Novel(百物語)
02ten

杉を植える

うぐいすの声が響く。
ホーホケキョと鳴いた後、シラソラシラソラと音程をつけて、何度も歌う。
そのあとにキッキョと続く。
鳴き声が長い。
まるでオペラ歌手のように見事だ。
美しいその音色に、思わず聴き惚れてしまうのは雌のうぐいすだけではない。
人間の私もそうだ。
うぐいすの声が、春の空の下で美しく響く。
私のすぐ隣で、うぐいすが鳴いているかのようだ。
他には何の音も聞こえない。
うぐいすの声がこれほどまで響くのに、静寂という言葉が一番ぴったりくる。

うぐいすを探しに来たわけではない。
500本の杉林を見るために、ここまできた。
病室で会ったおじさんの話を聞いていたら、こういうことになった。
アルバイトをし、旅費を工面して、往復2600キロの旅をしてきた。
大怪我をした私にとって、おじさんの話は薬になった。
長い入院生活はつまらないこともあったが、いつのまにか小さな望みができた。
怪我から回復してこれまで通りの生活ができるようになったら、おじさんが植えた杉を見に行こうと決めた。
おじさんが苗木を植えて、約40年経つという。
40年経つと、杉はどのくらい大きくなるものなのだろう。

おじさんの杉林までもう少し、というところまで来ているはずだった。
しかし、山に入って自分を笑った。
あたり一面、杉林ではないか。
これでは、渋谷で会おうと待ち合わせをするようなものだ。
ポケットからおじさんからもらったメモを取りだしたが、その場所に行きつけるかどうか心もとない。
宿の人に、もう少し聞いておくべきだったと後悔した。
「行ってもかまわないが、なんにもないところだ。がっかりするなよ」
おじさんの言葉を思い出す。
がっかりはしていない。
私に区別がつかないだけだ。
まるで私のために歌ってくれているかのようなうぐいすもいる。
うぐいすに励まされ、もう一度おじさんが書いてくれたメモを眺め、目的地の方向を探す。

2年前のことだった。
事故で重傷を負い、私は救急車で運ばれた整形外科に入院した。
ここは病院なのだろうかと不安に思うほど、古色蒼然とした建物だった。
ただ、救急車を率先して受け入れているせいか、患者は多かった。
私は、容体が落ち着くまでは個室だった。
個室にいた時期を憶えていないのは、怪我がかなりひどかったせいもある。
個室から出てようやく、私はその病院を眺める余裕がでたのだった。
整形外科に入院してくる患者の多くは、内臓に負担がないせいか、大方の人が、どこか、湯治場で会った人のような明るさがあった。
パジャマを着てはいるものの、患者は病院をうろうろと歩きまわる。
大部屋の病室は、近頃の町には見当たらなくなった、長屋のような雰囲気が感じられた。
一応、男女の病室は別れてはいるが、病室の引き戸のドアは開けっぱなしだった。
閉まらなかったのかもしれない。
女性の病室は、大腿骨骨折で手術入院したおばあさんふたりと私だけだった。
おばあさんたちは、ほとんど寝ていた。
あまりに静かで、私は時々心配になり、起き上がってはおばあさんたちの寝顔をうかがった。
それにひきかえ、男性の病室はにぎやかだった。
定員は8名。
足場から落ちた、建設作業員が2名、若い人と年取った人。
オートバイの事故で怪我をした若者2名。
腕と足をそれぞれ骨折した中年が2名。
他にも、おばあさんたちのように静かな、年取った人がいた。
男たちの怪我の種類は、顔ぶれが変わっても、大体同じようなものだった。
いつも満員だった。
彼らは誰かのベッドに集まって話をし、時には賭けごとを行い、夜になるとビールを飲んでいた。
ビールを飲んでいることを、なぜ病院の人たちが注意しないのか、私にはよくわからなかった。
男たちの話声は、にぎやかな割には声が低く、ちょっと聴き耳をたてたくなるような話もある。
看護師たちも、彼らと話す時は声が楽しげだった。
入院している男たちが病院の決まりを守っているとは思えなかった。
ただ、彼らはおばあさんたちには少しだけ親切だった。
見舞いの人などほとんど来ないおばあさんたちのベッドの傍らにやってきて、「頼まれごとはないかい」と尋ねてくれる。
おばあさんたちは、とぎれとぎれの口調で必要らしいものを頼んでいた。

私の怪我はひどく、誰よりも入院が長かった。
誰が言い出したのか、男たちは私のことを、「牢名主」だの「ぬしのお嬢さん」とあだ名で呼んだ。
見舞客が持ってきた花束は、誰のものでも、「やっぱり、お嬢のとこだよね」と、いつも私のサイドテーブルに飾られる。
「困ります」と断っても、彼らはへこたれない。
「いいじゃないか、若い女の子の枕元はきれいでなくちゃ」と言う。
看護師は、私にいつも見舞いがあるのだと勘違いしてほめてくれる。
私は毎回訂正しなくてはいけない。
男たちに怒ってはみるものの、きれいな花は心をなごませた。
入院生活の長い私は、彼ら、男性患者の受け継がれていく決まりごとに、遊びのひとつとして組み込まれていた。
男たちは、退院するときは、私のベッドの横で退院式を執り行う。
「ぬしも早く元気になってください」などと、退院する男はうきうきと言う。
バイク事故の若者も、建設現場の事故の男たちも、私より後に入院し、早くに退院していく。
彼らが、私を楽しませようとしてくれるのは分かっていたが、本当に自分が「ぬし」になっていくようで寂しくもあった。

おじさんは、足を怪我しているらしく、最初は私同様、ベッドに寝たきりだった。
そのうち、松葉づえをうまく使い、動き回っていた。
おじさんのそばには、いつも誰かがいた。
新聞を広げて、競馬の予想をしていたり、女性との武勇伝を誰かが話していることもあった。
おじさんの声は低く、一番聞きづらかった。
「またおやっさん、そんなほらふいて」
若い男の声が聞こえてくる。
「いや、ほんとだよ」
「だってこのあいだの丸太の話も、俺、信じてないからね」
そう、丸太の話は私も知っている。
あのおじさんに中学生の頃があったなんて信じられない。
パネルを張った白い天井を眺めながら、私はおじさんの話に聞き入っていた。

「杉を植えるぞ」
おじさんが中学二年生の時、父親が言った。
苗木を500本渡された。
植える場所は、おじさんの祖父が開墾した棚田だ。
戦後、多くの人間が食べるためにひとまず田舎に戻ってきた。
食料が必要になり、山の上まで棚田を作った。
そのうちに、仕事を求めて、人は都会に出ていった。
人があふれていた田舎は、少しずつ元の姿に戻っていった。
米を作らなくなると、棚田は草や潅木に覆われていく。
おじさんの父親は、たったひとりでそこに杉を植え、近くに炭焼き小屋も作った。
山の頂上の杉林から、木を切り、炭を焼く。
炭焼きを始めると、父親は家に帰ってこない。
火を絶やすわけにいかないからだ。
小学生だったおじさんは毎日、炭焼き小屋に弁当を運んだ。
夜の山は怖い。
山に出かける時はまだ夕暮れだが、帰りは真っ暗だ。
街灯などあるわけもない山の中、空腹と怖さに襲われながらおじさんは走った。

小学校も高学年になると、もうひとつ仕事が増えた。
父親が切った杉を、炭焼き小屋まで下ろす仕事だ。
枝を払い、丸太になった杉を、父親が山の斜面から落とす。
怖かった。
自分に向かって大きな丸太が滑り落ちてくるのだ。
逃げなくては怪我をする。
しかし、ただ逃げていては、丸太は思い通りの場所にはいかない。
こちらになだれ落ちてくる丸太の向きを修正し、炭焼き小屋の近くまで落としていく。
陽が残っている間は、丸太が見えるからまだよかった。
胆力と頭を使いさえすればよい。
しかし、あと数本というところで日が暮れても、父親は仕事をやめなかった。
暗闇に目を凝らし、耳をすませる。
丸太が落ちてくる気配を身体で感じるしかない。
ひとつ間違えば、丸太の下敷きになるか、骨が折れるか、あるいは、丸太が谷まで落ちるだけだ。
死にものぐるいだった。
親父は自分を殺そうとしているのではないか、と思ったほどだ。

丸太の誘導に比べれば、植林は馬鹿みたいに容易に思えた、最初のうちは。
しかし、いくらやっても杉の苗木は減らない。
500本が永遠のように見えてくる。
けもの道を通って、山の斜面に杉を植えていく。
1本植えたら、シャベル3つ分離せ、と父親から言われた。
しかし、おじさんは父親の指示に従わなかった。
早く植林を終えたかった。
親父の言うとおりにやっていたら、いつになっても終わりはしない。
苗木の間隔はシャベル1つ分だけにした。
それだったら、移動も少なく、仕事の効率がいい。
父親の命令のうち、「植えろ」という点だけを、おじさんは守った。
必死で植え終えた山の斜面に、小さな苗木が並んだ。
おじさんの目には、苗木が小さいせいか、ゆったりとした間隔に見えた。
中学を卒業し、おじさんは家を出た。

「この頃になると、あの杉はどうなってんのかなと思うんだよ。
俺も年取ったもんだ」
おじさんの低い声が聞こえる。
「おやっさん、見てくればいいじゃないか」
「そうはいかんさ」
「帰れない理由でもあるんですか」
別の若者の声が聞こえる。
見に行こう。
なぜか、その時私はそう思った。
退院は未定だったが、ひとつ私に計画ができた。
私は学校に戻りたくなかった。
同級生と一緒に卒業できる見込みもなく、頑張ってきた部活も、もう無理に違いない。
空気の抜けたような風船。
そんな気分だった。
40年経った杉の木は、いったいどのくらいの高さなのだろう。
まっすぐに空に伸び、天の光を求めて葉を伸ばしているのだろうか。
おじさんは、父親の言うことも聞かず、シャベル1つ分しか間隔をあけなかったという。
すくすくと育ったのだろうか、杉の苗木は。

おじさんの退院式は、やはり私のベッドの横だった。
「ぬし、それでは失礼します」とおじさんはまじめに私に頭を下げ、顔をあげるとにやりと笑った。
「お嬢はお嫁にも行かず、ここにいます」
縁起でもないことを、先日入院してきた男が冗談ぽく言い、私は真剣に怒った。
「治ったら、杉を見に行こうと思ってます」
私はおじさんに言った。
「遠いよ」
おじさんはいい、無理というような手の振りをした。
看護師がやってきて、私たちの式を終わらせた。
1週間後、おじさんは背広で私の前に現れ、メモをくれた。
「行くつもりなら、金がかかること忘れるな。
このくらいアルバイトしないと無理だ。
行ってもかまわないが、なんにもないところだ。
がっかりするなよ」
寝巻ではなく、背広を着て、ぼさぼさの髪の毛を、床屋に行って散髪すると、おじさんはどこにでもいる普通の男になった。
廊下の向うの男たちは、誰も気づかない。
「じゃあな。もう少しだろうが、無理するなよ」
それから、おじさんに会っていない。

メモを見ながら1時間ほど歩きまわり、ようやく目当ての杉林の真横にたどり着いた。
おじさんが中学生のころにはなかった林道に、私は立っている。
アスファルトの端に立ち、近くの木の枝をつかんで、私は下を見下ろす。
山の斜面はかなり急だ。
丸太を炭焼き小屋まで落とす怖さが、ようやく理解できる。
おじさんは、どうやってこの斜面を登り、傾斜のある地面に立って苗木を植えたのだろう。
おじさんが植えた杉のてっぺんが、峠の頂上からよく見える。
私は道路を上っては杉の頭を眺め、また坂道を下っては、斜面に並び立つ杉を眺めた。
中学生のおじさんが杉を植える際に父親の指示通りにしなかった結果が、今になるとよくわかる。
シャベル3つ分というのが、やはり正しい。
木と木の間隔が狭すぎて、40年とは思えないほっそりした杉も目に入る。
成長の途中で、間引いていないせいもあるのだろう。
竹林みたいだ。
細い杉の木は、風にゆれている。
ゆらりゆらり。
おじさんが中学を卒業し、長い間働いて、怪我までしている間、杉の木も同じ時間を過ごして、あんなに伸びたのだ。
おじさんのお父さんが、この杉を見に来ていた様子を私は想像する。
シャベル1つ分の間隔で、小さな杉の木がひしめいている有様を。
怒るよりも、いかにもあいつだと思ったのかもしれない。
どうにか成長し、大きな杉の木になるころ、自分はとっくに死んでいる。
そんなことをひとり思いながら、おじさんのお父さんは杉の苗木を眺めていたのだろうか。

道路の端に座って、私は宿で作ってもらったおむすびを食べた。
車は一台も通らない。
宿の人からおむすびを手渡された時、こんなにたくさんはいらないのにと思った。
断り切れなかったのだが、黙っておいてよかった。
私が手にしているのは最後の一個だ。
アスファルトが途切れたところから斜面の端までを、ふき、三つ葉、ヨモギ、スミレが緑の敷物のように広がっている。
木漏れ陽のなかで、ミツバは見事に大きく、ヨモギは柔らかい葉を茂らせ、スミレは茎が長い。
どれものびやかだ。
おじさんの杉林をもっと間近に見てみたいとは思うが、斜面を下りていく勇気はない。
私はおむすびをほおばりながら、立派に伸びた杉をあかず眺めた。
斜面すべての杉がひょろ長いわけではなかった。
あんな狭い間隔でも、見事に大きくなっている杉を見つけた。
シャベル三つ分、離して植えたような杉だ。
木漏れ陽の中での昼ごはんを終え、私は立ち上がった。
まだ続く、林道を先まで歩いてみようと思った。
突然、風が強く吹いた。道路の脇の木々がお辞儀をする。
木の花が落ちてくる。
青臭い木の花。
私はこの匂いが好きだ。
落ち葉が風にあおられて、坂道を駆け下りていった。