Novel(百物語)
02ten

エレベーターガール

エレベーターに乗り、4階のボタンを押す。
その階に、伯母がいる。
エレベーターのドアが開き、伯母の部屋に急ごうとした私は、右手壁際の椅子に座っているおばあさんに気がついた。
「こんにちは」
おばあさんは私に挨拶をしてくれた。
思わず、私も足をとめ、お辞儀をした。
「こんにちは」
一時間後、おばあさんは、まだそこに座っていた。
「おつかれさんねえ」
おばあさんは、しわだらけの笑顔を見せて挨拶してくれた。
伯母は、私と会話できるような状態ではなかった。
従兄から聞いてはいたが、やはり心が沈んだ。
布団から出ている伯母の手を握り、私は伯母に一方的に話をした。
そのせいだろうか、おばあさんの挨拶は私の胸に沁みた。
そのおばあさんとは、伯母のところに行くたびに、最初と最後に挨拶をする仲になった。
伯母の見舞いのはずだが、おばあさんと伯母がいつしか、私には重なってくる。
不思議なものだ。

エレベーターの動きがゆっくりなのか、ドアが開くまでに時間がかかる。
私は行くたびに、かなり待たされた。
立っているのが辛いお年寄りのために、あの椅子が置いてあるのだろうと、私は思っていた。
しかし、よく考えてみれば、自力で歩き、エレベーターで他の階に移動するようなお年寄りは、この施設にはいない。
「門番さん」とスタッフが陰であだ名をつけていることを、後で知った。
あのおばあさんは、エレベーターホールが気にいっているらしい。
出ていくわけでもなく、ただ、座っているだけで、時には訪問者に挨拶もするから、スタッフも黙認しているようだ。

伯母が入っているこの施設は、病院が経営している。
病院の裏手にあり、一見、古びたマンションのように見える。
初めて来たときは、病院のスタッフの寮だと思い、敷地内をぐるぐる探し回ったものだ。
両親は病気がちで、家から二時間以上かかるこの施設にくるのは、無理な話だった。
頼まれて、私は仕事が休みの日に、時々、伯母を見舞っている。
ただ、伯母は私に会っても、私だと理解はしていないにちがいない。
話もできない。
昔から口数の少ない人で、幼い私がひとりおしゃべりしていた記憶がある。
伯母が話をしなくても、さほど苦痛ではなかった。

スタッフの人たちは、お年寄りを名前で呼ぶ。
「ああ、みやこさんですね」と言われ、最初は少し違和感があった。
幼い頃は「おばちゃん」、大人になってからは「おばさん」としか呼ばなかった伯母の名前は確かに「美也子」だった。
「みやこさん」と呼ばれる伯母は、私には少し遠い存在になった。
ベッドに寝ているとわからないが、伯母が車椅子に座ると、頭も腕も垂れてしまい、大きな人形を乗せたかのように見える。
あるいは、糸が緩んだままの操り人形のようにも見える。
人間の頭が、いかに重いのかがよくわかる。
ベッドに寝ているのが、一番楽なのかもしれないと、伯母を見ながら私は思う。
「おばさん、あのね」と話す私の方を見ているようでもあり、何も見ていないようにも感じる伯母の目を私は眺める。
最初に訪問した時は、悲しみが深かったが、今はそれほど落ち込むことはない。
伯母の手をとってなでてみたりしながら、会社の話をして帰る。
椅子に座って私を見送ってくれる「としさん」が、毎回、伯母の代わりのように、私に挨拶してくれる。
ここでは、ひとりの役割を、みんなで分担しているのかもしれない。

「河合さんは変わってないよ」
突然、「としさん」とスタッフが呼んでいるおばあさんがそう言った。
「こんにちは」と「おつかれさま」しか口にしないおばあさんが急に話し始めた。
驚いて、私は「としさん」の顔を見る。
何だかいつもより、皺が少ないように見えた。
「河合さんは、名前の通り、かわいいひとだねえ。あたしが行くと、挨拶するんだよ、ありがとうって。あの人は、立派に生きてきたに違いないね」
私は思わずうなずいた。
病弱の伯父とふたり、建築事務所を支えてきた。
伯母の献身があったためだろう、若死にすると言われ続けた伯父は、予想に反して長生きした。
数年前に伯父を見送り、伯母は肩の荷が下りたのかもしれない。
たしかに、伯母は立派に人生を送ってきた人だった。
「娘さんかね?」
「いえ、姪です」
「そうなの。ここに来る娘さんは誰もが、帰る時、おばあちゃん、変わっちゃったねって言うんだよ。
あたしはそれが嫌でね」
おばあさんは、エレベーターのドアに向かってそう言う。
声が小さくなって、ひとりごとのようだ。
膝に乗せていた手を揉み合わせ、ハンドクリームを塗っているような仕草をしながらも、つぶやいている。
「自分たちは変わってないとでも思っているのかねえ。あんな小さな赤ん坊だった子が、大きくなって学校に行って、働いて。それなのに、親が年取ると変わった変わったって言うんだから妙なことだよ」
「そうですね。変わらない人はいないのに」
私がそう言うと、おばあさんは、急に私を見上げ、じっと見つめる。
「おつかれさま」
おばあさんの挨拶と笑顔が奇妙に聞えた。

赤ん坊もおばあさんも若者も、誰も時を止めることはできない。
時が止まっているような、伯母のいる場所だってそうなのだろう。
川の水の流れのように、人は変化している。
あのおばあさんはどうして、私に話しかけたのだろう。
よくわからない。
タイミング良く、エレベーターのドアが開き、私は逃げるように中に入った。
ドアが閉まってから、おばあさんにいつものように挨拶を返さなかったことに気がついた。
伯母とあのおばあさんは、私の知らないやり方で、会話しているにちがいない。
おばあさんは、どちらの世界も知っている、奇妙な通訳なのかもしれない。
伯母のことばを教えてほしかった。
駅まで歩くうちに、翌月の訪問が楽しみに変わった。

今度こそ、あのおばあさんにこちらから挨拶をしようと、私は心に決めていたのだが、その機会は消えてしまった。
伯母が亡くなった。
私が伯母に会ったのは、葬儀場だった。
あのおばあさんは、今もエレベーターの椅子に座っているのだろう。
「としさん」は、本当に私と話をしたのだろうか。
記憶は曖昧になっていく。