Novel(百物語)
02ten

崖を買う

弟から電話があった。
小さな谷を、彼は買ったらしい。
「タラは馬鹿みたいって怒ったんだけどね」
弟は淡々と言う。
「タラちゃんでなくても、そういうさ」
呆れて俺は言った。
弟の奥さんは、タラ子という名前ではない。
サザエさんちの、たらちゃんみたいな声を出すわけでもない。
初めて実家に連れてきた時、「タラちゃん」と弟が呼んだ。
親父もおふくろも、そう言う名前だと勘違いした。
その後、本名がわかったが、今に至っている。

弟は、郊外の住宅地に住んでいる。
まさしく郊外で、通勤時間はかなりのものだ。
山を切り崩してできた住宅地だ。
ところどころに、どうしても地形差で埋められなかった谷間が残る。
崖と呼んだほうが、適切かもしれない。
もちろん、そこに家など建てられはしない。

「犬と散歩していたら、気になってなあ」
呑気な声で弟は言う。
「犬が降りて行くんだよ。気持ちよさそうにしていてね。
俺は上の道路で待っているんだぜ。」
弟のうちの犬には名前がない。
うちの犬、でしかなく、遠く離れている時は「おいっ」と呼ぶ。
妻を「タラ」と呼ぶのなら、犬にこそ名前をつけるべきだ。
あいつのことは、よくわからない。
小さい時からそうだった。

谷は、まわりの住宅造成地区とは関係なく、そのまま放っておかれた。
木々は成長を続け、うっそうとした森になった。
崖を降りていく細い道がある。
犬は降りていけるが、人間には怖い。
春になると、木の花が咲く。
あれは梅だろうかと、弟は犬を待ちながら思った。
犬に聞くわけにはいかない。

タラちゃんから借金して、谷を買い、弟は小道をつけた。
果樹を植えたかったそうだ。
柿や栗、梅を植えた。
弟がなぜ崖を降りていきたかったのか、俺は分かるような気がする。
俺たちが子どもの頃住んでいた町の向うには、青い影のように見える山々があった。
手前の山、その次、またその向こう。
一番奥の、高い山の向こうには何があるのだろう。
いつもそう思った。
山が高すぎないからか、圧迫感はない。
閉じ込められるような思いもない。
子どもが家を出ると、頭の上には空があり、遠くには山があった。
それが、俺の知っている「外」だった。
「そと行ってくる」
サンダルをつっかけて出かける毎日。

弟の電話がある数日前に、俺は会社の窓から信じられないものを見た。
山を見た。
通りを隔てたビルに、山の影が映っている。
山があるはずはない。
ここは都心なのだから。
そうわかっていても、あの三角の影に心がおどるのは何故だろう。
若手の話を聞いていたことも忘れ、俺は窓から目が離せなかった。
「すみません。これじゃ、だめですよね。もう一度、書きなおします。」
若手社員の声に気付き、俺はあわてた。
「いや、そんなことはない」
そう言えばいうほど、相手を詰問している口調になってしまった。
怒って、そっぽをむいたわけではない。
しかし、相手はそう思ったに違いない。
しまったな。
「ちょっと外にでるか」
背広姿の男がふたり、どこに遊びに行くわけではないが。
山でも探しに行こうか。
そんなことを言ったら、こいつどんな顔するだろう。