Novel(百物語)
02ten

兄の痕跡

兄と私は、十一才の年の差がある。
兄弟といっても、私は兄のことをろくに知らない。
性格が似ているのか、違うのかも、実はよくわからない。
ただ、ひとつだけ言えることがある。
私は、兄のように、毛布に妙な目印はつけない。
毛布の真ん中が、自分の顎の下にきているかどうかなんて、寝る時、そこまで気にしない。
社会人の兄だが、もしかすると今でも毛布の位置を気にしているのかもしれない。

私が物心ついたときは、兄はもう中学生だった。
同じ家に住んでいても、生活時間が全く違う。
だから、私は兄のことをあまり憶えていない。
機嫌のいい時、あるいはひまな時に、兄は時々私にかまってくれた。
お絵描きやおままごと、ごっこ遊びにほんの少しつきあってくれた。
記憶にあるのはそのくらいだ。
小学校に入って、ようやく回りが少し見えてきたときには、兄は高校を卒業して、家を出ていた。
それから今にいたるまで、兄と一緒に暮らしたことはない。

しかし、家には兄の痕跡がいくつもあった。
柱に刻まれた、兄の背丈。
兄が使い、私が使った勉強机。
私のものはほとんどが兄のお古で、小学一年生の私が背負ったランドセルは黒かった。
男の子からよくからかわれたが、あの当時は、「お下がり」が当たり前で、親に文句などいえなかった。
女の子で黒いランドセルを背負っている子はたしかに少なかったが、お姉さんの赤いランドセルを使っている友だちはたくさんいた。
兄のお古があることで、便利なこともあった。
一番は教科書だ。
教科書は、大してちがいはなかったから、二冊持っていると楽だった。
宿題のない教科の教科書を、私は学校に置いていた。
先生には叱られたが、注意された時だけ持って帰り、しばらくするとまた机の引き出しに入れておいた。
自分の家では兄の教科書を使えばいいのだから、困ることはない。
母は物持ちがよくて、運動会のはちまきやらすべて取ってあったから、私は友だちにもずいぶん感謝されたものだった。

兄のお古を使うのには抵抗のない私だったが、ひとつだけいやな物があった。
それは、布団だった。
兄が使っていたタオルケットや毛布が、いやだった。
もちろん、洗ってあるから、汚いというのではない。
顎の下に来る、黒いしみが嫌いだったのだ。
兄の毛布には、襟元にかかるところの真ん中に、黒く丸いしみがある。
マジックインキで、兄が黒丸を書いているのだ。
黒丸は、真ん中のしるしで、兄は毛布やタオルケットがずれないようにしていたらしい。
私には信じられない話だった。
毛布のどこが真ん中なのかは、だいたい、勘でわかる。
兄は、それすらわからないのだろうか。
何より、毛布の真ん中が自分の顎の下にくることが、そんなに大切なことだろうか。
兄と私は、実は兄弟ではないのかもしれない、私は思った。
兄のお古の毛布についている黒丸は、私には虫のように見える。
ほの暗い常夜灯の中で、私の襟元に黒い虫が這っているようにみえる。
私は、上下さかさまに毛布を敷くように心がけた。
それでも、つい忘れて黒丸が、襟元に来る日もある。
そういうとき、私はあまり記憶のない兄を「大嫌い」と思った。
毛布やタオルケットを汚しているにもかかわらず、母は兄を責めたりしない。
私が文句を言うと、
「お兄ちゃんはきちんとした子だった」
と、ほめる。
「それにくらべてあんたは」
と、いつのまにか母の説教になってしまう。
だから、私は母の説教の最中に、父から言われていた用事などを思い出したふりをして、さっさとその場から逃げるのだった。

たしかに、兄の性格は、家に残された教科書やノートに表れている。
教科書に落書きはなく、授業を理解するのに便利な補足だけが、細かな字でびっしりと書いてある。
ノートは、問題集兼解答集みたいに仕上がっていたから、私にとってどんなに便利だったかわからない。
中学生になってからは、兄のノートのおかげで私の成績はあがった。
そのノートを友人に貸しては、おいしいものをおごってもらった。

そう考えれば、私は兄に文句を言える筋合いではない。
しかし、何もかもお下がりで生きてきた末っ子にも、少しは好き嫌いを言う権利くらい、あってもいいにちがいない。
兄が結婚して、自分の家庭で毛布に黒丸をつけていたら、私はさっそく義姉の味方をしてあげようと思っていた。
しかし、兄はなかなか結婚しない。
残念ながら、誰も兄の黒丸の被害を受けていない。
それが悔しい。
「あんたが先にいい人見つけたら、お兄ちゃんに悪い」
そう言い続けていた母は、そのうちに
「あんただけでも、いい人見つけてちょうだいね」
と、言いだした。
近頃になって、自分の価値観が子どもたちとは違うことが、ようやくわかったらしい。
兄、妹そろって仕事一途に生きてしまったことを、あきらめ始めたらしい。
しかし、私は「結婚しません」なんて両親に宣言したことはない。
それなのに、三十五を過ぎたら、母はひとことも私に結婚の話をしなくなった。
その代わり、今度は
「兄弟なかよくしてね」
と、しきりに言う。
「おかあさんたちが死んだら、兄弟が一番よ」
などと言う。

もちろん、私は兄が嫌いなわけではない。
しかし、ほとんど一緒に暮らしたことのない兄と、実は結婚しようとしている彼とでは、大切さが全く違う。
彼が兄と普通に付き合ってくれれば、それでいい。
付き合わなくてもいいとさえ、思っていた。
ある日、一緒に食事しながら、初めて彼に兄の話をした。
嫌いな黒丸の話もした。
「けったいな兄ちゃんやな」
私の話を聞いて、彼はそう言った。
私ほど、黒丸に嫌悪感はないらしい。
それから、彼は私の兄のことを「黒丸にいちゃん」と呼ぶ。
「面と向かって言わないでね」
私はそう頼んだのだが、彼のことだからすっかり忘れて口にしそうな気がする。
それに、よく考えてみれば、黒丸のことを言われて兄が気にするかどうかもわからない。
案外、兄と彼は気が合うのかもしれない。
来週でも、兄に連絡してみようかな、そう思った。
「黒丸兄ちゃん」
口にして、初めて兄にあだ名をつけたことに気がついた。