Novel(百物語)
02ten

記憶の海

私の祖母は、海の近くの老人ホームに住んでいる。
三ヶ月に一回程度の割合で、私は祖母に会いに行く。
老人ホームから帰るバスの中では、毎月会いに行こうと、必ず思う。
それなのに、次に行くのは、いつも三ヶ月過ぎたころだ。
祖母のことを忘れているわけではないが、私の時間は、あっという間に過ぎてしまう。

たった一両の電車が、駅のホームに着く。
駅から海は見えない。
駅前のケーキ屋さんで、私はマドレーヌを買う。
三個買って、バスを待っている間、一個食べる。
バスは一時間に一本しかこない。
せめて、電車の時間に合わせてくれればいいのだが、バス会社は、電車との接続など関係ないらしい。
バスを待つ時間がありすぎるから、私はマドレーヌを買い、自動販売機でお茶も買う。
ケーキ屋さんに喫茶コーナーがあればいいのに、といつも思う。
バスに乗って三十分、祖母のいる老人ホーム入口のバス停で降りる。

祖母はいつもベッドにいる。
私が行くと、ベッドから笑顔を見せてくれる。
時には、体を起こしている。
朝、起きるとホームの人が着替えさせてくれるから、パジャマではない。
パジャマではないが、なんとなくパジャマに似た服だ。
起きている祖母をみると、嬉しい。
寝ている祖母は、なんだか死んでしまったように見えるからだ。
祖母は気分がよいと、私に話す隙もなく、おしゃべりしてくれる。
たまに聞くからだが、私には祖母のおしゃべりが心地よい。

祖母のベッド脇のテーブルに、目新しいものを見つけた。
まるでおもちゃのような小さなスタンドライトだ。
コードが見当たらない。
私が見ているのを察したらしく、祖母はスタンドについている小さな突起を押した。
「ほら」
と言って
、にこにこしている。
昼間だから、わからなかった。
よく見ると、きちんと明りがついている。
おもちゃではなく、立派なスタンドだった。
私が感心したのが嬉しかったらしく、祖母は説明を始めた。
祖母の話を聞きながら、あたりを見回すと、たしかに同じようなものが置いてある。
簡単にいえば「売れ残り」らしいが、入居者の家族からのプレゼントらしい。
消灯後もこれをつけておけば、いざというとき安心なのだろう。
懐中電灯ではあるが、スタンドライトの形をしていたり、ダウンライトのようなものもある。
ダウンライトのようなものは、真ん中を押せば、明りがつくらしい。
「押し方が下手だと、うまくつかないらしくてね。あたしはこっちでよかった」
と、祖母は子どものようなことを言う。
ベッドに寝ているふりをして、祖母はこっそり他の人の様子をうかがっているらしい。
自分のほうが良いものだと、安心する。
年をとっても、人間はあまり変わらないのかもしれない。
消灯後、ベッドサイドでこの小さな明かりがついている光景を私は想像した。
キャンドルナイトみたいだ。

私が興味を示したせいか、
「あんたにあげようか」
と祖母が言う。
私は慌てて断った。
そんなに物欲しげに見えたのだろうか。
祖母はわたしのことを、なぜか「あんた」という。
だから、私は祖母が好きだった。
祖母であっても、「ゆりちゃん」と呼ばれたら、きっと私はげっそりするにちがいない。
祖母の使う「あんた」は、しゃきしゃきとした口調で、私は気にいっていた。
両親は祖母の「あんた」を、実は嫌がっていたのだが。
それにしても、「ゆり」なんて、両親はひどい名前をつけたものだ。
平仮名ならともかく、「百合」と書くのだ。
女の子にしては体がごつい私にとって、ちっとも似合わない名前だ。
「百合子とつけたかったんだけど、ちょっと古風かなと思って」
と、母は言う。
「子」がつかなければいいという問題ではない。
そこがわかっていないから、両親は駄目なのだ。
生まれたときから四千グラム近くも体重があって、顔もこのとおりなのに、なぜわからなかったのだろう。
両親は、それほどまでに親ばかだったのだろうか。

祖母の部屋の窓があいている。
波の音が聞こえる。
遠くの水平線はかすみ、タンカーだろうか、大きな船がいくつも見える。
老人ホームも、その前に住んだ私の実家も、祖母にはそれまで全く縁のない場所だった。
年をとって、祖母は私の父である息子の家にやって来た。
子どもたちの部屋が空き、祖母が同居するには十分のスペースができたからだった。
祖母が同居した時は、私も弟もすでに家を出ていた。
だから、私は祖母のことをよく知らない。
幼い頃も、数回会っただけだ。
祖母が両親と同居しているときは、ほとんど実家に立ち寄らなかった。
祖母が嫌いなわけではなく、家族のことなど忘れていたからだ。
仕事に恋愛に遊びにと、私は実家に帰る暇などなかった。
昨年、祖母の体が衰えて、老人ホームに入った。
いつまでも実家にいると思い込んでいた祖母が老人ホームに入り、私は慌てて祖母に会いに行くようになった。

人生の大半を海の近くで暮らしてきた祖母だったから、ホームが偶然にも海のすぐ近くであることを喜んだ。
いいところに入れてくれたと、母に感謝したらしい。
老人ホームに入ってから、祖母は海の話をするようになった。
波の音のおかげで、祖母は眠りが深くなった。
「みんな、波の音がうるさいって文句言ってるんだよ」
と、祖母は笑う。
幼い頃、いつも泳いでいたことや、友だちと潜って遊んだことを私に話してくれる。
祖母は、活発な女の子だったようだ。
男の子に負けないくらい、潜りがうまかった
そうだが、祖母の時代は小学生にもなると、男の子とは遊ばなかったらしい。
「遊びたくなかったの」
と聞くと、返事に困ったような顔をした。
「小さい頃なら、一緒にいたけどねえ。
昔はそんなものだったから、遊びたいとか遊びたくないなんて考えなかったねえ」
祖母は、波を見ているのが大好きだったという。
木切れなどの漂流物は波に流されているように見えながら、しかし、海岸に近づいてくる。
そして砂浜に打ち上げられる。

ある日、
「おばあちゃんは死ぬの、怖くないの」
と私が聞くと、祖母は答えてくれた。
「いろんなことは、忘れ去られるわけじゃないと思うんだよ。
海と同じさ。
波がさらっていくから、消えてしまってように思えるけど、でもまたいつか浜辺に戻ってくる。
あたしの考えたことがあたしの名前で残るわけじゃないけど、別の人の名前でまた浜辺に打ち上げられるような気がするんだよ」
「でも、私、まだそんな風に考えられない」
「そりゃそうだよ、あんたはまだ若いんだから。 浜辺で遊んでいればいいんだよ。あたしみたいに、もうすぐ海に帰っていく人間じゃない」
「おばあちゃんは、どうしてそう思えるの」
「だってずっと海のそばで生きてきたんだよ。
海は荒れるし、波は高いよ。
ただ、嵐なんて、一週間も続きはしないよ。
北国の大雪のほうが、ずっと大変だろうね。
よくは知らないけど、ひと冬、ずっと雪の中なんだろう。
嵐のあとはね、砂浜にいろんなものが打ち上げられるんだよ。
あたしたちの小さいときは、拾いに行ったものさ。
それでも、また、海は持って行ってくれるんだよ。
今みたいに、海岸にテトラポットができちゃうと、波は持っていってくれない。
テトラポットの間に詰まっちゃって、大変さ。
だから、ゴミが多くてね。
あんたの家に来るまでは、あたしも掃除してたんだよ。
こんなこと、昔はしなくてすんだんだけどね」
祖母は、話しながら目をつぶってしまった。
ちょっと疲れたのかもしれない。
私は祖母を見て、そして窓に目を向ける。
春の霞んだ海が、そこにある。