留守番役
年をとったせいか、朝早く目が覚める。
しかし、四時はさすがに早すぎる。
もう一度目をつぶると、今度は寝坊に近い。
目ざましをかけていないせいだ。
「これはいけない」
そうつぶやいて、彼女は布団から身を起こす。
いつまでも寝ていると、体がナメクジみたいになってしまうような気がする。
会社も、無事定年まで勤めあげた。
さあ、これからは自由な時間だと喜んだのもつかの間、毎日だらだらと過ごして、もう三ヶ月がすぎてしまった。
息子たちは独立し、孫もいるが、それほどかわいいとも思わない。
夫は交通事故でなくなった。
もう十年以上前になる。
会社勤めのおかげで、夫が亡くなった当時も、そのことばかり考えなくてすんだ。
夫婦は他人なのか、彼女の情が薄いのか、そのうち思い出すことも少なくなった。
今、何をすればいいのか、よくわからない。
旅行は、会社にいる間に、友人たちとそれなりに出かけた。
スポーツはあまり好きではない。
俳句や短歌は、自分のがらではないように思う。
絵を描くのは苦手だ。
読書は好きだったが、近頃は目が疲れてしまう。
手芸も同じで、針の穴が見えない。
カラオケは音痴だから、会社の飲み会の時も冷や汗ものだった。
あてもなく、デパートに行ってみるが、結局は、夕食になりそうなものを買って買えるだけだ。
帰りの地下鉄で、エスカレーターの掃除をしている人を、彼女はうらやましく思えた。
地下鉄に乗るよりも、あそこにいて、あちこち磨くほうが彼女には好ましく思える。
いろんな人を見ることもできる。
地下鉄の掃除をしている人に関心を向ける人などいないから、気楽に仕事もできそうだ。
採用がないか、行ってみたが、だめだった。
彼女が想像していた以上に、応募が多いのだ。
四十代、五十代を優先するのも、理解はできる。
しかし、自分が採用されないとなると、寛容にもなれなかった。
さて困った。
深刻というほどの悩みではないが、何をしたらいいか、彼女は悩んだ。
体にがたがきてはいるものの、年相応に壊れているだけだ。
それよりも、ひとりで家にいて、だらっとしているほうがつらかった。
専業主婦と呼ばれる人は、このような暮らしをして、やるべきことをやらなくてはいけないのかと、今ごろになってその大変さを彼女は味わった。
自分で自分の時間をコントロールするなんて、彼女には不可能だ。
素晴らしい上司にあたったことはなかったが、毎日家を出て、言われたことをこなして、昼ご飯を食べ、午後の仕事をして帰宅するほうが、ずっと楽だった。
夜の数時間しかテレビをみられないのはつまらない、と思っていたが、一日中、テレビをつけていても、ちっとも面白くなかった。
上京して最初の頃は、アパートにテレビもなかった。
ラーメン屋で、どんぶりから顔をあげ、見上げたテレビが、今考えれば一番おもしろかったように思う。
あの頃は、勝手にチャンネルも変えられないと不満をいだいていたものだったが。
桜の開花の頃は、花見の客と同じくらい元気のよかった彼女だったが、梅雨時期には、すっかり湿っぽくなっていた。
退職した会社から、納涼会(女性のみ)というお知らせのメールが届いたのは、すっかり夏になっていたころだった。
暑いからという理由で、家にひきこもってばかりいたから、その簡単なメールですら、彼女には嬉しかった。
「女性のみの、かわいらしい納涼会のお知らせです。
退職された皆様も、ぜひいらしてください。
お待ちしております。」
会場と時間、会費がそのあとに書いてあった。
自分が仕事をしたころは、こんなことを考えただろうか、と彼女は思った。
ようやくいなくなってくれた先輩をわざわざ呼ぼうなんて、考えもしなかった。
こうるさいのが消えてやれやれ、としか思わなかった。
いわゆる近頃の若い人に、彼女は感謝した。
ちょっと奮発して、美容院に行こうと彼女は決心した。
そう思うと、急に元気になった。
誰が来るわけでもないのに、マンションを片づけ、いらないごみも出した。
粗大ごみの受付センターにも電話した。
まるで身辺整理みたいだと、自分でもおかしくなる。
先に予定があることが嬉しかった。
着ていく洋服に関しては、彼女は気にならない。
ファッションには、さほど興味がなかった。
清潔第一で、その日着ていくものがクリーニングから返ってきているか、調べただけだった。
納涼会は、会社近くの川沿いの店で行われた。
「屋形船ではありませんが、これだけ近いと、まあ大船にのったみたいなものです」
と、幹事が挨拶した。
退職者の出席率は案外よかった。
彼女同様、みな、暇をもてあましているにちがいなかった。
「まったくいい子たちだよね。あたしたちのとき、そんなこと、考えた?」
彼女は知り合いに声をかけた。
「考えたとしても、やらなかったね」
笑いながら、相手は答えた。
彼女の隣に座ったのは、課長に昇進したばかりの若い人だった。
皆で乾杯した後、課長の周りの女性たちは、もう一度、課長昇進の乾杯をした。
彼女は課長を知らない。
社内で見たことがあるようにも思うが、それもさだかではない。
こんなに若くて課長になるのだから、大したものだと思った
が、話してみると、さほど若くはないことに気付いた。
「出世するぞ、ってがんばってきたんですけどね。
家族のこともあって、もうほんと、大変です」
課長はきれいな顔を曇らせた。
そういわれれば、心なしか、やつれて見える。
四十代の疲れかな、と彼女は課長の顔をまじまじとみた。
「上の子は高校生だから、私が少々遅くても大丈夫なんですけれど、下が、まだ小学生なんです。
長女がきちんと帰宅していれば問題ないんですけど。
塾だとか、部活だとか言って、下の子の面倒をみてくれないものだから」
「いくら課長さんのしつけがよくても、そりゃ無理ですよ」
思わず、彼女は口にしてしまった。
下の子は小学五年生らしい。
「高校生が妹の面倒を喜んでみていたら、私には、そっちのほうが心配ですけどね」
久しぶりに、賑やかな会に出て興奮しているのか、彼女はいつになく饒舌になった。
会社勤めのときには、気心の知れない同僚に、こんな口をきいたことはない。
退職後の開放感を、彼女は久しぶりに感じた。
「まあ、そうですよね」
課長はビールをぐいと飲みほした。
けっこういける口らしい。
「すみません」
と、一応彼女に挨拶して、課長は店の従業員に、中ジョッキをひとつ頼んでいる。
乾杯のビールをいまだにちびちび飲んでいる彼女とは、大きく違う。
「私もそう思いまして。
だから下の子を、塾に行かせようかと思ったんです。
それなら、家にひとりでおいておくより安全だし、迎えは私が帰りがけに行けばいいし。
それが、ちびが行きたくないって言い出して。
頭が痛いんです」
そういいながらも、課長は、目の前の料理を口に入れ、
「わあ、これおいしい」
と笑顔になった。
子どものことで頭が痛いと嘆く母の顔と、仕事のできる課長の顔はそこにない。
彼女から見たら子どものようにすら見える、いとおしい笑顔だった。
夫はどうしているのかと、思わず口にだしそうになったが、考えてみれば課長同様、
小学生の子どもと一緒に夕食を食べる時間には帰宅できないのだろう。
「ねえ、ものは試しですけどね。
私を留守番に使ってもらえませんかね」
彼女の口が動きだした。
帰りの電車の中で、彼女は課長とした約束を不思議に思った。
その場の雰囲気に酔っ払ったのだろうかと思ったが、酒は乾杯のビールだけだ。
後悔しているわけではない。
難関を突破したような、すがすがしい気持ちだった。
翌日、約束通り、彼女は昼休みに会社ちかくの公園に行った。
「お昼はどこも混雑していて、ゆっくり話せませんから、公園で打ち合わせでもかまいませんか。
私がお弁当を買っておきますので」
課長は、昨夜、彼女が言い出した提案を聞き、そう言ったのだった。
二人、ベンチに腰掛け、弁当を開いた。
会社近くにある、老舗の弁当屋の弁当だ。
赤飯、甘辛い卵焼き、煮しめ。
ふたを開けただけで、彼女は懐かしさでいっぱいになった。
会議のとき、上司に言われ、よく買いに行った弁当だ。
課長の心配りが嬉しかった。
「本当に、こんなことお願いして、かまわないのでしょうか」
弁当を食べながら、課長は、彼女に言った。
今日はスーツを着ているせいか、昨日に比べ、いかにも課長らしい。
「かまうもかまわないも、私のほうがお願いしたんじゃないですか。
もちろん、こんなこと言いだしておきながら、一ヶ月後の私の体がどうかなんて、私にもわかりませんよ。
でも、今は元気です。
今の私は、何か体を動かしたいんですよ。
毎日、夕方、課長さんの家に行く用事がある、と思うだけで、一日のリズムが作れそうなんです。」
「あの、課長じゃなくて、名前でかまいません」
課長は、箸をおいてそういった。
「ええと、なんてお名前でしたっけ」
田代という名字を頭に叩き込もうとしたが、すんなり入っていかなかった。
田代課長と言えば、まだ憶えられるかもしれない。
彼女はおかしくなった。
課長と言えば、名前を覚えなくてすむ。
課長は謙遜しているのだろうが、こちらは簡単なほうを選んでいるだけだった。
それから、お昼休みが終わるまでの四十分間、二人は大まかな流れを検討し、確認した。
賃金やら保険などは、細かいこともきちんと話し合った。
時給が原則だが、課長の帰宅の時間などあてにはならない。
彼女は、三時間分の時給だけで十分だった。だから二時間くらいの延長は時給なしで、と伝えた。
課長は表紙が水色の小さなノートを二冊持ってきていた。
彼女に渡されたほうのノートを開けると、課長の家の住所、電話番号、駅からの行きかた、子どもの名前、家の見取り図が書いてある。
昨夜、彼女が提案したことも箇条書きになっている。
チェックをしたり、訂正できるようになっていた。
課長のノートは、これから連絡ノートとして使うそうだ。
「いつもテーブルの上にのせておきます。なんだか保育園みたいですが」
課長はそう説明した。
昨夜、ビールをあんなに飲んでいたのに、と、彼女は課長の若さと仕事の速さに改めて驚いた。
彼女は自分の水色のノートを宝物のようにバッグにしまい、課長と別れた。
明日から行くところがあると思うと、わくわくする。
課長の、小学生の娘さんの名前は、愛美ちゃんという。
まなみと呼ぶらしい。
小学五年生ともなると、女の子はしっかり者だ。
最初の日に、すぐに打ち解けてくれた。
「かわいい名前だね」というと、
「愛でしょ、美でしょ、恥ずかしい」とふくれっ面をしてみせる。
たしかに、まなみちゃんはどちらかというと健康美の美に近い。
スポーツが得意らしい。
彼女の仕事は、まなみちゃんと一緒に過ごすことだった。
まなみちゃんが学校から帰る頃に課長の家に行き、課長か課長の夫、あるいは高校生の長女が帰ってくるまでいることだった。
夕食を作るわけでもない、掃除をするわけでもない、ただ、課長の家にいるだけだ。
「それだけでいいんです。
あの子が少しくらいおなかが空いてもかまわないんです。
七時近くなっても家に愛美以外、誰もいないことが心配なんですから」
課長は真面目な顔でそう言った。
まなみちゃんは家に帰ってから、遊びに行くことももちろんある。
「おばちゃん、行ってきます」
まなみちゃんは元気よく出かけていく。
「行ってらっしゃい」
彼女も元気よく送り出す。
まなみちゃん以外の家族の誰かが帰宅すれば、彼女の仕事は終わりだ。
終わりの時間が日によってずれ、約束の三時間を超える日があることを、課長は気にした。
「早く帰るようにしたいのですが」
と、申し訳なさそうに言う。
「十一時過ぎなんてことはないんだから、ほんと、気にしないでください。
あたしが外に立っているわけじゃないんだから。
課長さん、いや、田代さん、何度も言うけど、ほんと、私はひまなんですよ。
六時だろうが八時だろうが、気にしないでくださいね。
ただ、あんまり遅いときは、まなみちゃんと夕食作って食べておきますから。」
彼女はそう答えた。
そのうち、まなみちゃんとスーパーに買い物に出かけるようにもなった。
何にもしなくていい、とは言われたが、雨の日など、課長も買い物は大変だろうと彼女は思った。
彼女の子どもたちが中学生の頃は、買い物は大変だった。
帰りがけに、牛乳、かぼちゃ、玉ねぎ、りんご、小麦粉、ヨーグルトなどをいっぺんに買い物したら、大変なことになる。
自転車を使うにしても用心しなくてはならない。
主婦は値段と重さとかさばり具合の三つを、総合的に考えている。
課長は週末にまとめ買いをしているらしいが、週末に時間を使っていることは確かだ。
水色の連絡ノートに、彼女は提案を書いた。
「急に必要なものなどありましたら、愛美ちゃんと買い物に行きますよ。
気にしないで申し出てください。
愛美ちゃんにも、いい手伝いになると思いますから」
スーパーは、歩いて十五分ほどのところにある。
彼女が歩きなので、まなみちゃんは自転車を押していく。
帰りは重い荷物だけを乗せて、先に走った。
「おばちゃん、買い物に行くの?」
と、文句を言いながらもついてきてくれる。
ふたりでスーパーに行くのは、結構楽しいことだった。
まなみちゃんも、彼女が他人だから、気楽なのだろう。
本当はこんなもの食べたい、本当はこんなことしたい、と自転車を押しながら話してくれる。
「まあね、お父さんお母さんも考えているんだと思いますよ」
まなみちゃんの言葉を聞き、頷きながらも、彼女は最後にそう言う。
「まあね、そうかもしれませんね」
まなみちゃんも笑いながら、彼女の口まねをする。
まなみちゃんは、家族の表情を真似るのがうまい。
「まねみちゃん」
と彼女が言うと、プンとふくれてみせる。
今時の女の子たちは、写真を撮ってもらうときの表情があるのだそうだ。
まなみちゃんは彼女に向かって、真面目にやってみせてくれる。
これぞ百面相、と彼女は感心した。
自分にとって一番かわいい顔を知っているとは、大したものだと彼女は思う。
「まなみちゃん、その、口をとがらせるのは、あんまりよくないんじゃないかね」
彼女がそういうと、
「やっぱりそうかな」
と、まなみちゃんは真剣に鏡に自分の顔を写してみる。
昔、鏡を見すぎていると、母親から叱られたものだったと彼女は思い出す。
「あんたの顔が変わるわけじゃあるまいし。さあさあ、早く掃除すませてしまいなさい」
母親の小言の声が聞こえてくるようだ。
「おばちゃん、顔、変わるんだよ。
顔の筋肉を鍛えなくちゃいけないんだから」
彼女は吹き出してしまう。
「顔の筋肉もいいけど、頭の中の筋肉を鍛えたら、ついでに顔にも下りてくるよ」
「おばちゃん、ひどい」
ふたりで、他愛もないことで笑いあう。
楽しいひと時だ。
こうやって小学生の時期も終わっていくのだろう、と彼女は咲きかけのバラのつぼみを見ているような気持ちになる。
課長さん、ありがとう、彼女は心の中で礼を言う。
長女の聡美ちゃんを、彼女はあまり知らない。
顔をあわせるが、口をきいたことがないからだ。
聡美ちゃんは、七時過ぎに帰宅する。
彼女が来るようになってからは、妹への義務感も減ったのだろう。
以前は六時ごろに、しぶしぶ帰宅していたらしいが、今は部活が終わった後、堂々と寄り道をしてくる。
だから、すぐにはおなかがすいてはいないらしい、というのがまなみちゃんからの情報だった。
それでも、聡美ちゃんのほうが、課長よりも早く帰宅する。
彼女は、帰宅した聡美ちゃんに
「おかえりなさい」
と言う。
聡美ちゃんが、彼女の挨拶に答えていたら、話の接ぎ穂があるのだが、口をきかないからそれで終わりになる。
聡美ちゃんは、彼女の「おかりなさい」に対して、軽く頭を下げるだけだ。
そして、自分の部屋に入っていく。
彼女は、まなみちゃんに
「じゃあ、また明日ね。さようなら」
と言って、課長の家を出る。
「おかえりなさい、といわれたら、ただいま、とかただいまでした、とか言うものよ」
聡美ちゃんにそう言おうかどうか、彼女は迷った。
ただし、聡美ちゃんは、口はきかないが、彼女に頭は下げてはいる。
もう少し待つことにしよう。
彼女はそう思った。
その代わり、かなり大きな声で
「おかえりなさい」
ということにした。
まなみちゃんと夕食を食べてしまったときは
「おかえりなさい。
夕ご飯できていますよ」
とだけは言うようにした。
聡美ちゃんは、もう一度、頭を軽く下げた。
下げたというよりは、顎をいったん下にさげてから突きだした格好だ。
たぶん、当人としては、頭をさげているのだろう。
不良の高校生の男の子のようだと、彼女は思った。
彼女が学生の頃、ずいぶん昔の不良だが。
それでも、ほとんど毎日顔を合わせていると、何となく情が湧いてくる。
妹と言っても、小学生じゃね、大変だろうね、そんな気持ちになった。
課長に会うことはなかなかない。
しかし、メールはもらっていたから、困ることはなかった。
管理職というのは大変だと、彼女は驚いた。
毎日五時には退社していた彼女とは、同じ会社とはいえ、全く違う世界だった。
課長の家に行くようになって、一か月が過ぎた。
ある晩、彼女は
「ちょっとちょっと」
と言って、自分の部屋に行こうとしている聡美ちゃんを手招きした。
「最初に私、自己紹介したよね。
聡美さんもしてくれたよね。
あんたもちんぴらじゃないんだから、知り合いには声を出して挨拶なさい」
横で、まなみちゃんは目を大きく開けて、口まで開けている。
「はい」
小さな声が聡美ちゃんの口から出た。
「うるさいおばあさんで申し訳ないけど、よろしくお願いしますね」
聡美ちゃんは、また首振り人形のように顎を突き出す格好で頭を下げた。
そして、自分の部屋に入って行った。
「おばちゃん、すごいね。
うちのパパもママも、おねえちゃんにはなにも言えないのに」
課長の家を出るとき、まなみちゃんが小さな声でそういった。
彼女は、聡美ちゃんのお辞儀の仕方をまねて、まなみちゃんにさよならした。
声をださないで、まなみちゃんは笑っている。
駅まで歩きながら、彼女は聡美ちゃんに言ったことを考えていた。
余計なひと言だったのかもしれない。
今時の家族を知らない、年寄りの放言だったのだろうか、とも思う。
ただ、毎日、制服姿の聡美ちゃんを見ているうちに情が湧いたからこそ口にした言葉であることは、確かだった。
もう少し、スカートを下げられないのかね、とは思う。
あれでは、子どもがお父さんの上着を着ているかのようだ。
ブレザーの丈とスカートの裾が同じだなんて。
そうはいっても、まなみちゃんとはちがうバラのつぼみを、女子高校生の聡美ちゃんにも感じる。
元気に育ってちょうだいね、そう思う。
帰宅し、寝る前に、彼女は課長にメールを送った。
聡美ちゃんに対し、差し出がましい行為だったことを伝え、ひと言余分だったことを詫びた。
彼女が頼まれていることは、留守番役だった。
情が湧いたとはいえ、それは彼女の気持ちであり、課長が母親として困るようだったら、迷惑なことにちがいない。
よそ様の家庭をかき回すようなことはしたくなかった
が、やってしまったのだから、言い訳はできない。
一か月でくびかな、そうつぶやいた。
メールを打つのは、彼女は苦手だ。
ようやくの思いで送信し、布団に入った。
課長からは、返信がなかった。
翌日の夕方、彼女はおそるおそる課長の家に行った。
驚いたことに、課長が出てきた。
これまで見たこともないひどい姿だ。
髪はぼさぼさ、パジャマの上に上着を慌てて着たようで、
「風邪をひいてしまって」
と、かすれた声で言う。
「電話してくださったらよかったのに。
私がいてもいいですか。
邪魔だったら、帰りますよ」
「いえ、いてくださった ら助かります。
今日はご飯、作ってもらってかまいませんか」
課長はきつそうだった。
「はいはい、大丈夫ですよ。
課長さんは寝ていてくださいね。
なんでもやっておきますから」
課長は彼女に財布を渡し、買い物も頼み、部屋に戻って行った。
あゆみちゃんは遊びに行っているのか、まだ帰宅していないのか、家にはいなかった。
台所の流しには、朝食の皿がそのまま残っている。
彼女はそれを片づけ、冷蔵庫を開けてみた。
課長に何かひとくち食べるものくらいは作れそうだった。
「食べられますか。雑炊かうどんでも作りますよ」
ドア越しに声をかけると、
「すみません、お願いします」
という声が帰ってきた。
その日、彼女は忙しかった。
課長に鍋焼きうどんを作り、流しの皿を片づけた。
まなみちゃんに書置きをし、ひとりで買い物に行った。
自転車を借りようかとも思ったが、歩いて行った。
帰ってきたら、家族全員の夕食を作り、まなみちゃんはそれをひとりで食べた。
そのあいだ、洗濯も残っていたから、すべて洗っておいた。
彼女が帰るまでには、聡美ちゃんは帰宅しなかった。
顔を合わせるのが嫌なのかもしれない、と彼女は思った
が、忙しくて、思い煩っているひまはなかった。
課長は鍋焼きうどんを食べた後は、ずっと寝ている。
疲れがたまっているに違いない、彼女はそう思った。
「おばちゃん、今日は色々ありがとう」
帰り際に、まなみちゃんが真面目な顔をしてそういった。
彼女は、まなみちゃんから教えてもらった、小学生のかわいい顔をしてみせた。
ついでに口も尖らせてみせた。
まなみちゃんは、声もだせないくらい体をよじらせて笑っている。
他人がやるとおかしいものだ。
特に老人がすると。
まなみちゃんが手をふるのを目の端に感じながら、彼女はドアを閉めた。
本当に楽しい仕事だ。
エレベーターホールで、聡美ちゃんに出会った。
「おかえりなさい」
そういうと、聡美ちゃんはびっくりしたような顔をして彼女を見た。
「まなみは?」
「おかあさんが寝ているから。夕食、ありますからね」
「あっ、はい。」
「じゃあ、さようなら」
そうやって聡美ちゃんと別れた。
二人で会話をした。
彼女の「おかえりなさい」に返事をしたわけではないが、聡美ちゃんは聞きたかったことは彼女に質問した。
あれが高校生なんだろうな、彼女はそう思った。
自分の高校時代なんて、思い出せそうもない。
聡美ちゃん以下だったようにも思う。
まなみちゃんは、もっとひどいかもしれない。
明日から、また大きな声で挨拶しよう、彼女はそう思い、元気よく駅までの道を歩き始めた。