Novel(百物語)
02ten

森のビル

本当に残念でした。
見逃してしまった、小さな森のことです。
ビルの屋上にある森を、私はこの目で見る機会を逃してしまいました。

十五年以上前に戻ります。
ある日の新聞に、大森駅前の個性あるビルディングの記事が載っていました。
ビルの持ち主は、緑に覆われた建物にしたかったようです。
屋上に大量の土を入れ、そのために、普通よりも頑丈な設計になりました。
木々は年を経て大きく茂り、駅前の空近くに森ができたのです。
実のなる木が多いらしく、持ち主は果実酒まで作っていました。
私はその記事を切り抜きました。
いつか、駅前に立ち、緑の森のビルを見上げてみようと思いました。
そう考えただけで、なんだかわくわくします。
私はお酒を飲みません。
しかし、森のエキスが詰まっている果実酒は、私の頭を酔わせたのでした。

大森駅は、私の住んでいる町からは少々遠いところにありました。
しかし、行こうと思えば行けるところです。
その安心もあって、「いつか行こう」と私は思っていました。
子供が小さかったこともあり、私の毎日は大森駅から遠い場所で過ぎていきました。

先日のことです。
家の片付けの最中に、私は切り抜きの入っている箱を見つけました。
大森駅前のビルの記事もありました。
切り抜きは黄ばみ、写真も見づらくなっていました。
果実酒の瓶は濁っていて、中の果物は見えなくなっていました。

翌日、私は大森駅前に足をはこびました。
想像していたよりも、近い場所でした。
子供たちの授業が午後まである日だったら、じゅうぶんに間に合ったはずでした。
なぜ、早く来なかったのだろう、そう思いながら、私は駅の改札を出ました。
駅は立派で、駅ビルになっていました。
あのビルは、新聞記事の写真でも、古く見えました。
もう建て替えられているのではないかと、私は心配になってきました。

驚いたことに、ビルはまだありました。
古色蒼然としたビルを思い描いていましたが、塗り替えをしたのか、真新しく見えます。
ほっとしたのもつかの間、目を上げると、ビルを間違えたかと思いました。
でも、たしかにこのビルです。
屋上には何もありません。
森は完全に消えていました。
私の心の中にかすかに残って
いた期待も、ふうっと消えました。
なんだか奇妙な気分です。
ビルディングがなくなっていれば、それはそれであきらめもつくのですが、屋上の緑だけが消えているのですから。
一階は薬屋でした。
二階に上る階段があるのでしょう、狭い入り口がありました。
会社の名前がドアに張ってありました。
その扉を開けるべきか、しばらく私は迷いました。
会社の人に、私は何を言えばいいのでしょう。
新聞に載っていたビルの持ち主は、亡くなったのかもしれません。
なぜ屋上の緑がなくなったのですか、と言われても、困ってしまうかもしれません。
結局、私は大森駅に向かい、家路につきました。

タイミングというものは、あるようです。
会えなかった人、見ることのできなかった光景、そういうものが私にもいっぱいあります。
逆に言えば、タイミングよく会えた人、偶然見ることのできた光景、そういうものも、私にはたくさんあります。
どんな木が植えられていたのでしょう。
あのビルディングの屋上には。
そんなことを想像して、しばらく楽しむことにしましょう。
それが、お酒の飲めない私の、果実酒の楽しみ方なのかもしれません。