Novel(百物語)
02ten

水平線

桜が咲いて暖かくなったせいか、向かいの香川さんが家から出てくるようになった。
梅の頃は、まだ姿を見なかった。
人間にも啓蟄はあるらしいと、信二は心ひそかに思っている。
「香川さん、おはようございます」
自分の母親よりはかなり若い中島さんに頭を深く下げ、信二はていねいに挨拶をする。
「今村さん、おはよう。
おたくの生け垣、もう無理かと思ったのに案外元気ね」
香川さんは、悔しそうな顔をする。
昨秋、信二の家の生け垣に虫が大量発生した。
殺虫剤をアドバイスする香川さんを無視して、信二はばっさりと生け垣の枝を切ってしまった。
虫は葉の裏にいるのだと香川さんは説明するが、
葉を一枚ずつ調べるよりは、枝を切ってしまうほうが簡単だった。
「虫はいなくなるかもしれないけれど、そんなことしたら木が枯れてしまうじゃないの」
と、作業中の信二の横で、香川さんは文句を言った。
「大丈夫ですよ。木はそんなには弱くないですから。
枝を切られてこのままじゃ枯れてしまうとわかったら、また来年には一生懸命芽を出しますよ」
「そうかもしれないけれど、程度ってものがあるでしょうに」
まだ寒くもないころで、香川さんはカーディガン姿で信二の作業を監督していた。
いつまでも香川さんは立って見ている。
信二は気になった。
「椅子でも持ってきましょうか」
「大丈夫、大丈夫。店番していたころは一日中立ち通しだったんだから、慣れているの」

香川さんとの付き合いは、かれこれもう二十年になる。
縁あって、路地を隔てた向かいに土地を買い、家を建てた。
信二の子どもたちを、生まれたときから知っている人だった。
「あんなに小さかったのに、まあみんな立派になって」
と、立ち話ができるのも、長い近所付き合いのおかげだった。
二十年も近くに住んでいると、香川さんも時々、信二に昔話をしてくれる。
神田で電気店を経営し、景気のいい頃は店を四軒も持っていたらしい。
香川さんは奥ゆかしく、うちの人は才覚があって、
としか言わなかったが、商売を裏でしっかり支えていたことは確かだ。
しゃきしゃきともの慣れてはいるものの、相手を不快にさせない口調におかみさんの名残を感じる。
ただ、子育てはどうしても二の次になり、思い通りにはいかないと香川さんは信二に愚痴をこぼした。
しかし、香川さんの子どもたちは、商売が嫌で跡を継がなかったわけではなかった。
昔ながらの電気店が、大量仕入れ大量販売の店と対抗できるかどうか、考えた上での決断だったに違いない。
店を畳み、安定したマンション経営に転換したのはまちがってはいなかった。
ただ、香川さんには、親の知恵が子どもより劣ってしまったと感じる何かがあったのかもしれない。
亡くなったご主人の話はしても、香川さんは子どもたちの話をあまりしなかった。
ちょっとしたつまらないことがきっかけで、親子は縁遠くなることがある。
その点では、信二も似たようなものだった。

春になると、信二の予想通り、たくさんの芽が出た。
生け垣が枯れなかったのがよほど悔しいらしく、香川さんは、別の角度から問題点を見つけてきた。
「あれじゃ、生け垣の役目を果たさないじゃない。お宅、丸見えよ」
たしかに、香川さんの言う通りで、通る人がかえって目をそらす。
他人の家の中をじろじろ見ていると思われたくないからだろう。
信二が反論しなかったことに満足したのか、香川さんは別の話題に変えてきた。
「寒い時期は、年寄りはだめね。
亡くなる人が多いわね。
町内会で掲示板に訃報を出すでしょ。
黒枠のあの紙を見ると、なんだか嫌になるの。
余計なお世話よね。
自分が死んだことまで、町内に伝えてもらわなくてもいいのに。
ねえ、そう思わない?」
香川さんは傍目には元気そうに見えるが、案外そうではないのかもしれなかった。
「ほんとにそうですよね」
信二が珍しく素直に同意したせいか、香川さんは嬉しそうな顔をした。
信二は言葉を続けた。
「死んだ人の名前を出すよりは、死にそうな人を伝えるほうが大切ですよ。
あの人、そろそろあぶないってわかれば、皆で注意しあえますからね。
香川さんだって、そうしてもらうと安心でしょう?
私の田舎では年寄りが死にそうになると、中学生は墓の穴、掘らされていましたから」
「まあいやだ、お国はきっと遠いのね」
あなたとおしゃべりすると、話が妙な方向にそれてしまうとぶつぶつ言いながら、香川さんは家に戻って行った。
冬の間、殆ど姿を見なかったが、声も張りがあって大丈夫らしいなと、信二は香川さんの後ろ姿を見送った。
香川さんは、自分の訃報を町かどに張り出されることがよほど嫌らしい。
しかし、自分が死んだのに誰も気づかないのも、まっぴらにちがいない。
年寄りへの気配りが無神経だったら、生きていても、それはそれで気分が悪いのだ。
香川さんも苦労が多い、と信二は同情する。
しっかり者の香川さんだからこそ悩むことも多いのだろう。
香川さんのためなら、信二は墓掘りでもなんでもしてあげたい。

中学生のころ、信二や幼馴染は「墓穴を掘る」役目を大人から与えられていた。
まわりは年寄りばかりで、力仕事ができる男が少なかったからだ。
墓の穴を掘るのは、弔いの気持ちがこもった大切な仕事だったのだが、今、その言葉は残念ながら通用しない。
通用しないどころか、「そんな冗談を言って」と笑われる。
近所のお年寄りに信二ができるのは、啓蟄の時期を確かめることくらいだ。
香川さんの家の敷地は、このあたりではかなり広い。
以前は自宅の隣りにアパートが建っていたが、老朽化したために取り壊し、今は駐車場になっている。
駐車場の空きスペースで、中学生がいつもサッカーボールを蹴っている。
うるさくてしようがない、と香川さんは時々、信二に愚痴を言う。
「注意してあげますよ」
信二がそう言っても、
「何かあったらいやだから」
と香川さんは丁寧に断った。
その日の朝、駐車場にいたのは中学生ではなく、兄弟らしい幼い男の子たちだった。
下は三才くらいだろうか。
柔らかそうなボールを転がして遊んでいる。
家に入る足を止めて、信二は庭から子どもたちを眺めていた。
今の世で、近所の子どもたちが、死んだ人のために墓を掘ることになったら、
みんなどんな顔をするのだろうと、信二は想像する。棺を担いでもらい、土に埋めてもらうのだ。
恥ずかしい、そんなことは絶対いやだと香川さんは言うかもしれない。
見送るのは家族や知人だけでいい、
駐車場でサッカーボールを蹴っている行儀の悪い子の世話にはなりたくない、というのだろうか。
幼い日々を、信二は思い出す。
身近な人間が集まり、死者を見送ったことを、みんな忘れてしまったのかもしれない。
葬式を見直す人が多いという記事が、その日の朝刊に載っていた。
金がかかるだけで心がこもっていない葬式を望まなくなったと書いてあった。
しかし、家族葬といったところで、葬儀社に任せていることに変わりはない。
どんな田舎でも、死人が出たら葬儀社に電話するのが常識になった。
今の葬式が以前からずっとそうだったような錯覚を皆がしているが、
村の大人が棺を作り、力のある若者が墓を掘ったことを信二は憶えている。
炭を焼いたり、味噌を作るように、弔いもまた生活の中の行事のひとつだった。
共同作業だから、決して悲しみ一色に染まることはない。
皆で死んだ人をあの世に送り出す作業は、どこか明るかった。
死は誰のもとにも必ずやって来るものだったが、恐ろしいものではなかった。
みんなが弔ってくれるから怖くはなかった。
弔いの手伝いをしているうちに、信二もいつしかそう思うようになった。
幼い頃に見た老人たちのように、自分も最後は少し苦しむだろうが、
それはかえってこの世に生きてきた証に思えた。
遠い思い出ではあったが、幼い時からいつも身近にあった海と同様、信二の頭から消えることはなかった。
そんな昔のことを香川さんに話しても、アジアのどこか遠い国の習俗だと思うにちがいない。
実際のところ、香川さんは、信二を日本人ではないと思いこんでいるふしがある。

信二が育った村では、葬式が多かった。
年寄りが多かったから、当然かもしれない。
小さい子どもが「来ちゃダメ」
と追い払われる場面は日常生活では多かったが、誰かが死にそうな時は大丈夫だった。
それをいいことに、幼い信二はいつも母親にくっついて行った。
誰かが死にそうになると、村の人は集まってくる。
人がこの世から離れていく最後の時は、にぎやかだった。
ただ、その場面に医者はいなかった。
無医村だから、それが当たり前だとみんな思っていた。
あそこのじいさんが死にそうだと大人が話しているのを聞くと、
信二はいつもよりは気をつけ、行儀よくしていた。
いたずらで毎日怒られているから、母親の機嫌が悪いと、連れて行ってはもらえない。
大人の間に座り、隙間から信二はじっと年寄りを見ていた。
いつものやんちゃな態度とは違うから、優等生の子どもよりもかえって褒められる。
しかし、信二にしてみれば、褒められたいから母親について行くのではなかった。
「死にそうだ」
と、大人が話しているのが、本当はどういうことなのか、信二は知りたかったのだった。
家の近くに、中風のじいさんがひとり住んでいた。
いつも片手を揺らしている。
「またいたずらをして、お前は」
そう言って信二の頭を叩く時だけは、腕の震えがなぜか止まる。
信二の頭をめがけて、ごんと強く叩く。
爺さんの腕は少しも震えない。
叩かれた頭は痛いが、それよりも信二には、じいさんの腕が震えないことが不思議でならなかった。
中風のじいさんの腕は、もうすぐ死ぬという時も震えていた。
死ぬ直前、信二を叩く時のように腕をしっかりと伸ばした。
少しも震えてはいなかった。そして死んだ。
死ぬ間際の年寄りは決して安らかではなく、苦しそうだった。
エビ反りになったり、首をしめられているような声を出す。
座っている大人たちの隙間から、信二はその様子を観察していた。
大人たちは少しも驚いた様子はなかった。
年寄りが息絶えて静かになると、まわりの大人たちは急に大きな声で話しだす。
相手はもう口をきいてはくれないのに、
そのことがまだわかっていないかのように、大人たちは大きな声で話しかけた。
息絶えてしまった年寄りと仲の良い者もいれば、喧嘩ばかりしている相手もいる。
それでも、集まった近所の者は何かしら話しかけていた。
田んぼに引く水のことで、隣り同士でいつもいがみあっていたじいさんが泣いていた。
喧嘩がもうできないじゃないかと、布団に横たわっている相手に喧嘩を売っている。
生きている側は興奮しているから、ときどきとんでもない告白をする人が出てくる。
長年連れ添った相手でもないばあさんが、あんたが私の最初の男だった、と泣き出すこともある。
本当はあんたが好きで結婚したかったと嘆くばあさんもいる。
好きな人も嫌いな人も、死んだばかりの相手に話しかけ、この世の別れをしていた。
ただ、その時に口にした言葉をその後、蒸し返す人はいなかった。
あの場はどうも特別らしい、と子ども心にも信二は納得した。
あの時の言葉は死んだ人間と一緒に葬られ、普通の生活が始まると消えていった。
いつもは饒舌な母親が言葉少なく泣いているだけの時もあった。
信二は目ざとく見つけていた。
信二でも、理由はうすうすわかった。
村の中には、印象が薄く、特別な思い出話のない人もいるものだ。
生まれている間だけでなく死ぬ時も、それぞれ村の人には個性があった。
誰も何も言わないのだが、子どもにもそれはよくわかった。

年寄りが亡くなると、村の人は弔いの準備を始め、遠く離れた親戚が帰ってくるのを待った。
その間に、死んだ人は少しずつ腐っていく。
今のように、ドライアイスがふんだんにあるわけではない。
葬式の準備をしている家は、いつもと違う臭いがどこか感じられる。
浜辺に打ち上げられた魚と同じ臭いがした。子どもたちは、臭いで死を知っていく。
亡くなった人に別れを告げ、話しかけた時とちがい、
いざ弔いになると、みな、泣いている場合ではなくなる。
葬儀社など近くにないから、皆で弔いをしなくてはならなかった。
いつもはほとんど目立たないのに、てきぱきと仕事を進め、格好よく見える人が出てくる。
漁師のおじいも、その中のひとりだった。
亡くなった年寄りの身内は、遠くの町から列車を乗り継ぎ、連絡船に乗って帰って来る。
船は、港、港に立ち寄って島をぐるりと巡り、ようやく最終の港に着く。
しかし、難所はまだ続く。港に着いて船を降り、
山をひとつ越えなくては、信二の村にはたどりつかなかった。
山を越える時間がない時は、皆はおじいに船を出してくれるように頼んだ。
最初に連絡船が着く港におじいは漁船を走らせ、親戚を迎えに行く。
山越えをしなくてすむように、連絡船がやって来ない村の港に直行してくれる。
連絡船が通らない航路を、おじいは全速力で小さな漁船を走らせる。
もうすぐおじいの船が着くころだとわかると、皆は村の小さな港に集まった。
遠くに船影が見えてくる。
漁船を操縦するおじいが、誰の目にもたくましく、頼りがいのある男に見えた。

その当時、火葬場は島にはなかった。
誰かが死ぬと、海が見える高台の墓地に葬られた。
土葬だから、棺は座棺だ。
男たちは山に入り、
ひのきの木を切り出し、大きな枡の形をした白木の棺を作った。
座棺を運ぶための棒もついており、それは神輿に似た形をしている。
座棺のふたは凝った屋根の形をしたものを作るのだが、時間がない時は、屋根の飾りは省かれた。
いつもは竹を割いて籠を作っているおじさんが、この時だけはてきぱきと皆に指示する。
村の人は、山に自分のひのきの木を持っている。
赤ん坊が生まれると、親は苗木を一本植える。
苗木が大きく育ち、立派なひのきの木になって、棺材になるのだった。
座棺は、人が膝を抱えて入るくらいの大きさだから、決して小さくはない。
年寄りは村にたくさんいるが、都会の子どもたちに引き取られた人もいる。
そういう人は、お骨になり、島の墓地に帰って来る。
小さな骨壷に入って戻ってくる。
あんなに小さいのはいやだ、と年寄りが言うのを信二は何度も耳にした。

棺を埋めるのに、まずは墓地の土を掘らなくてはならない。
ほとけさんを埋葬する儀式に坊さんはやってくるが、その前に墓を掘る準備をしなくてはならなかった。
ほとけさんの入る場所を決めるのは、なかなか大変なことだった。
亡くなったら、その人の家の墓地に埋めるのが当たり前なのだが、いつもその通りにできるとは限らない。
墓の下には、その前に亡くなった人が入っている。
ひのきの座棺が土に戻り、ほとけさんがお骨になる十三回忌までは掘るわけにはいかなかった。
その家に葬式が続くと、自分の家の墓でも入れないことがしばしばあった。
どこを掘ったら大丈夫なのか、話し合いをしなくてはならなかった。
前に入ったほとけさんがまだ七回忌くらいでは、
その墓の土を掘るわけにはいかず、一時期、親戚の墓に入れるしかない。
村人は、死者の落ち着き先を探さなくてはならない。
他人より仲の悪い親戚など、村でもざらにいて、
生前は犬猿の仲だったふたりが、同じ墓に入るということも時々起こった。
当人たちにはかわいそうだが、大人も信二たち中学生も思わず笑ってしまうことが多かった。
人が亡くなった悲しみも、実際的な仕事をしていると、
泣いたり笑ったりと、ちょうどよい具合に混ぜ合わされ、良い感情になってくる。
いざ墓の土を掘るとなると、中学生が墓掘り人夫として重宝された。
中学を卒業すると、皆、仕事か高校進学かで、村を出て行く。
幼い頃は怒られてばかりいる少年たちだが、
体力のある男は数少ないから、成長するにつれ出番は増え、頼りにされた。
掘る力はとっくになくなっているのに、口だけは達者な年寄りたちが、
あれこれと信二たちに指図する。
村には苗字が三つしかない。
そのせいで、同じ苗字の墓がたくさんあった。
指図する側が間違って、他人の墓を掘ってしまうこともあった。
何度も掘り返さなくてはならず、信二たちの墓掘り仕事は重労働だった。
ようやく掘り終えた頃に、誰かが寺まで坊さんを呼びに行く。
坊さんが墓地にやって来て、お経を唱え始める。
土を掘っていると、以前に埋められたほとけさんの骨が見えてくることもあった。
「ほとけさんを傷つけるなよ」
年寄りからまた指図がとんでくる。
掘った穴に棺を入れるときが、またひと騒動だった。
仏さんの顔は、西を向いていなくてはいけない。
弔いの手伝いのおかげで、西方浄土という言葉を信二は小さい時から知っていた。
村は西に向いて海が広がっている。
座棺に座らされたほとけさんが海に向かっているか、最後に確認をしなくてはならなかった。
ほとけさんが山を向いていたら、成仏できないから大変だ。
「こっちが顔だ」
「いや、こっちが背中だ」
と、座棺の向きを巡って、大人たちが大騒ぎする。

信二の記憶では、村の弔いは賑やかなものだった。
誰も泣いてなどいない。
男たちの指示がとぶ中、中学生が掘った穴の中にほとけさんが座っている棺がしずしずと入っていった。
土をかける前に、信二たちは手を合わせて拝む。
「きちんとおがめよ。悪いことしていると、たたられるぞ」
思いだせないほどいたずらをしてきているから、信二たちもその時は真剣に拝んだ。
棺に土をかけ、ようやく弔いは終わった。
時が経って、棺は土に返り、体は骨になり、十三年後に身内の棺がお骨の上にやって来るのだった。
土をならした後、ひと仕事終えた中学生たちは背中を伸ばし、海を眺めた。
水平線はどこまでも続いている。
海と空は晴れている日はくっきりと区切られているが、どこに水平線があるのか、わからない日も多かった。
生きている人と死んだ人との境目も、なんだか似ているように信二には思えてくるのだった。

梅雨になり、香川さんの姿を見ない日が続いた。
食事作りが面倒で、とこぼす香川さんに、信二はコンビニの宅配サービスを教えてあげた。
久しぶりに立ち話をした時、あれは便利だと香川さんは喜んでくれた。
買い物もついでに頼んでいるらしい。
「でも、時には外に出てきてくださいよ。
買い物は、うちの子どもに頼んでもいいんだから」
そんな話を家の前でしてから、半年は経ったころだろうか。
帰宅すると、先に仕事から帰っていた妻が言った。
「香川さん、亡くなったんですって。
電話をしても出ないって娘さんが来てみたら、亡くなっていらしたそうよ」
信二は黙って、リビング側の窓のカーテンを少し開けた。
香川さんの家が見える。
たしかに、珍しく家中の電気がついていた。
香川さんの訃報は町内会の掲示板に出ていた。
近くの葬儀会館で、葬儀が行われるらしい。
犬の散歩の途中で、信二はその知らせを見た。
家の前まで来ると、小さな女の子が走ってきた。
「わんちゃんだ」
と言ってしゃがみこんだ。
年取った犬でその上おとなしいときているから、子どもが触ってもじっとしている。
「さらちゃん」
香川さんの家の門が開き、ひとりの女性が走って出てきた。
「さらちゃん、おうちから飛び出したらだめでしょ。
車にはねられたらどうするの」
犬に夢中の女の子は、母親の真剣な小言など残念ながら聞いてはいない。
香川さんの娘さんだろうかと信二は思い、
「このたびは」
と頭を下げた。母親の顔をしていた女性は急に娘の表情になった。
「お隣りの方ですよね。
母がいつもお世話になりました。
ありがとうございました」
そう挨拶をし、女の子の手を引っ張って家に戻ろうとする。
しかし、犬に興味をもったさらちゃんは母親の言うことをきかなかった。
「お忙しいことでしょう。
いつでもお嬢ちゃんをお宅にお連れしますから、うちの庭で遊んでいてもかまいませんよ」
「そんなことお願いするなんて、ご迷惑ですから」
最初はそう言って子どもの手を引っ張っていた娘さんだったが、
葬儀の準備で頭がいっぱいらしく、
「それでは、この子が騒いだらいつでも迎えに参ります」
と帰って行った。
「じゃあ、おじさんのうちにおいで」
その言葉を聞くと、さらちゃんは喜んで信二の家の門を自分で開けた。

さらちゃんは人見知りをしない女の子だった。
しばらく犬と遊んでいたが、そのうちに飽きたらしく、しきりに信二に話しかけてくる。
小さい女の子の相手をするのは、信二にとっても久しぶりのことだった。
幼い子どもの話は、慣れていないと聞きづらい。
あいづちをうってはいるものの、
さらちゃんが何をしゃべっているのか、最初、信二にはわからなかった。
そのうちに、香川さんの話をしていることに気がついた。
「ばあばはね」
と言うのが、おばあちゃんのことだとようやくわかってきた。
香川さんの話を、さらちゃんは信二にしてくれた。
さらちゃんのおかあさんはハヤシライスが上手で、
それはばあばに教えてもらった料理らしい。
じいじとばあばは電気屋さんのお仕事をしていて、とってもいそがしかったらしい。
ばあばはいつも
「だらしなくなったら人間おしまいよ」
と言っていて、さらちゃんのおかあさんも、よく口にするらしかった。
ひとしきりおしゃべりをすると、
「おじちゃんも、ばあばにお話を聞いたら、さらにも教えてね」
さらちゃんは真面目な顔でそう言い、たけと手をつないだ。
「わかったよ」と信二は約束した。
さらちゃんの手の大きさは、信二の手のひらにもみたない。
小さくて柔らかった。
おしゃべりなさらちゃんは、どこか香川さんに似ている。
おしゃべりなのに、嫌味がない。
そうやって香川さんはご主人と電気店を繁盛させていったのだろう。

向かいの家の玄関が開いた。
「ほんとにお世話になりまして」
香川さんの娘さんが、道を横切ってやってきた。
「ぜひ、お通夜か葬儀にいらしてください」
信二が軽く会釈をすると
「おじちゃん、ばいばい。また遊ぼうね」
さらちゃんは信二の手をさっと話すと、走って母親のもとに行った。
ふり返りながら、向かいの香川さんの家に入って行く。
信二は香川さんの家に向かって手を合わせた。
香川さん、お弔いはさらちゃんとふたりでしましたよ。
心の中で信二は香川さんに話しかける。
母親と距離を置いているように思えた娘さんだったが、
さらちゃんにおばあちゃんの記憶を伝えていた。
電気店を仕切っていた香川さん、ハヤシライスが得意で、
従業員みんなが好物だったそうですね。
私も香川さんから聞いたこと、ありましたよ。
作ってあげるといいながら、食べさせてはもらえなかったけれど。
香川さんはさらちゃんと離れて住んでいても、しっかりつながっていたじゃないですか。
香川さん、実は心配だったんでしょ。
でも、大丈夫。さらちゃんは香川さんによく似ていますよ。
娘さんは、香川さん以上にしっかりものですよ。
信二は庭に戻り、幼い女の子と遊んでくれた犬を褒めてやろうと思った。
犬は何かを見つけたのか、信二を見向きもせず、せっせと庭に穴を掘っていた。