Novel(百物語)
02ten

息子

あの時、なぜそう感じたのだろう。
虫の知らせ、という、昔からの言葉もある。
しかし、あの時、本当にそう感じたのだろうか。
その後で起こったことが、自分の確信を強めているに過ぎないのかもしれない。
ただ、そうやって自問自答すること自体、自分のあの時の感覚を、何度も掘りおこしているようにも思えてくる。

今日、私が偶然話しかけた女性はこの一年、ずっとそんなことを考えてきたに違いない。
錦糸町駅のプラットフォームから見える、建築中のタワーを見ているときでも。

久しぶりに実家に来た息子が、翌々日帰る時、お母さんにこう言った。
「来年になったら、一緒に住もうね」
彼が出がけに、そのことを言い忘れたようだ。
なぜなら、息子は
「おかあさん、行ってくるね」
と、いったん玄関のドアを閉めたにもかかわらず、もう一度、ドアを開けて彼女に伝えたのだった。
息子が口にした言葉よりも、その時の息子の笑顔が、お母さんは忘れられない。
出がけに、あんなににっこりするなんて、おかしな子だと、思った。
嬉しい言葉のはずなのに、なんだかさびしい気持ちがした。
夫の看病で彼女が疲れ果てたとき、勤務先から遠いのに、息子は、しばしば戻ってきては、手伝ってくれた。
「こんなことじゃ、結婚できないね」
心配する母親に、息子は笑って
「大丈夫」
と言った。
一緒に住む、とは、結婚する相手がいるということだったのだろうか。
今となっては、それもわからない。

夫がなくなって、一人暮らしを心配する息子たちに対して
「かあさんは、まだ大丈夫だから」
と、彼女は言った。
下の息子も、勤務先近くのアパートに戻った。
独身の息子は、年に数回、母親の元に帰ってくる。
夫が亡くなってもうすぐ十年だ。
下の息子は、手のかからない子だった。
三人目で、親のほうが子育てに慣れていたせいかもしれないが。
反抗期もさほどなく、中学も高校も、決して困った子ではなかった。
ただ、成長するにつれ、寡黙になった。
友人も普通にいるが、にぎやかな子ではない。
怒った顔もしないが、あんな笑顔を見せることもなかった。
当然だろう、とお母さんはずっと思っていた。
友人同士、居酒屋で飲んでいる時ならいざ知らず、母親と会っているときは、ちょっと笑うくらいが普通だ。

今でも、お母さんは、あのときの息子の笑顔を思い出す。
あの子は、最後になんと素敵な笑顔を私に見せてくれたのだろう。
あれは、息子からの最後のプレゼントだったに違いない。
それから三日後に、突然この世から消えてしまったのだから。
あれから一年が経つというのに、彼女は今でも息子をさがしてしまう。
息子をさがしていることすら、自分では気づかないのだ。
「あの子から連絡がないけど、風邪でもひいているのではないかしら」
そう思って、息子のアパートに電話をしそうになったこともあった。
新宿駅の改札近くで、書類を見ながら携帯で電話している若者に、あやうく声をかけそうになったこともあった。
人込みから離れ、柱の陰に大きなカバンを置き、もうひとつ重そうなカバンを肩からかけて電話している若者の横顔は、死んだ息子にそっくりだった。
まっすぐ近づくと、若者は彼女を不審げに見つめた。
正面からみると、赤の他人だった。
「すみません、人違いしました」
彼女が謝ると、電話をしながら若者は笑顔で会釈してくれた。

「有給休暇を使わなくちゃいけないから、二日ほど帰ってもいいかな」
そんな電話があったのは、昨年の秋のことだった。
いつものように、息子は高速バスで帰ってきた。
もうすぐ年末だから、と翌日、窓ガラスを全部拭いてくれた。
「おかあさんは小さいから無理だね」
狭い庭の剪定もしてくれた。
「しばらくは掃除しなくてすむよ」
息子の言葉が嬉しかった。
自宅の近くに市立図書館がある。
子供たちがよく通った場所だった。
泊まった翌日、姿が見えなかった。
本好きの息子だから、てっき
り図書館に行ったのだろうと、彼女は思った。
帰ってきた息子は、スーパーのビニール袋をいくつもぶら下げてきた。
米、醤油、サラダオイル、ジャガイモ、玉ねぎ。
重いものばかり入っている。
彼女が三十分近くかけて買い物に行くのを、気遣ってくれたに違いない。
「駅前のスーパー、閉店したのよ」
そう言えば、そんな会話を、昨夜したのだった。
もう一度出かけたかと思うと、今度は寿司や空揚げやプリン。
「今日は料理作らなくていいよ」
息子はそういった。
「まるで誕生日ね」
彼女は驚き、少しはしゃいだ。
テーブルいっぱいのご馳走だった。

今、考えても、彼女には不思議なことばかりだ。
なくなる三日前に、有給休暇でわざわざ帰ってくれたこと。
半年ぶりだった。
家をきれいにしてくれたこと。
頼まないのに、買い物までしてくれたこと。
息子は優しい子ではあるが、いつもそういうことを、進んでやるわけではない。
病気の夫の手伝いで来てくれたときも、彼女がすべて指図した。
「まったく、男というのは仕事以外、自発的に考えようとしないのかしら」
そう愚痴を言ったこともある。
死ぬ前に息子がやってくれことは、息子がもうすぐこの世からいなくなることを知っている誰かが、息子にさせたことにちがいない。
彼女にはそう思えてならない。
「会いにきてくれたのね」
彼女は、時々そうつぶやいてみる。
息子と一緒に暮らしてきたわけではない。
夫がなくなってからもう十年、ひとり暮らしだ。
だから、きっとどこかに息子は暮らしている、そう思いたい。
最後に実家に泊まっていた時、テレビを見ている息子の背中が、寂しそうに見えた。
「あの子も、もう若くなくなったわね。背中が曲がっている」
彼女はそう思おうとしたのだったが、どこか違うと感じていた。
きっと、息子の体のどこかが死期を感じ取り、わずかばかり抵抗していたに違いない。
彼女は、今ひとりになってそう思う。

苦しい。
雨の日は、特に苦しい。
朝、雨が降ると、彼女は外出するようにした。
家にこもっていてはいけないと思ったからだが、息子が亡くなって半年間は、家から出る気力すらなかった。
家を出ると、息子が乗ってきた高速バスを見ることもある。
つい、乗ってしまったこともあった。
毎日のように外出するようになって、錦糸町のホームからタワーが見えるのに気づいた。
電車を降りて、どこに行くあてもない彼女がホームに佇んでいると、若い男女の声が聞こえた。
「ほんとだ、見える」
嬉しそうな声だった。
その声につられて、彼女は若い女性が顔を向けている先を見た。
建設途中のタワーが見えた。
「写真、撮っとこう。この形、今しかないんだものね」
互いに記念写真を撮りあっている若者を邪魔しないように、彼女はホームの先に歩いていった。
今しかない姿。
あの子は私に見せてくれたに違いない。

「スカイツリーを見ましたか?」
女性が、私に声をかけたのは、駅ビルの中に入っているパン屋だった。
店内のパンを食べることのできるカウンターが、店の隅にある。
スカイツリーと言われても、すぐに反応できなかった私に
「駅から見えるタワー、ほら、今作っている」
と彼女は説明した。
初対面の私に気さくに話してくる彼女に、私は躊躇したが、じつは私のほうが最初は気軽に声をかけたのだった。
小さい紙袋を二つ、カウンター席に置いたまま、パンを買いに行こうかどうか迷っている彼女に
「見ておきますよ」
と、私は声をかけたのだった。
私のコーヒーはもう少し残っていたから、彼女がパンを買って戻ってくるまでは席を立つことはない。
彼女は私に礼を言って、買い物に行った。

「ホームから見えるんですよ。
今日はだめだけど、このごろは空気が澄んでいるのか、きれいに見えますね」
彼女は私の横に座りながら、そういう。
私はもうコーヒーを飲み干していたのだが、席を立つきっかけを失ってしまった。
待ち合わせの時間までは、あと十分ほどはある。
時間までここにいようと、心を決めた。

待ち合わせの相手から、連絡が入った。
事故の影響で、電車がこないらしい。
「すみません、一時間ほど待っていただけますか」
相手は恐縮していたが、私にとっては好都合だった。
偶然同じ店に入り、カウンターで隣に座った彼女と話をしていたから。

彼女の話はあちこちに飛び、最初私は、誰が亡くなったのかわからず、かといって質問もできずに悩んだ。
なぜ、彼女が私に息子の話をしたのか、私がなにかきっかけを作ってしまったのか、わからない。
私に話してしまったことを後悔しているのではないかと、時々私は心配になりながら、聞いていた。

スカイツリーというタワーのことは、私はほとんど知らない。
現在の東京タワーより高いのだろう、というくらいのことだ。
「あんな高いところにクレーン車があるのですからね。大したものですね」
彼女は、尊敬する口調で私に言った。
「タワーが出来ていくのをみるのは、楽しみですよ」
彼女は穏やかな口調で言う。
彼女の悲しみが消えるわけではないが、タワーが完成に近づくと、何か薄らぐものもあるのだろう。
「今日はあんまり見えませんよ、雨が降って いるから」
待ち合わせの相手から、駅に着いたという電話が入った。
そして、私はその女性と別れた。