Novel(百物語)
02ten

八百屋の話

「おはようございます。今日のそら豆は最高ですよ」
八百屋のおばさんの、張りのある明るい声に出迎えられると、
さあ、一日が始まるぞと思うのは、どうも私だけではないらしい。
「あんたは、ほんとにいい声をだすねえ。
曇っていても、陽が差してきそうだよ」
老舗の粕漬け屋のおかみさんが、感心したように言う。
民謡でも歌ったら、さぞかしうまいに違いない。
私も以前からそう思っている。
しかし、おばさんの声を感心している場合ではない。
質が良いのに値段が安いこの店の野菜は、
呑気に選んでいると、あっという間に横から手が出てなくなってしまう。
知り合いになっても、おかみさんたちは容赦はしない。
私は、さっそくそら豆に手を出す。
ひと山でこんなに安いとは。
もうひと山買わなくては。
この小松菜の束は、普通の倍だ。
これも買おう。

軽トラックのこの八百屋は、先代から、近くの料亭から頼まれた野菜を卸している。
だから、上等な品しか取り扱わない。
もともとは値段も高いのだろうが、余分の野菜は必ず出てくるから、残りを路地裏で売って帰る。
朝早く、軽トラックの八百屋から野菜を買うのは、
近所で商売をしているおかみさんか、野菜を届けてもらうまでもないくらい、小さな店の主人だ。
仕事に向かう勤め人が気忙しく歩くそばで、
私たちは野菜を選びながら、他愛もない話をし、笑いあう。
はたから見れば気楽そうに見えるのだろうが、この時だけが、私たちの休み時間だ。
おかみさんたちも、店に帰ればすぐに商売が始まり、私も、仕込みが始まる。
「それじゃ、お先に」
女たちは、三々五々、自分の店へと帰って行く。
「ありがとうございます」
八百屋のおばさんの声が響く。
本当にいい声だ。
そう思いながら、私は重いビニール袋を下げて店へと向かう。
八百屋の店じまいの時間を聞いたことはない。
朝の九時過ぎにこの路地を通ったら、おじさんが荷台に幌をかけているのを見たことがある。
いい声のおばさんと違い、おじさんは野菜の値段を答える以外は、ほとんど口をきかない。
そのかわり、いつもにこにこしている。
誰かがおじさんにたずねたとしても、おばさんが代わりに答えてくれる。
「昨日は孫の運動会だったんですよ」
「あら、お孫さん、いくつ?」
客が聞くと、おばさんが「小学四年生なんです、上は」と答える。
「かわいいわねえ」
他の客が言い、、おじさんは笑顔でうなずく。
けっきょく、おばさんしか話さない。

料亭からの注文は、ファックスでおじさんの家に届く。
大体、十一時あたりにくるらしいが、急な注文が夜中の一時に来ることもざらにあるという。
「だから、うちはファックスの紙だけは切らさないようにしてるんです」
おばさんが言う。
朝早く市場に行き、七時には、料亭に注文の品を届ける。
朝が早いから、帰宅したらおじさんはひと寝入りする。
「ふたりとも、もうもたなくてね」
おばさんが、ちっともそう聞こえないつややかな声で笑う。

老舗のおかみさんのひとりが、具合が悪くなって、路地裏に姿を見せなくなった。
「あたしより若いのにね」
しんみりした調子で、客のひとりが言う。
「ほんとよね、ところで、あんたいくつ?」
「いやあね、年なんか聞かないでよ」
銀髪が美しいおかみさん同士が、どちらが年上か、さぐりあっている。
その間に、私は二人の足元にある隠元と絹さやのかごを引きだす。
「今日の隠元は柔らかくていいよ」
おばさんが私に言う。
おじさんは、と見ると、車のドア近くで缶コーヒーを飲んでいる。
「毎朝、届けてもらってね。ありがたいよね」
そう言いながら、おばさんは私に、軽トラックが止めてある少し先を指し示す。
豆腐屋の裏口近くに、捨てるのを忘れたかのような古い炊飯ジャーが置いてある。
以前から、私も気になっていた。
豆腐屋は、なぜ、あのジャーを処分しないのだろうかと。
「いつも温かいコーヒーを置いてくれるの」
私は豆腐屋のおかみさんと会ったことはない。
もっと早い時間に来ているのだろうか。

八百屋の軽トラックが、路地裏に止まらなくなった。
しかたなく、私は別の店で買い物をする。
しかし、毎朝、路地裏をのぞいた。
一ヶ月が過ぎて、軽トラックを見た時は、本当にうれしかった。
おじさんが倒れたらしい。
「もう年なんだから、気をつけてよ」
おじさんよりずっと年取っていそうなおかみさんが、そう言う。
「ほんと、皆さんにご迷惑おかけしてしまって」
おばさんが、謝る。
おじさんは、私達に頭を下げる。
いつもの光景が見られるようになって、誰もがほっとした。
しかし、そのうち終わりが来るような気がした。
朝早くの仕事は、体に辛いに違いない。
一度、倒れた人が、雨の日、合羽を着ていても、ずぶぬれになりながら仕事をするのは、無理だろう。
一緒に暮らしているらしい息子が、父親を説得する日が来るのは、そう遠くないような気がした。

冬の日、白菜を選んでいると、シャッターの上がる大きな音がすぐ近くでした。
「すみません、ありがとうございます」
女性の声も聞える。
ふり返ると、軽トラックが止まっている前の靴屋の店先が見えた。
いつもはシャッターがしまっているから、気がつかなかった。
白菜が映っているガラス越しに、見事なくらいヒールの高い靴が飾ってある。
八百屋にいることを忘れ、思わず私は靴に目を止めた。
小柄な八百屋のおじさんが、私のそばにいる。
「助かりました。何だか今日のシャッター、固くて」
きれいな女性がおじさんに礼を言っている。
「こちらこそ、いつもすみませんね」
おかみさんが近づいて、慌ててそう言った。
シャッターの音がきっかけで、おかみさんたちもおしゃべりをやめ、仕事場に行く。
葉がぎっしり詰まった重い白菜とたっぷりの束の春菊を下げて、私も店に行く。
風が冷たい日だった。
それが、私の最後の買い物になった。
一ヶ月経っても二ヶ月経っても、おじさんの軽トラックはやってこなかった。
靴屋のシャッターがよく見えるようになり、描かれている模様も、営業時間まで私は覚えてしまった。
もう通らない、と思っても、毎朝、あの路地に足が向く。

今朝、その習慣もやめることにした。
豆腐屋の店の脇にあった、あのジャーが消えていたからだ。
老舗のおかみさんたちと会うこともなくなり、それから数年後、私もその町から去った。