もう収まっていると思います。
時には、こちらに遊びに来てくださいね。
かわいい後輩、バンビより」

彼女の名字は鹿田といい、入社した当初はバンビちゃんと呼ばれた。
ほっそりしていて、一応可愛らしかった。
バンビのあだ名がそれほどおかしくはない。
しかし、一年経ったら、お蝶と呼ばれた。
彼女も書いている通り、猪のような奴で、猪鹿蝶から連想されたあだ名だった。
お蝶には好きな人がいる。
付き合いが長いのに、なかなか結婚しない。
「きっとあいつら、こっそり結婚しているんですよ」という人もいた。
たしかに、お蝶と彼との日常茶飯の喧嘩話を聞いていたら、恋人同士というよりは、古女房と思われてもおかしくはない。
お蝶は私の部下で、なぜか私にだけは私生活まで話した。
彼とは、数回会ったことがある。
お蝶に負けず劣らずエネルギッシュな男で、お蝶が惹かれた理由がわかった。
彼だけは、最初からバンビだとは思わなかったらしい。
酔っ払って寝てしまったお蝶を間にはさんで、ゆっくり話をしたことがあった。
結婚が進まない理由は、たしかに複雑なものだった。
大学の同級生と、卒業後すぐに結婚したと彼は言った。
長男を出産した直後から体調に異変があり、彼の妻は二年後に亡くなった。
若い彼は、仕事と入院中の妻の見舞いで、手一杯だった。
妻の両親が、生まれてすぐの長男の面倒をみてくれた。
妻の母親は赤ん坊の世話をすることで、娘が死ぬかもしれないという不安を紛らわせていたに違いない。
彼の両親が協力しようとしても、けっして赤ん坊を渡さなかった。
婿に申し訳ないからという言葉は、言い訳に過ぎなかった。
妻が亡くなったころには、長男は完全に妻の母親の子どもになっていた。
孫へのつながりの強さを目の当たりにすると、彼は長男をひきとると口にすることができなかった。
実際、若い彼が赤ん坊の面倒をみることも不可能だった。
現在、長男は小学三年生だが、今も祖父母の家で暮らしている。
完全に祖父母と孫がひとつの家族になってしまい、彼の入る隙間はない。
もちろん、子どもに会いに行けば、それなりに歓待してくれるが、父親とは名ばかりだった。
義理の両親は、しきりに彼に再婚を勧める。
しかし、孫を連れて行けとは言わない。
孫を養子縁組にしたいとまでは口にしないが、もう準備しているのではないかと彼は疑うことすらあった。
それが義理の両親の、一番の望みなのではないかとも思う。
彼女と結婚をすれば、彼女には突然小学生の子どもができる。
あるいは、彼が子どもを見捨てることにもなる。
子どもが彼に淡々とした態度をとっているからといって、彼には長男を除いた別の家庭を作る自信がなかった。
お蝶は、そういうことをすべてわかってくれているらしい。
「あたしたち、結婚しなくてもいいじゃない」と言うらしかった。
「そんな彼女に甘えている自分が情けなくなるんです。でも、やはり長男は子どもだから。迷うんですよね」
彼はそう言って酒を飲みほした。
エネルギッシュな男で、押しの強そうな男だ。
仕事もできそうだった。
そういう男が抱えている苦しみがかえって、陰影をもたせ、いい男にしている。
「別れたほうがいいよ」
翌日、お蝶に言ったら、睨まれた。
「課長はひどいこと言いますよね。私は絶対別れません」
そのときだけだ、お蝶が私に反抗したのは。

お蝶の手紙のおかげで、久しぶりに元気が出た。
現在の生活に満足していないわけではない。
ただ、あまりに急激な変化だったと、彼女は少し後悔している。
半年前、夫が転勤の辞令をもらった。
1000キロも離れた場所だった。
夫は単身赴任になることを当然と思っていた。
彼女は夫よりも長く働いている。
夫は大学の同級生だったが、留年を繰り返した。
仲が良かったのは1年生の時だけだった。
学年が違うと、授業で会うことがなくなり、自然と疎遠になった。
真面目な彼女は4年で卒業し、東京で就職した。
仕事に慣れたころに、大学時代の仲間と久しぶりに会った。
その場に、就職活動中の彼もいた。
すでに社会人になっている同級生たちの部屋をホテル代わりに使っているらしい。
数年前に自分たちも苦労したせいか、あるいは、余裕があるせいか、同級生は彼の就職活動を応援している。
「そんな甘い考えではだめだよ」
「お前の自己PRは、ここが足りない」
みんなお人よしだと、彼女だけは冷淡だった。
遊びすぎて留年したやつなのだ。
なぜ、ここまで手伝ってやるんだろう。
そう思っていたはずなのに、結局、彼女も、小論文を手伝う羽目になった。
「みんなのおかげで就職できたもんだよ。特にやっちゃんには世話になった」と就職が決まった彼は礼を言った。
初月給でお礼をするよと彼は言い、おいしいお好み焼きを彼女に作ってくれた。
外食する金はなかったらしく、それを聞いて、材料費は彼女が出した。
料理は、彼女よりずっとうまかった。
洗い物は二人でした。
しばらくして互いのボーナスの額を比較していると「このボーナス、一緒にまとめるのはどう?」と彼は提案した。
妙なプロポーズだった。
彼女は最初、意味が分からず、
「名前が違うんだから、口座はひとつにはできないんじゃない?」などと現実的な返答をしてしまったものだ。
共働きの夫婦としては、かなりうまくいった部類に違いない。
辞令をもらうと、夫はインターネットで赴任先の住居を探していた。
自分ひとりで行くものだと、頭から思い込んでいる。
横からパソコンをのぞき込んでいると、彼女は一緒に行きたくなった。
大学の4年間を過ごした思い出の地だったからかもしれない。
「あたしも行こうかな」
そういうと、
「そうだな、それもいいね。転勤願いだしたら?」
気楽に夫は言った。
彼女の会社は首都圏が地盤の中小企業だ。
「あるわけないじゃない」
「だから、何か探してみるんだよ」
「まったく」
最初は、そんな軽い気持ちだったが、一緒に行きたい気持ちが膨らんでいった。
定年まであと10年を切り、仕事に対する気持ちが薄れていたのだろうか。
給料だけでなく、長年通った会社や同僚が、自分の生活に欠かせないものだなんて、わかるはずもなかった。
失ってみなければわからない、今になるとようやくわかる。

お蝶が送ってくれたのは、これまで彼女が見たことのない種類の映画のチケットだった。
しかし、これも何かのきっかけかもしれないと彼女は思いなおし、翌日ひとりで出かけた。
大学時代に過ごした街だから、土地勘もある。
しかし、就職、結婚と30年近くも離れたから、過去の地図と現在とでは、時々狂う。
ネットで場所を調べたつもりだったが、やはり迷った。
引っ越してきて初めての映画だ。
それが、後輩からもらったチケットとは、と彼女は苦笑した。
週末に夫と映画に行こうと、なぜ考えつかなかったのだろう。
夫は、彼女のここでの生活に気を遣ってくれている。
それがかえって嫌だった。
久しぶりに仕事から解放されて、ゆっくり過ごせばいいと彼女も考えていたが、やはりどこか違った。
夫だけ先を進んでいるようで、どこか寂しかった。
自分でもどうすればいいのかわからない。
いい年をしてと思っても、立ちすくんでいるような気持ちだ。
「ありのままで生きていけばいい」という歌に、少々照れはあるものの、映画は楽しかった。
愛を歌ったミュージカルアニメーション映画だった。
食わず嫌いだけだったようで、十分に楽しんだし、歌手もうまかった。
しかし、どこか、少しばかり共感できない。
なぜだろうと、エンドロールが流れるのを見ながら彼女はぼんやり考えていた。
ありのままで生きていけば、物事が解決するわけではない。
ありのままの良さと、人生で物事が解決しないのは別問題かもしれないのだ。
彼女がこの地で苛立っているのは、自分らしく生きていないという悩みではない。
自分自身が決めた退職と引っ越しはもっと楽しい何かが生まれるはずだったのに、残念ながらそうはならなかった。
こちらにやってきた決断も「私らしい」し、現在の感情も「私らしい」。
仕事上だったら、あの決断は失敗だった、またやり直そうと思えるのに、個人的なこととなるとうまくいかない。
掃除道具をもったスタッフが入ってきたのに気づき、彼女も席を立った。
たくさんいた観客は、もう誰もいなかった。
慣れるか、変えるか、どちらかしかないなと思いながら彼女は映画館を出た。
空は暮れかけている。
時には、外で食事をするのもいいかもしれない。
夫にメールを送ったが、すぐに彼から電話があった。
「せっかく誘ってくれたのにごめん。今日は仕事で遅くなる」
それなら帰ろうと、保育園の脇を通り、彼女はバスターミナルを目指した。
通勤の人でそれなりにバスも混んでいる。
そういえば、東京では彼女のほうが先ほどの夫が口にしたフレーズを多発していた。
吊革につかまりながら、彼女はそんなことを思い出した。
バスの窓から夕日を眺める。
高層ビルが少ないから、空が広い。
50を半ば過ぎた自分は、一日で言えば、この時間帯だろうか。
これから何の夜遊びをして生きていこうか、彼女は菫色の空を見ながら考えた。

珍しく妻が誘ってくれたのに、運悪くきっかけを逃したのを、彼は少々気にしていた。
転勤先に一緒に行こうと誘ったのは、間違いだったのかもしれない。
管理職になり、会社でそれなりの成果を上げた妻は「もうこの会社ではあたしは終わってしまったみたい」と
時々口にした。
それは、彼がよく知っているサラリーマンのぼやきでもない。
女性というのは、本当に真面目な人種だと、彼は改めて驚く。
「私になにかできることはありませんか」
といつも問いかけているようなものだ。
馬鹿にしているのではなく、彼は女性に対して心から尊敬する。
どんなに真面目になろうとしても、彼のような男には逆立ちしてもできない。
だからこそ、新しい場所で何かを始めることも彼女ならできると考えたのだった。
一緒に行こうかなと言ってくれた妻の言葉が嬉しかったのは言うまでもない。
学生時代を過ごした場所だから、人生二毛作で何かを始めるのも面白いかもしれないと考えたのだった。
帰宅すると、珍しく妻は起きていた。
以前の彼女には、早く寝て朝早く起きる習慣があった。
通勤時間が長いせいもあり、早い電車でゆっくり新聞を読んだり、書類を読んだりしながら会社に行く。
こちらに来て、その習慣は消えつつあったが、それでも11時には寝ている。
怒ったかな、一瞬、彼はそう思った。

「おかえりなさい」
パソコンから顔をあげて、彼女は言った。
またすぐにパソコンに向かう妻の姿で、彼には一瞬、ここが東京であるかのように感じた。
「ビール飲む?」
「いや、もう飲んできたから。ごめん、せっかく誘ってくれたのに」
「ああ、大丈夫。それよりもね、面白い記事を見つけたんだ」
その晩は、彼は妻をからかうのをやめた。
「それよりもね」というのは、彼女の口癖だ。
論理的に言うと、夫婦で食事する、それより面白いことということになる。
失礼な言い方なのだが、どうも彼女はピンとこないらしい。
似たようなことは結婚当初からあった。
ひどいやつだと彼は毎回からかった。
そういう意味で言っているのではない、と妻は否定する。
「君ってせっかちなんだよね」
「あなたがのんきすぎるだけよ」
長年夫婦でいても、変わらないことだった。
今回も、面白い記事を見つけたと言いたいだけなのだ。
「それよりもね」という妻の言葉に彼は希望を感じた。
以前の会話が戻ってきそうな予感がした。

彼女が見つけた記事は、浜に長年伝わる風習だった。
貝殻に砂を入れ、元旦に神社に奉納するらしい。
浜の砂を山の形にし、四方を拝む。
その後、貝殻に砂を詰め、神社に行き奉納する。
「幼い頃は長靴をはき、親父のあとを遅れないように急いでついていったものです。
除夜の鐘が鳴り終わると、家族全員で浜に出かけたものでした。
神社の帰り道、もう一度、浜辺で初日の出を拝むのが楽しみでしたよ」
土地の男性が記事の中で語っていた。
「思い出したことがあるのよ。
以前、お蝶が話してくれたことが、この記事にそっくりなの。
うちじゃなかったかな、憶えてない?」」
妻がパソコンから顔を上げて言った。
営業のリーダーとして、お蝶も含めた数十人をまとめているころ、彼女はよく、部下を誘って食事に行った。
家にも連れてきた。
夫は苦もなくおいしい料理を作るから、財布に余裕がない時はそうなった。
部下に人気があるのは、上司の彼女ではなく、料理人の夫のほうだった。
妻が言ったお蝶の話を、彼もうっすら憶えている。
お蝶が幼いころのことだ。
両親と祖父の家に行ったのは、ひな祭りのころだったにちがいない。
お蝶の母は、着くとすぐに台所で昼食の支度をしていた。
といっても、持参した寿司を皿に盛り、吸い物を作っただけだが。
勝手のわからない台所で作業をするのは大変だ。
吸い物の味見を何度もしていると、かえってわからなくなる。
最後には、台所をうろうろしているお蝶にまで味見をさせた。
「わからない」お蝶がそう言うと、母は困ったような顔をして、「やっぱり即席のものにすればよかった」とひとりごとを言った。
おばあさんは、お蝶たちが家に入った時から、少しも動かない。
ずっと座ったままで、なにも話さない。
おばあさんは死んでいるのではないかと、お蝶は疑ったほどだ。
ゆっくりした動作で寿司を口に入れ、お蝶や両親をじっと見つめるおばあさんが、なんだか怖かった。
食後に何もすることのないお蝶は、祖父母の家に飾ってある貝雛をいじって母から怒られた。
大きな蛤の貝殻に、雛人形の絵が描いてある。
子どもの手にちょうどよい大きさだった。
それを見ていたおじいさんが、お蝶を浜辺に連れだしてくれた。
車ですぐのところに海岸があったという。
おじいさんと一緒に石を海に投げて遊んだ。
そのあと、砂浜を歩いては貝殻を拾った。
おじいさんもほとんど話をしなかったが、それでもお蝶は楽しかった。
大きな貝殻を見つけると、おじいさんは砂を詰めた。
面白くてお蝶も手伝った。
「持って帰る」
お蝶がそういうと、おじいさんは黙ってうなずいた。
おじいさんは、砂浜をあちこち走り回るお蝶のそばにいた。
大きな手の中には、貝殻がある。
砂の入った貝殻を、波に運ばれていかないよう、大切に持っていてくれた。

「日本には、もしかしたら、あちこちにこの風習があるのかもしれないって思ったの。
うぶすなって言うでしょう。
産土のすなという読み方は、産小屋の土間に敷いた砂だという人もいるらしいわ。
海岸の砂を持ってきて、毎回清潔にしたらしいの。
浜の砂を奉納する風習と関連があるかもしれないと思わない?
今日、家に帰ろうとしてバスターミナルに向かうとき、保育園から帰る親子連れに何人も会ったの。
あのお蝶だって、おじいさんから貝殻をもらったころはかわいかったんでしょうね。
あたしもそろそろここで何かやってみようかな」
砂を詰めた貝殻なのか、映画なのかはわからないが、何かが妻を元気にしてくれたようだ。
「何はともあれ、鹿田さんのおかげだな」
「まあ、そうなんだけど、お蝶は彼と喧嘩して私にチケット送ってくれたんだけどね。
妻は元気に笑いながらそう言った。
「今度、天草まで行ってみるか」
「いいわね。ここは私のほうがよく知っているわよ。海なら、学生の頃もよく行ったのよ」
「誰と?」
「秘密」
「こら、教えろ」
「えへへ、内緒です」
ようやく戻ってきたこの感じ、彼にはそれがなにより嬉しかった。