Novel(百物語)
02ten

夜汽車

銀杏の葉が黄色になると、嬉しくなる。

高校を卒業し、就職のため、生まれ育った家を出た。
太平洋側の地域は、冬も空が青いことをその時、知った。
おかげで、私は冬が好きになった。
私の生まれ故郷は、冬になると、空は鈍い灰色。
雪が降る。
冷たい雨が降る。
秋が深まると、その次に寂しい冬が来る。
秋が終わるころには、気分は暗くなった。
就職してからは、明るい冬の空にひかれ、どこかに出かけたいとしきりに思うようになった。
有給休暇をもらえるようになるまでは、時刻表を何度も読み返し、行先を想像しては楽しんだ。
仮想旅行を楽しみすぎて、休暇をもらえるようになっても、切符を買うのを忘れていたくらいだ。

親元から離れ、ひとりで暮らし、毎日朝早く出勤するのは、確かにきつかった。
自分では標準語で話しているつもりだったが、からかわれた。
相手はイントネーションの違いを口にしただけなのだろうが、私自身は落ち込んだ。
ひとり暮らしのアパートに帰って、夕食を済ませると、やることがない。
そんなとき、いつも時刻表を開いたものだった。
奮発して、一番大きな時刻表を買った。
実際に旅行するわけではなかったから、その時刻表は長い間、私の愛読書となった。
時刻表には、日本地図がある。
駅がびっしり載っている。
こんなにたくさんの駅が、日本中にあるんだ。
見てみたい。
行ってみたい。
そう思った。

数年たつと、私は事務所で大きな顔をしていた。
なぜ、電話をとるのが怖かったのか、思い出すこともなくなった。
私のイントネーションが、かえって特色になるらしく、名前も覚えてもらいやすかった。
「富山さんと話すと、こっちまでなまっちゃうよ」
こういうことを言う相手は、私に何の悪意もないのだ。
それがわかり、自分も納得するまでに、私は一年以上かかった。
不思議なものだ。
「馬鹿にしている」と感じてしまうと、卑屈になる。
ひねくれてしまう。
そんな日々、私は時刻表の汽車に乗っていたに違いない。

少しでも長く列車に乗っていたいために、私は夜行列車を選んだ。
寝台列車ではない。
夜遅く出て、朝早く着く。
宿泊代も二日分浮くから、私は迷わず、往復とも夜汽車を選んだ。
あの頃の列車は、座席が向かい合っていた。
否応なく、向いの乗客と顔があう。
中年の女性やおしゃべりの男性と隣り合うと、しばらくは質問ぜめにあう。
「どこまで行くの?」
「遊びに行くのかね?」
「これ、どうぞ」
みかんやあめやらを手渡されて、今度は相手の話を聞く羽目になる。
自分の仕事のこと、嫁に行った娘のこと。
親戚のこと、町の人の噂話。
誰かが話すと、四人掛けの誰かが
「うちもそうそう」と合いの手をいれる。
かといって、皆が聞き手になったわけではない。
ひとりくらいは寝たふりをし、あるいは、興味無さそうに新聞を読んでいた。
誰かが話を向けても、口も利かない人もいた。
本当に眠たいのか、おしゃべりに入りたくないのか、若い私にはわからなかった。

朝まで列車は走り続けるから、おしゃべりな人も
そのうちに寝てくれる。
寝台列車ではないから、寝るといっても単に目を閉じるだけだ。
それでも、乗客たちは向かいの席にそっと足をのばし、あるいは荷物をまくら代わりにして、少しでも眠りやすい恰好をしようと苦心するのだった。
ふと目を覚ますと、向いに座った人がいない。
どこかの駅で降りてしまったに違いない。
そんな時、この列車に乗っていること自体が、夢のように思えてくる。
いったん目が覚めてしまうと寝つけず、しばらく窓の外を眺める。
暗い夜を、列車は走り抜ける。
腕時計を見ると、真夜中だ。
明かりのついた家がある。
こんな時間に、あの家では何をしているのだろう。
どんな仕事をしているのだろう。
私は窓ガラスに頬をくっつけて、外を眺める。
くっつけなければ、ガラスは鏡の役目をしてしまい、自分の顔しか見られない。
夜汽車の窓に映る自分の顔は、何となく怖かった。

あの頃は、おざなりに話を聞いていた。
相手の話を聞いてはいたが、一応の礼儀からでしかなかった。
若い私には、向かいに座った人の娘さんの暮らしなど、何の興味もなかった。
別の人の出稼ぎの話も、故郷の山の話も黙ってうなずくばかりだった。
ただ、忘れていたはずなのに、ふと心に浮かぶことはあった。
まるで自分の経験のように。
「青谷、ああ」
そう言ってしまったことがある。
会社で、誰かがその地名を口にした。
「富山さん、知っているの?」
私は曖昧にうなずいた。
たしか、夜汽車で会った人の娘さんの嫁ぎ先。
「大きな旅館に嫁いだけれど、あの子は苦労ばかりで」
そんなことを、あの女の人は小さな声で話してくれたっけ。

この頃になって、私は気がつく。
あの夜汽車で聞いた話を、私がほとんど忘れてしまっていることを。
私が忘れるわけがない、そう思っていた。
馬鹿らしい噂話や懐旧談であったとしても、若い私はすぐに思いだせた。
どうしてこんなつまらない話を覚えているのだろうと、いつも思っていた。
しかし、今はほとんど記憶に残っていない。
コピーの印字が、いつの間にか消えているように。
たしか、大きな旧家の話もあった。
その跡取りの人だった、話してくれた男の人は。
画家になったその人は、自分が潰してしまった家のことを、私たちに話してくれたはずだった。
あのときだけは、私は聞き入った。
なんだか小説のようだと思った。
途中で隣のおじさんは寝てしまった。
あんなに大切にしていた話を、私はすっかり忘れてしまっている。
香りを閉じ込めていた箱を、不注意で開けたままにしていた時のよう。

夜汽車に乗ることもなくなった。
列車に乗っても、四人掛け用に座席を動かしているのは、グループ旅行の人ばかり。
隣の人のおしゃべりに、煩わされることもなくなった。
もちろん、前の人の顔を見ることもない。
座席の背を見るだけだ。
私は窓の外だけを眺めることができる。
誰にも邪魔されず。
気持ちいいくらいに。

たぶん、気持ちいい。