千鳥ヶ淵
桜の季節に千鳥ヶ淵に出かけ、お堀端のフェアモントホテルに一泊する。
祖父母から始まり、両親も楽しんだ、年に一回の夫婦の逢引は、残念ながら私の代で消えてしまった。
「今年も、千鳥ヶ淵にお花見、行ったの?」
叔母たちが私に聞くことはないのだが、夫婦の花見の習慣を自分の代で切ってしまったことに何となく責任を感じているのかもしれない。
逢引する相手がいないのが本当の理由だったが、ホテルもなくなってしまった。
おかげで、言い訳ができた。
桜の名所はほかにいくらでもあるし、ホテルも数え切れないほどある。
しかし、私にとって、夫婦で花見に出かける場所と言えば、千鳥ヶ淵しか思い浮かばない。
祖母や母の思い出がいっぱい詰まっている場所だった。
雛の季節になると、母はなぜか楽しそうだった。
「もうすぐ桜、咲くわね」
としきりに私に話しかけた。桃の節句なのに、母は桜のことばかり気にしていた。
忙しい仕事の合間を見つけて、幼い私と一緒に、一対の小さなお雛様を飾った。
手先の器用な祖母が作った木目込み人形のお雛様は、子どもにも扱いやすく、お手伝いは楽だった。
「おばあちゃんって、ほんとに上手よねえ」
母はお雛様を見て、にこにこしている。私も嬉しくなる。
たしか、桃の花ではなかったように記憶しているが、明るい色の花を少し飾った。
色紙でお雛様や菱餅、三方も作った。
そのうちに、おやつの時間になる。
ひなあられや菱餅がもらえたから、子ども心にも雛祭りのお手伝いは本当に楽しかった。
母の嬉しそうな様子が、子どもの私にも伝わってくる。
母が喜ぶのは、暖かくなって花がたくさん咲くからだと、あの頃の私は単純に思いこんでいた。
母は、花が好きな人だった。
質素な生活だったが、家のどこかにいつも必ず花を飾っていた。
ふたりだけで行動することなどほとんどなかった両親の、年に一度のデートを私が気づいたのはいつごろだったろうか。同居している祖母に
「あれ、おかあさんはどこ?」
と聞いても、
「おばあちゃんと、お利口さんにお留守番できるかな?」
と上手にかわされていたせいだろう。ずいぶん大きくなるまで、私はそのことに全く気付かなかった。
父は仕事でいつも忙しく、幼い私が布団に入るまでに帰宅することはほとんどなかった。
父と母がふたりで楽しそうに花見をしているなんて、想像もつかないことだった。
そう言えば、祖母と母がよそゆきの着物を前に置き、あれこれと相談したりしているのを見かけたことがある。
母はいつになく嬉しそうで、祖母もまた、母に優しく語りかけているのだった。
早くに親を亡くした母にとって、祖母は姑というよりは実の母以上だったのかもしれない。
町工場を経営していた我が家では、祖母と母は大事な裏方で、いつも一緒に仕事をしていた。
ふたりがかりでこなさなくてはならないくらい、仕事の量は多かった。
当時、我が家の隣には職工さんたちが住む寮があった。
寮といっても、普通の家を二軒借りたものだ。
賄いの人を雇うことなど、祖父も祖母も考えもしなかった。
祖母と母は寮の食事作りに掃除、洗濯、時には工員さんの揉め事の仲裁まで引き受けていた。
祖母と母は、実の親子と勘違いされることが多かった。
顔が似ているというよりは、立ち働く時の雰囲気が同じだった。
休むことなく働いているにもかかわらず、周りに気忙しさを感じさせない、どこかおっとりとしたものを持っている。
忙しい母だから小走りになることもあるのだが、子どもの私が見ても、可愛らしさを感じる足の運びだった。
祖母と母の口調はいつも柔らかかった。父と工員さんが言いあっている最中でも、穏やかに話した。
残念ながら、私は母には似ず、腕まくりをして喧嘩を始めそうになっている工員さんたちに似ていた。
家の中に母の姿が見当たらなくても、幼い私は気にならなかった。
母はどこかに出かけているわけではなく、隣りか、もう一軒隣りの家を探せばよかった。
「おかあさーん」
幼い私が玄関を出て、二軒の家の前で呼ぶと、祖母か母が顔を出してくれる。
「千秋、どうしたの?もうちょっと待っててね。今、行くから」
忙しいのだからと私を怒るわけでもなく、だからといって子どもの私を最優先にしてくれるわけでもない。
ふたりは穏やかに私を説得し、なんとなく私も落ち着いて、自分の家に戻って行くのだった。
若い職工さんの結婚式は、必ず我が家で行われた。
費用はかけないが、きちんとした結婚式をさせ、浮いた金を、彼らの新婚生活の足しにさせるのが祖父の流儀だった。祖父の工場は、従業員を大切にすると評判だったらしい。
我家よりずっと素敵な家に住んでいる職工さんも多く、遊びに行く度に私は羨ましかった。
そこそこ大きい町工場で、一見、贅沢に見える我が家だったが、内情は非常に堅実だった。
法事の集まりにしても、どこかに食事に行くなどということはない。
我が家に親戚全員が集まり、祖母や母が作った食事を皆で食べた。
セイロで蒸した赤飯、野菜と厚揚げの煮しめ、大根と人参のなます、季節の野菜のぬか漬け、
キノコと賽の目に切った豆腐が入ったかきたま汁、それが定番だった。
皆が集まる時の献立はいつも同じだ。
だからこそ、その日が特別であることを、親戚全員が感じた。
三軒分の家事を任される毎日だったからこそ、母にとって、年に一度の花見は今の私などには想像できない楽しみだったに違いない。
花見の始まりは、実は苦いものだった。なぜなら、祖父の謝罪が原因だったのだから。
花見に行こう、時にはホテルにでも泊まろうと突然夫に言われ、さぞかし祖母は嬉しかったに違いない。
子どもたちも学校を卒業し、ようやく落ち着いたころだった。
祖父が興した金属加工の工場は、祖父の努力と時代のおかげで少しずつ大きくなっていった。
夫を助け、私の父を先頭に五人の子供を育てた祖母にしてみれば、夫婦で花見というのは感慨深いものだったろう。
しかし、夫婦で共に歩いてきたと祖母が思ったのは早計だった。
夜桜を見た後で祖父が口にしたのは、祖母の想像もつかないことだった。
もうすぐ高校生になる女の子を、卒業まで家に置いてくれないかと祖父は頼み込んだのだ。
簡単に言えば、祖父の隠し子で、相手の女性が亡くなってしまったらしい。
「賢い子のようだし、気立てもいい子だ。これからお前に迷惑をかけることはしないから」
窓から夜桜の見えるホテルの一室で、祖父は自分の妻に頭を下げて頼み込んだのだった。
長い間だまされていたと知った時、祖母はどんな気持ちで窓辺の桜を眺めたのだろう。
家の中で愁嘆場を作らない賢い夫にあきれ果てたのだろうか。
結婚していない私には、祖母が夫を許したことが理解できない。
私だったら、そんな勝手なお願いを受け入れるなんて、絶対できない。
いつだったか、祖母の思い出を母と話していた時、そんな感想を口にしたことがある。
「私も無理だと思う。やっぱり、時代が違うせいかしらね。
おばあちゃん、誰に対しても優しい人だったから、それもあるわね」
母は私に言う。そんな器でない私は、ただ頷くしかない。
祖母は、祖父より長生きし、私が小学生になった年に亡くなった。
祖父の記憶は全くない。祖母のことは憶えているようでいて、その実、定かではない。
満開の桜を堪能した記憶はあっても、それぞれの桜がどんな様子だったかを説明できないのに似ている。
始まりこそ苦いものだったが、花見のデートは毎年続いた。
祖父の初心を忘れさせないための、祖母の画策だったかもしれない。
「あたしたちの薮入り」
というのが、祖母の口癖だったらしい。きっかけはともあれ、祖母が毎年の花見を楽しんだことは確かだった。
父が結婚すると、祖母は花見の習慣を若夫婦に引き継がせた。
裏方の母が、公然と休みを取れるようにしてくれたのだ。花見にかこつけて、
母が着物や贅沢品を買えるようにもしてくれた。
「千鳥ヶ淵に行くんだから、そりゃ、いい加減な格好はできないわね」
そう言って、祖母は母に毎年着物を作らせた。
「おばあちゃんとデパートに買い物に行くのが、本当に楽しみだったの。
また一年、頑張って働こうって思ったわ」
着物は、残念ながら箪笥にしまいこんだままだが、母が花見の口実で買った指輪やネックレスは、
現在、私が使っている。どれもいい品だし、昔風のデザインが、かえって洒落てみえる。
祖母は優しいだけでなく、たくましい人だ。
相手の隙をたくみに使う仕事上の駆け引きは、中堅の営業職の私より祖母のほうが上手だ。
羨ましい。
祖母が生きていたら、仕事の悩みを聞いてもらいたいくらいだ。
しかし、祖母も、そして母ももういない。
祖父の隠し子、晶子ちゃんは三年間、祖父母と暮らし、その後、家を出て大学に行き、中学の先生になった。
歌が大好きだった彼女は、歌を仕事にした。
声楽家ではなく、音楽の先生になり、合唱部の顧問になった。
自分の人生のすべてを合唱に捧げるような情熱で取り組むせいか、彼女の赴任校の合唱部はいつも優秀だ。
合唱コンクールでいい成績をあげるだけでなく、歌好きの子どもたちを育てている。
「晶子ちゃんにかかっちゃ、中学生も逃げられないわね」
おばさんのこととなると、母はまるで可愛い妹のことを話すかのような口ぶりだった。
「おばあちゃんはね、晶子ちゃんのこと、心配していたの。あの子には身内がいないからって」
「晶子おばさんなら、誰もいなくても大丈夫そうじゃない?」
私がからかうと、母は笑いながらもにらんでくる。
一緒に暮らしたことはないのに、母と晶子おばさんは仲がよかった。
父が結婚し、我が家に母が来てから、祖母がおばさんを家に呼ぶことは多くなった。
おばさんは祖母に呼ばれると嬉しそうに家にやって来たが、自分から進んで来ることはなかったと母は言った。
叔母たちが晶子おばさんにいい感情をもてるはずがないのは確かだったが、少なくとも彼女は祖父の子どもだった。
せめて母だけでも、晶子おばさんと仲良くしてほしいと祖母は思っていたのだろう。
「おばあちゃんに晶子おばさんのおかあさんのこと、聞いたことあるの?」
「おばあちゃんもよくは知らなかったみたいよ。うちみたいに自営業だったようだけど」
「おばあちゃん、本当に頭にこなかったのかな」
「昔の女の人があなたと違って、あきらめがよかったなんて思わないほうがいいんじゃない?」
母は私を見つめながら、静かにそう言った。
「それってどういう意味?」
「悔しい気持ちは、今も昔もおんなじだと思うのよ。
ただ、感情に流されないで生きて行くすべを、あたしたちよりも知っていらしたんじゃないかしら。
晶子ちゃんにはなんの罪もないからね、っておばあちゃんはいつも言ってらしたのよ。」
それから、母は何気なく付け足した。
「それにね、晶子ちゃんのおかあさんは、おじいちゃんから経済的に援助してもらったことは一度もないそうなの」
「えっ、それ、本当?」
「認知してもらえれば、それでいいって。おじいちゃんにそれ以上は要求しなかったらしいの」
「おじいちゃんってケチなんだ」
思わず私は声をあげた。
「まあね、でも、けちなのかどうかはあたしたちが決めることじゃないでしょ。
おじいちゃんをいじめるのはやめましょう。文句を言えるとしたら、おばあちゃんだけよ」
そんな話をしたのは、いつ頃だったろう。
母と話す時間は、まだまだあると私は呑気に思い込んでいた。
まさか、七十前にいなくなってしまうなんて、考えもしなかった。
父も同じ思いに違いない。
祖母のおかげで、母と晶子おばさんは仲良くなった。
おばさんにとって、唯一の姉と呼べる人が母になった。
一人っ子だった母も、妹ができたようで嬉しかったらしい。
しかし、祖母が亡くなると、おばさんはあまり姿を見せなくなった。
遠慮したのかもしれないが、合唱部顧問としておばさんの名前が知られ、忙しくなったせいもある。
研修留学でウイーンやイタリアに行くこともあった。
小さい頃の私がおばさんをあまり憶えていないのは、そんなわけだ。
ただ、我が家に顔を出すことが少なくなっても、母とおばさんの付き合いはずっと続いていた。
母が使っていた美しいスカーフやブローチ、ハンドバッグは、おばさんの外国土産だ。
「晶子ちゃんからだわ」
小さな小包が届くと、母ははずんだ声を上げ、手紙を何度も読み返す。
母にとっては、小包よりもおばさんからの手紙が大事だった。
そのあいだに、私は外国から届いたばかりのお土産をそっと確認する。
「千秋、開けてもいいわよ」
母の言葉が嬉しかった。
私の記憶に強く残っているのは、ウイーンのチョコレートだ。
私の机の引き出しのどこかに、濃いピンクの包み紙が今もあるにちがいない。
チョコレートの中に、リキュール漬けの大きなサクランボが入っている。
十六個のチョコレートが、四角い籠の中に収まっていた。
木を薄く削いだもので編んだかごは茶色で、金色の薄紙とピンクの包み紙が何とも言えずきれいに映った。
蓋はなく、透明のセロファンで覆われている。
中のチョコレートがよく見え、店のショーウインドーを覗き込んだ気分になった。
母は、このチョコレートを父と私にもおすそ分けしてくれた。
ただし、私には洋酒漬けのサクランボは無理だったから、サクランボが父、チョコレートが私だったように憶えている。
晶子おばさんは、親戚が集まると、子どもたちを必ず背の順に並べた。
それはまるで、奇妙な儀式のようだった。
会うたびに、並ぶ順番は変わった。
私の父方のいとこは七人いたが、毎回、だれが背が高くなったと大騒ぎするのが楽しみのひとつだった。
おばさんが私たちを背の順に並べるのには、理由があった。
子どもたちを並べ終わると、おばさんはドレミのドの音を歌う。
かすかに聞こえるほどの小さな声で。
それから、一番小さい子にむかって、右手を差し出し、にっこり笑いながらレと歌う。
ドを歌った時よりは少し大きな声で。
思わず声が引き出されてしまうようなしぐさだった。
一番小さな子がレと歌い、順に私たちはおばさんの動作に合わせてミ、ファ、ソと歌った。
自分の番でもないのに、つい声が出てしまうと、おばさんはその子に向かって人差し指を左右に振る。
それから手のひらを広げ、静かにと目くばせをする。
一番背の高い子がドと叫んで終わりになる。
ひととおりドレミを歌うと、おばさんは、いろんな音程のドを出してくる。
私達も次第にのりがよくなり、おばさんの音程に合わせて歌う。
高音程のドレミだったり、低い声のドレミだったりする。
ドレミの歌は歌詞もなく、難しくはなかった。
おばさんは子どもたちに言葉で指導しないから、どんな小さな子でも、おばさんと一緒に歌うことができた。
少し大きくなると、
この儀式はどこか馬鹿らしく思われるのだが、おばさんの指揮にあやつられ、
結局私たちはいつのまにか大きな声で歌っていた。
大人たちは呆れた顔をしていたが、子どもたちには楽しい遊びだった。
「晶子は結婚しないのか」
顔を合わせると、父は冗談めかしておばさんに尋ねる。
「イタリアに沢山の男たちが待っておりますの」
これまたおばさんも、大げさな身ぶりで返すのだった。
私がおばさんの答えを妙に思わなかったのには、理由がある。
イタリアの男ならおばさんを好きに決まっていると私は信じていた。
なぜなら、おばさんの体からは、牛乳のにおいがしたからだ。
母とは全く違う匂いだった。
おばさんの匂いは、私には少しだけ苦痛だった。
しかし、おばさんが大好きだったから、抱きしめられると私は息を止めていた。
私やいとこたちは、おばさんに会うと必ず抱きしめられる。
「おばちゃんの胸、すげえ」
いとこのうちの誰かが、必ずそう言う。おばさんは体格がよく、
胸もたっぷり大きい。
そういわれれば、母にしても、伯母たちも薄い胸をした、華奢な体つきだった。
牛乳の匂いがするのは、おばさんの大きな胸のせいだと、幼い私は当然のように思っていた。
そのことをいとこに話したら、大笑いされた。
「千秋、おばちゃんは牝牛かい。モーモーモー」
そう言って、二つ年上のいとこは私をからかった。
しかし、おばさんに抱きしめられるといとこは恥ずかしそうな顔をしながらも、決して嫌がらなかった。
晶子おばさんが特別な人であることを知ったのは、私が中学生の時だった。
祖母の年忌の時、おばさんの姿がなかった。不思議に思って尋ねると、母は暫く黙っていた。
「色々あってね。晶子ちゃんは、おばあちゃんとは関係ないという人もいるから」
そう言った。
私にはなんのことか、全く理解できなかった。
親戚の集まりに、おばさんが来ていいときと悪いときがあるなんて変だと憤慨した。
しかし、私はそれ以上文句を言うことはできなかった。
母の態度に、何かしら感じるものがあったからだった。
母と私のやり取りを聞いていた年長のいとこが、あとでこっそり教えてくれた。
おばさんは、父や叔母たちとは本当の兄弟ではないこと。
祖父と別の女性との間に出来た子であること。
おばさんが中学生の時、祖父が家に連れてきて、祖母が育てたことなどを。
たしかに、父親が同じだとはいえ、一緒に暮らしたこともない妹を叔母たちが気にいるはずはなかった。
父は面倒をおこしたくないらしく、一応は妹達の意見に従っていたのだろう。
ただ、父なりに考えがあり、妹たちの感情が収まるのを待っていたように思われる。
後に、我が家の集まりにいつもおばさんの姿はあったから、父なりの努力があったに違いない。
私がおばさんのことを尋ねた時、母は他の話題に変えようと思ったのか、
祖父が生きていた頃の町工場の話をしてくれた。
今では日本を代表するような企業が、祖父の町工場のお隣りさんだったという。
「おじいちゃん、あちらの社長さんと仲良くてね。
よく二人でお酒を飲みに行ってらしたのよ。
夕方になると、社長さんが誘いに来るの。
遊びに行こうって、子どもみたいにね。
おばあちゃんはね、おじいちゃんたちが出かけてしまうと、私によく言ってらしたわ。
全くお神酒徳利みたいって」
あの有名な大企業が、祖父の工場と隣り合っていたなんて、私には信じられなかった。
隣り同士だったのに、こちらはあの当時のままで終わってしまっている。
そのことが、私には悔しかった。
しかし、両親も叔母たちも、誰も気にしていなかった。
その後、母はその話題を口にすることはなかった。
残念だが、それが我が家の良さなのだ。
仕事が行き詰ると、社員が帰ったオフィスでひとり、残業する癖が私にはある。
家にいるよりも工場にいる時間が長かった父との共通点は、案外こういうところにあるのかもしれない。
社内の意見をまとめられなかった時や営業成績が悪い時、
どこかに飲みに行くよりも、静かなオフィスのほうが私の気持ちを落ち着かせてくれる。
母が死んだ時も、私はそうやって悲しみをひとりこらえた。
オフィスはあのホテルの近くだった。千鳥ヶ淵に面しているわけではなく、窓から緑が見えるわけでもない。
しかし、夜になると、木々が密やかに発散する匂いがするような気がした。
数年前にオフィスの移転が決まり、千鳥ヶ淵近くと知った時、私は不思議な気持ちになった。
オフィスが我が家の思い出の場所に移転したことで、私は自分がずっと抱いていた希望が叶うような気がした。
父は工場の経営で苦労しており、私もそのことはよく知っていた。
私なりに、三代目として工場の将来をずっと考えてきた。
大学を卒業した時、父が工場を手伝わせてくれなかったのは、
どこかで修行して戻って来いということだと私は思いこんでいた。
工場の経営に、父は将来的には私を参加させてくれるだろうと信じていた。
千鳥ヶ淵の花見は、結婚する相手が現れない限り、私には不確実なことだった。
しかし、祖父が興した工場の跡取りになることは、夫婦の花見よりは可能性が高かった。
私を可愛がってくれた職工さんのことを、深夜のオフィスで私はとりとめもなく思い出していた。
子どものいない職工さん夫婦が、私を連れて遊園地に連れて行ってくれたこともあった。
故郷の茨城に連れて行ってくれた人もいた。
少し大きくなって工場に行くと、遊びに連れて行く時とは違うおじさんたちの真剣な表情を見た。
「千秋ちゃん、大きくなったら、この工場頼むぞ」
そう言われて、私もこくんと頭を下げていたのだ。
両親を招待し、あのホテルで食事でもしようかと私は考え、楽しい気分になった。
両親に私の思いを告げるのには最適な場所だった。
ところが、その矢先に母が倒れた。ホテルの食事会どころではなくなった。
工場の話をする暇もなく、父と私は互いに入院した母を見舞った。
しかし、一年もたたずに母は逝ってしまった。
「千秋ちゃん、男って本当に弱いものね」
叔母たちは、私と会うたびにそう言う。
たしかに、母が亡くなってからというものの、父は生きるのに必要な何かを失った人になってしまった。
「一緒に暮らそうか」
私が頼んでみても、
「おれはひとりで大丈夫だ」
と、すげない返事しか、かえってこない。
父は思った以上に、男ひとりの生活をこなしているから、私が手伝うわけにもいかなかった。
それならせめて、一緒に仕事をしようと私は考えた。
ところが、父が私に伝えてきたのは、工場を閉鎖するという話だった。
私に相談することもなく、介護の手厚い老人ホームに転居するという。
私には納得がいかなかった。けんかはしなかったものの、これまで父親に感じたことのない気まずい思いが残った。
「お前に迷惑をかけたくない」
父はそれしか言わなかった。
「お前がうちの工場で苦労する必要はない。
今の会社でがんばればいいじゃないか」
という父親に、それでもしつこく私は食い下がった。
「まずは事業計画書だけでも読んでみてください」
私がそう言っても、父は机の上に置きっぱなしにしているだけだった。
何度か話し合おうとしたが、私の申し出など、父は一顧だにしなかった。
工場の様子を聞きだそうとしたが、
「お前なんかにはわからんよ」
というだけだった。私がいくらがんばっていても、父にとっては、いつまでたっても、ただの女の子でしかないのだろう。
女は裏方でしかなく、工場を託す相手だとは思っていないようだった。
最後は話し合いなどではなく、ただの親子喧嘩に終わってしまった。
「もういいから、お父さんの好きなようにさせてくれ。
うるさいんだよ。お前にはわからないんだから」
その言葉を聞いて、思わず私もかっとなってしまった。
「じゃあ、おかあさんも納得しているってお父さんは思っているのね。
お父さんだけの会社じゃないのよ。
おかあさんも頑張ったし、社員さんもみんな一生懸命だったのに」
「お前なんかに言われなくてもわかってる」
母親の仏壇の前で私達親子は喧嘩をして、別れてしまった。せっかく二代も続いた、
方向さえ間違えなければまだまだ可能性のある工場は、そういう理由でおしまいになった。
自宅や工場を処分し、父が買い取っていたかつての二軒の寮も退職金にすべて消えた。
私はその経緯を年下のいとこから聞いた。
「お前には苦労させたくない」
といいながら、父はこっそり、妹の息子、つまり私のいとこに相談をしていた。
彼は私より三つ下で、少なくとも仕事においては私が先を行っていると思っていたから、父のやり方は許せなかった。
「千秋ちゃんに相談するほうが、俺なんかよりずっといいのにね。
でも、親父さん、許してあげなよ。男女差別だし、俺だってそういうのは嫌だけど、
おじいさんに説教しても意味がないんだよ。
悔しいだろうけど、工場はもうあきらめて、互いに、自分の仕事でがんばろうな」
幼い頃、晶子おばさんの指揮の下、私の隣でドレミのミを歌ったいとこが慰めてくれた。
しかし、私はおいてきぼりをくらったような気がする。
祖父が興した工場を、父がつぶしたにもかかわらず、
跡取りが女だからという理由にすりかえられているような気がしてならない。
祖母と母も頑張り、工員さんの顔も知っている私だからこそ、私なりに夢があった。
勤めている会社も、工場の三代目になったときのことも考えて選んだのだ。
そういう私の姿を、両親は理解していると思ってきたたが、甘かったのかもしれない。
桜は毎年咲いてくれるのに、私には家族の思い出のどこかが欠けてしまった。
春はもうそこまで来ていたが、心がはずまなかった。
そんな時、思いもかけず、晶子おばさんから電話があった。
「千秋、あんた、生きてんの?」
「生きてるから、おばさんの電話に出ているんじゃない」
私がそう答えると、
「まあ、いいご返事だこと。千秋は、あのご両親の子どもだとは思えないわね」
と、おばさんは笑いながら言った。
「ほんとに素敵な人たちなのにね。一体、誰に似たのやら」
素敵な人たちなんですかねえと、私は思わず口にしそうになったが、ようやくこらえた。
心が弾まないのは、消えたホテルのせいだけではない。
工場が消えたせいだと、やはり認めざるをえなかった。
父と喧嘩したあの時の悔しさが、まだこみあげてくる。
晶子おばさんが、我が家の経緯をどこまで知っているのか、わからない。
しかし、小さな携帯電話から流れてくる、張りのあるおばさんの声を聞いていると、なんだか元気がでてきた。
会わないかと言われたその日は実は忙しかったのだが、
時間をなんとか融通する気持ちになったのも、おばさんのおかげだ。
おばさんは私を武道館に誘った。
かつての彼女の教え子たちが大勢、グリークラブやアカペラのグループで活躍している。
おばさんが私を連れて行ったのは、大学の合唱サークルの合同公演会だった。
「生徒たちからの連絡が、ここのところ多くてね。
あれっ、この子プロになっていたかなと思うと、定年間近になって、サークルを立ちあげているのよ。
カラオケのおかげで、練習する場所には困らないらしいわ」
「おばさんの指導のおかげで、また歌の道に引き込まれたってわけね。
あのころは迷惑だったろうけれど、今となったらいい趣味になるものね」
「あの当時、男子を合唱部に勧誘するのはほんとに大変でね。
そりゃそうよね、中学に入ったら、体育系の部活でがんばろうって思うのは当然だもの。
周りからも、男が合唱部だと笑われることが多いから、尻ごみするのよ」
「そこを、おばさんがずうずうしく引き込むってわけ?」
「まったく、千秋ときたら。でもね、子どもにも言い訳ができるじゃない。
俺は行きたくなかったんだけど、あの先生がうるさくてって言えばすむんだもの。
お安いもんよ」
「そして、その男子生徒から、今は感謝されてるのよね。
もしかしたら、奥さん達からも感謝されてるんじゃない?
定年になっても落ち込んでいないんだから」
「まあ、どうだか。でもね、昔の女の子や男の子が大きな口を開けて歌っているのを見るのは、嬉しいもんよ」
「おばさん、あたしたちにもよく歌わせたもんね」
「そうだった?」
「ええ?憶えていないの?並ばされて、ドレミを歌わされたんだから」
晶子おばさんは、あの奇妙な儀式を全く憶えていないらしい。
信じられない気持ちになるが、あの頃のおばさんは、今の私よりずっと若かったのだ。
そう思うと、妙な気分だった。
私も、おばさんくらいの年になれば、父への複雑な感情も消えるのかもしれない。
公演後、私達は北の丸公園を散策し、千鳥ヶ淵を見下ろすベンチに腰掛けた。
祖母や母が桜を見上げた場所と、お濠を隔ててちょうど向かい側になる。
「ホテル、なくなっちゃったね」
おばさんが言った。おばさんは我家の花見の習慣を知っているのだろうかと、ふと私は思った。
デートのきっかけは、おばさんだったことも。
祖母は、祖父が亡くなってからもホテルに泊まることは時々あった。
もちろん、花見の時ではない。
その時期は、両親の大事なデートなのだから。
遠くに住んでいる叔母たちがたまに上京する時に、祖母は一日だけ娘と一緒に泊まった。
「母の様子を見に行ってくるわ」
と夫に言いながら、実は叔母たちは、祖母のおかげでホテルに泊まり、
ゆっくりと彼女たちの薮入りを楽しんでいたのだった。
「私もね、一度だけ良子さんとあのホテルに行ったことがあるのよ」
晶子おばさんが言った。
「久しぶりに良子さんとお食事なんて、嬉しくてね。わくわくしたわ。
近頃見かけなくなった、バターをたっぷり使った、しっかりと重い西洋料理だったわ。
良子さん、お年寄りなのに平気で食べちゃうからびっくりしたっけ」
おばさんは言った。
おばさんが祖母のことを「良子さん」と呼んでいたことを私はしばらくぶりに思い出した。
「桜の時期に来られなくてごめんね、って言われたけど、
私は新学期の準備や異動で忙しいから、そんなひまはなかったと思う。
ふたりでおいしいご飯食べて帰ったっけ」
「泊まらなかったの?」
「まさか、ご飯食べに行っただけよ。それで十分よ。
良子さんにはほんとによくしてもらった。
高校時代、一緒に暮らしていて、いやなことは全然なかった」
「おばさんの性格だからじゃない?」
おばさんはげらげら笑った。
「まったく千秋ちゃんもよく言うわね。それって鈍感ってことでしょ」
おばさんはたとえいやなことがあったとしても、いいことだけが残るタイプなんだろう。
祖母に似ている。実の親子でもないのに不思議な話だ。
おばさんに会ったら、実はお礼を言いたいことがあった。
お礼なのか、お詫びなのか、実はよくわからない。
私が父の工場を引き継ぐことができたら、恩返しできたのにと思うと、また悔しくなってくる。
おばさんに返せなかった借金のことだった。
父から相談を受けたいとこが、その後、私にこっそり教えてくれた。
「こんなこといったら、千秋に悪いけど、おじさんは、財務強くないね。
かっこつけないで、千秋に早く手伝ってもらっておけばよかったのにね。
おじいちゃんも確かにどんぶり勘定だけど、ちょっと違うんだ。
おじいちゃんは運も強いし、強気だし、やっぱり成り金になれた何かがあるんだよ。
おじさんに頼まれていろいろ調べたんだけど、経理上、まあいろいろとんでもないものがあってね。
千秋が見なくて良かったって思ってるよ」
いとこが私に話してくれたのは、父の会社が晶子おばさんのお母さんに返さなかった借金だった。
祖父は、事業の資金繰りに困った時、晶子おばさんのお母さんから、金を借りていたらしい。
「当時を考えるとすごい額でね。それも結局返していないんだよ。
帳面に名前と金額が入っているだけ。
俺、思うんだけど、借金っていうよりは、晶子おばさんのおかあさん、
おじいちゃんに何らかの意図で融資したんじゃないのかな」
そう言うと、いとこは笑いながら
「手切れ金かもしれない」
と付け足した。
「手切れ金って普通、男が渡すんじゃないの?」
思わず、私は尋ねた。
「千秋は案外古風だな。
男だろうが女だろうが、どっちが渡したっていいんじゃないか?
それにしても、晶子おばさんのお母さんって、なんだかすごい人だったんだね。
もしかして、町工場を乗っ取るつもりだったかもしれない。
まあ、それにしてもあの金のおかげでおじいちゃん、事業を続けられたんだよ」
「おじいちゃん、返していないんでしょ?」
私は父だけでなく、祖父までもわからなくなってしまった。
祖父は、金を返す気持ちはなかったのだろうか。
まさか、晶子おばさんを養った三年間の費用で相殺したとでも言うのだろうか。
ふと、祖母はこのことを知っていたのだろうかと気になった。
実家に行って母に聞いてみようと私は何気なく思い、すぐにそんな自分を淋しく笑った。
実家も工場もなくなり、何より母がこの世にいないのに、いまだに私の頭のどこかに元気な母が生きている。
たぶん、父もそうなのだろう。
だからこそ、父は家を売り払いたかったのかもしれない。
借金のことを知れば知るほど、あの工場を続けるべきだったと私には思えてならない。
全額をおばさんが生きている間に、返済したかった。
結局、大変な思いをしたのは、晶子おばさんではないか。
かといって、私がおばさんに謝るのは、出過ぎた態度のような気もする。
いとこは「いつか話そう」と言ったが、私は悩んでいた。
借金のことをおばさんが知っているかどうかはわからないが、
実はおばさんこそが我が家の恩人なのだと伝えたかった。
そんな時にかかってきたおばさんからの電話だった。
やっぱりお詫びをしよう、私はそう決心した。
「あんたたちは、ほんとに律儀だね」
私の話を最後まで聞いてくれた後に、晶子おばさんはそう言った。
「だから、好きなんだけどねえ」
そう付け足した。おばさんは、私の話に驚きもしなかった。
ずっと前から知っていたのだと言う。最初におばさんに謝ったのは、祖母だった。
夫から話を聞いて驚き、しかし、返済することが無理だと聞き、悲しんだ。
祖母が話したのは、おばさんが大学を卒業するころだった。
「良子さんが悩むほど、あたしは気にならなかった。
だって、高校の三年間、大切に育ててもらったんだよ。
大学なんて、誰の援助がなくても、どうにかやっていけるものよ。
世の中、案外捨てたもんじゃない。
千秋、本当よ」
祖母の後、数年後、父もおばさんに謝ったらしい。
「そんなことよりも、今、工場を倒産させないことが大事でしょ、
ってあんたのお父さんに偉そうに説教したこともあったっけ」
おばさんは笑ってそう言った。
「工場がなくなって千秋も残念だろうけど、これでもうあの借金のことはなしにしようね。
あたしには良子さんだけじゃなくて、七人も姪っ子や甥っ子がいるのよ。
みんな優しくて、おばさんって言ってくれる。
それが何より嬉しいことなんだから」
おばさんは祖父のことは、あまり話そうとしない。
考えてみれば、おばさんにとって、祖父は実の父なのだ。
「おじいちゃんは、おばさんに跡を継いでほしいって言ったことはなかったの?」
ふと気付き、私は尋ねた。おばさんは私をじっと見ていたが、
「一度だけ、あんたのおじいさんがあたしに言ったことがあったの。
お前が男だったら、母親の事業を継げたかもしれんのにって。
千秋が跡取りを意識するほどは、あたしには責任も何にもなかったから、気楽だったわね。
音楽の先生になろうと思っていたから。
どうしてもやりたかったら、千秋がまた工場を作ればいいじゃないの、あんたのおじいちゃんみたいに。
でも、意地で人生を送るのはやめなさいよ。
音程がずれてくるもんよ」
「おばさんとホテルに泊まりたかったな」
私がそう言うと、おばさんは手も首も強く振った。
「冗談じゃない、あたしは殿方とのほうがいい」
古めかしい言い方がおかしくて、私は大きな声で笑った。ふと、思いだしたことがあった。
「殿方って、イタリア人?」
「ああ、イタリアの男たちねえ」
おばさんは思い出すように、苦笑いした。
「そう言えば、あの人たち、どうしているかしらねえ」
先ほどから、私達が座るベンチの周りに雀が集まってくる。
静かな場所を選んだはずだったが、やたらに賑やかだ。
雀は警戒心が強いと思い込んでいたから、私は驚いた。
雀も餌をもらい続けていると、習性まで変わってくるのだろうか。
ベンチに座る人は餌をくれると思いこんでいるらしい。
一羽が舞い降りると、あちこちからやって来る。
私達の足元は、雀だらけだった。
おばさんは雀を暫く眺めていたが、立ちあがり、パンと手を叩いた。
雀たちは一斉に飛び立っていった。
「千秋、そろそろ帰ろう」
私達は地下鉄の駅まで歩き、そこで別れた。
晶子は千秋と別れた後、地下鉄に入るふりをして、もう一度千鳥ヶ淵に足を向けた。
今度は堀の向こう側、以前にホテルが建っていたあたりの散歩道を歩いた。
千秋があの借金のことを口にしたことで、晶子は過去に引き戻されていた。
あまり触れたくない過去だ。ここで気持ちを切り替えて帰りたかった。
千秋は申し訳ながっていたが、晶子にとって、あの借金はどうでもよいもののひとつだった。
実際、晶子は、母よりも良子さんのほうが好きだった。
たしかに、母はやり手だった。
千秋は工場が続かなかったことを悔しがっているが、そんなことは、大したことではない。
千秋のお父さんは、経営に実力を発揮できなかった人だが、そんな人はいくらでもいる。
多くの会社はそうやって消えていくのだから。
それはそれでいいではないかと晶子は思う。
母の死は突然だった。朝、胸が痛いと言いだした母を置いて学校に行けず、その日晶子は中学校を休んだ。
ソファに横たわっている母親を見ていると、晶子は不安になった。
いつもなら、たとえ横になっていても晶子に、
「大丈夫、あたしのことなんか心配しなくていいから」
という母親だった。それが、何も言わず、青い顔をしている。
学校に休みの電話をいれ、しばらく母の様子を見ていた晶子は、もう一度受話器を取り上げ、救急車を呼んだ。
母親は大動脈瘤肥大と診断され、すぐに手術になった。
手術の途中で、彼女は死んだ。あっけない別れだった。
晶子は、母親の遺体と共に帰宅した時、自分が制服姿だったことに気付いた。
スカートのひだは取れ、くしゃくしゃになっていた。その夜、制服にアイロンをかけたことだけを晶子は憶えている。
母親が以前から、晶子に言っていたことがあった。
「あたしになにかあっても、あんたは大丈夫よ。
二十歳になったら自由に使えるお金も用意してあるけれど、いざとなったらお父さんのところに行きなさい。
お父さんがあんたを追い払うことなんか、絶対できないはずよ。
きちんと手を打ってあるから。
あそこの会社が持ちこたえられたのは、あたしのおかげなんだから。
晶子、世の中で一番強いのはお金よ。
愛情は大切なものだけど、そんなものに気を取られてはだめだからね。
たとえ、あんたのお父さんがあたしを嫌いになったとしても、それはしようがない。
でも、あたしがあの会社に投資した金は消えない。
借金を返してくれなんていうのは、頭の悪い奴がやることよ。
投資した金をてこにして、自分の思い通りに動かすのがお金を使う正しいやり方なのよ」
千鳥ヶ淵のホテルのティールームでも、母はそんな話をしたことがあったと、晶子は思い出す。
取引を終えたばかりの母親は、仕立てのいいスーツに身を包み、美しかった。
母と何度かティールームで待ち合わせはしたが、桜のころに来たことはなかった。
通訳の仕事から始まり、そのうちに取引先から気にいられ、
通訳以外の仕事も舞い込み、母親は着々と自分の仕事を増やしていったらしい。
晶子を生んだ時には、それなりの実業家になっていた。
このホテルで、通訳の頃、初めて外国の人とお茶を飲んだと母が話してくれたことがある。
母親は仕事がうまく行くと、晶子を格式の高いレストランやホテルのティールームに呼び出し、一緒に食事をした。
母親に恋人が沢山いるのを晶子は何となく感じていたが、
仕事がうまく行った時の食事の相手は、なぜか晶子だった。母親の電話はいつも突然だった。
運動靴を黒い皮靴に履き替え、あとは学校から帰ったそのままの格好で、晶子はレストランに向かった。
待ち合わせとはいえ、中学生がひとり高級レストランに入るのは勇気がいった。
最初は嫌だったが、母親の呼び出しのせいで、
晶子はどんな豪華な場所に出かけても、物おじすることはなくなった。
母親が死んで、晶子は母の言葉通り、父親の家に引き取られた。
想像していたよりも、居心地のいい家だった。
世の中、うまくいくはずもないと思っていた晶子にとって、なによりも嬉しい誤算だった。
「あたし、おかあさんより良子さんのほうが好き」
あの頃、晶子はそんなことを口にしたことがあった。
その時、良子さんは
「そんなこと言っちゃだめよ」
とも
「ありがとう」
とも言わなかった。
「晶子ちゃん、血がつながっていないというのは、案外いいこともあるのよ」
良子さんは言った。
「冷静に対処できるというのは、世間ではいいことのように思われているけどね。
血がつながっているから、冷静になれないんだと思うのよ。
馬鹿なことをするのが、親子なのかもしれないよ」
高校生の晶子には、その言葉は重かった。
母親は目の前から消えてしまったが、母の自分への思いは打ち消すことができないと言われているような気もした。
母親は経営には優れていたかもしれないが、良子さんは別の意味で優れていた。
だからこそ、本当に居心地良い三年間を過ごさせてもらったと、今でも晶子は思う。
晶子が合唱を好きなのは、様々な声があるからだ。テノール、バス、アルト、ソプラノ、どれも私には美しい。
どれかが欠けたら寂しい。
「私のお父さんは、いったい誰なんだろう」
誰にも聞けなかった晶子のつぶやきが、風と一緒に千鳥ヶ淵を流れていった。了