Novel(百物語)
02ten

岩山

彼の生まれ故郷に、二人で出かけた。
一緒に行くのは初めてだ。
地質学的に興味深い地域で、非常に古い年代の岩山が海岸沿いにそそり立つ。
私は学生の頃、偶然にゼミ合宿で訪れた。
クラブの友だちに誘われ、全く関係ないのだが、ひまだった私は合宿仲間に入れてもらった。
友人は現地でも、調査の準備に追われている。
私は何かすることはないかと雑用をこなし、遠出をする先生のために民宿の車を借りてきて、運転もした。
先生は見知らぬ顔の学生がいることにも少しも驚かず、淡々と調査を進めていた。
私は岩山の高さと海の青さに驚き、ただそれだけで帰ってきてしまった記憶がある。

彼とは、これまでいつもすれ違いの人生だった。
知合って、互いの話をするようになって、驚いた。
同じ場所、同じ時期、近くにいたにも関わらず、出会ったことがない。
生活空間が非常に近くても、存在すら知らない人は案外たくさんいるものだと知った。
二軒並んだアパートに、それぞれ住んでいた時もあった。
私は、彼が住んでいたアパートのほうに住むはずだった。
「こっちのほうがいいよ。風呂、取り換えたばっかりだから」
不動産屋のひと言で、私はもう一つのアパートに引っ越した。
大家さんが同じだったからだ。
出会いなんて、そんな偶然で決まるのかもしれない。
「あの細い道ですれちがっていたのかな」
「米屋兼酒屋、あの店、憶えている?おばあさんのレジ打ち、遅かったよね」
「あの駅、電車は通過ばっかりだよね。全然止まらない」
偶然の一致を面白がっているうちに、いつのまにか互いの過去に相手が住みついてしまった。
あの時、あの場で、実は一緒にいたのだと思うようになってしまった。
わずかの間に、私達は長い付き合いをしてきた友人のように親しくなった。

小学生のころ、私の周囲は本当に殺風景だった。
私と彼が、まだ同じ空間にいなかった頃のことだ。
目の前の現実に失望してもどうしようもないので、私は本ばかり読んで過ごした。
大きな木によじ登って遠くを見渡したり、川遊びに興じている主人公に自分を託して、私は日常をあきらめることにした。
大都会でもないのに、私の住む町には自然を感じるものなど何もなかった。
トラックが轟音を立てて通り過ぎる、歩道もない危ない道を歩いて、私は小学校に通学した。
道には木など一本もなかった。
公園もない。
学校の校庭に、ひねこびた木が数本あるだけだった。
交通事故に気をつけなさいと学校の先生は、くどいほど私達に伝えたが、それでも毎年事故は起こり、子どもたちは怪我をした。
登校班で並んで歩いている生徒の列に、トラックが突っ込んできた事故は、私の小学校生活の間に数回あった。
死者が出なかったのは奇跡だ。
夏は熱いヘルメットをかぶり、ランドセルに黄色のカバーをつけて黙々と歩く子ども達の列の中に、私もいた。
歩道すらないこの危険な道を使わないことが、何よりの事故防止策なのではないだろうかと、六年生になった私は、登校班の最後尾を歩きながら思った。
最上級生として、一、二年生を守るようにと言われても、無力だった。
目の前の列に車が突っ込んできたら、私に何ができるだろう。
私には、自分を違う場所に連れて行ってくれる本がどうしても必要だった。
現実にはなくても、本を読んでさえいれば山や海、森がそこに存在した。

彼と同じ小学校に通っていたら、私は海中から屹立する岩山を毎日眺めることができたに違いない。
ロッククライミングなどという言葉は知らなくても、岩山を攀じ登る男の子たちの勇気に感心しただろう。
海岸から岩山のある瀬に泳いでいき、岩を登り、飛び降りて遊んでいたという彼の話を、私は何度もねだっては聞いた。
地質調査で見た岩肌は、ひと色ではなかった。
さまざまな時代が塗り分けられている。
時代の線が横に走り、ノミで削られたような岩山の荒々しい姿は、ゼミの人たちには研究対象だった
が、そこで生まれた彼や仲間にとっては、遊び道具だった。

「小さい頃は体重が軽いから、腕の力だけでうまく登れるんだ。
なあんだ、簡単じゃないかって勘違いする。
少し大きくなると、それじゃ登れない。
足も使い、体の移動を覚えないとうまくいかなくなる。
どうにかして登りたいと、年上の人が登るのを見てコツを盗むんだ。
そのうちに、怖いと思うやつはやめていく。
やめるのは勝手だが、岩に登れない奴は馬鹿にされてもしようがない。
怖いのはしようがないけれど、仲間内に平等まで求めるのは無理なのは子どもでも知っていたさ」
彼は遠くに見える岩山を見ながらそう言った。
岩山に登ったら、降りることはできない。
絶壁なのだから。
降りる方法はただひとつ、海に飛び込むこと。
十メートル以上もある岩山から、飛び込む。
真下に落ちると、岩棚がある。
足元を蹴りあげるように、遠くに飛びこむ。
怖くて何時間もしゃがみこんだままの仲間もいた。
誰も助けることはできない。
そいつが飛び込む決意をするまで待っていることしか、まわりはできない。
ここで生まれなくてよかった、それも男の子だったら大変なことだったと、ようやく私は気づいた。
ヘルメットをかぶって歩いた殺風景な通学路を思い出し、初めて感謝した。

車を止めて、崖近くまで二人で歩いた。
霞んでいて、空と海の境目が見えない見下ろすと、崖の下の海は青い。
彼が遊んだ岩山の辺りから海は薄青くなり、それが沖まで続いている。
どんどん淡い色になり、いったいどこが水平線なのか、私にはわからない。
見上げれば、霞んだ春の空がある。
風が強く、落ち着いて空を眺めてなどいられない。
私が髪を押さえるのを見ながら、彼は笑う。
「こんなのは風が強いとは言わないよ。
冬は吹きっさらしの潮風で、寒いのか痛いのか、わからなくなる」
その言葉も風で引きちぎられる。
私は彼に頷いた。
私が話したところで、彼の耳にどこまで届くか自信がない。
自然は手心を加えるなんてことはしない。
自然はいじめなどしない。
自然はただ、それだけ。
ごめんなさいなんて言っても許してはくれない。
自分で逃げ切るしかない。
きっと彼は子どものころに感じたに違いない。
岩山が教えてくれたに違いない。

霞の中を漁船が見える。
子どものころから、漁船の手伝いをしたと彼は言った。
島のそばを走ると、高波が来て転覆しそうになる。
岩場で座礁することもある。
しかし、遠くを走ると島影が消えそうになる。
離れそうになる時が一番怖い。
不思議なことに、もっと離れて、自分の周りに海しかなくなると、さほど怖くなくなる。
中学生のころ、任されて自分で船を操縦するようになった。
漁港をでて、港の光が消える時が一番心細かった。
もう誰も頼るものがないと思うと、案外落ち着くものだ。
覚悟を決めなくてはいけない、そう思うからかもしれない。
車に戻ってから、彼はそんな話をしてくれた。
話を聞きながら、私は断崖に立っていた自分を思い出す。
目の下の海中に屹立する岩山を眺め、風にとばされて落ちていく自分を一瞬想像する。