Novel(百物語)
02ten

おじさん

近頃の家庭で、見られなくなったもの。
着物箪笥。
学校の入学式に出る母親たちが、着物に羽織という恰好をしなくなったのだから、当たり前かもしれないが。
私が幼いころ、我が家にも母親の着物箪笥はあった。
横に長いひきだしを開ける前、母は箪笥の正面できちんと座りなおし、力をこめて引っ張る。
着物は沢山入っていないのに、ひきだしが重いのにはわけがあった。

母と私だけの秘密だった。
母の着物を、父が勝手にさわることはない。
着物の下が、母の隠し場所だった。
お金や通帳ではない。
新品のネクタイ、きれいなハンカチ、エプロン、小物のバッグ。
そのころから流行りだした、密閉容器のセットもあった。
外国製のローソクや、クッションカバー。
どれもが、母が「英ちゃん」と呼んでいる人から買った品物だった。

英ちゃんは、英二といい、母の弟だった。
父親は違うと聞いていた。
戦争で夫を亡くした祖母が、再婚した相手との子供だった。
「えいちゃんが生まれた時、私は本当にうれしくてね」と
母はよく口にした。
私は母から「栄子ちゃん」と言われていたから、最初、自分のことだとばかり思っていた。
英二おじさんのことかもしれないと気がついたのは、いつの頃だったろうか。
父親が、英二おじさんのことを好きではないと気付いた頃のように思う。
珍しく家で酔った父親が、「ろくな仕事もしないで」「あいつのような男は、女子供しか相手にできんのだ」と言っていたのを思い出す。
私ですら、誰のことを言っているのか分かった。
母親を見ると、何も言うなと私に目配せをしている。
「ごちそうさま」と私は席を立ち、台所に自分の食器を持って行った。
「栄子は俺より先に席を立つのか」
母親にからんでいる父親の声がする。
「すみません。あの子は明日試合があって早いんです」
なだめる声がする。
私は父が嫌いではなかった。
母と私を大切に守ってくれる、強くて立派な人だった。
ただ、英二おじさんをうさん臭く思っていることだけは確かで、中学生の私ですら、その父親の嗅覚を「違う」と否定するわけにはいかなかった。
相性の悪い人がいることを、私は父親と英二おじさんで教えてもらったのかもしれない。
父にとって大切な母が、英二おじさんを大好きでいることが、父には苦しかったに違いない。
そんなことまでは、あの頃の私にはわかりはしなかったが。

英二おじさんは、父のいない時に、ふらりと我が家にやってくる。
「英ちゃん、少しやせたんじゃない?」
母は心配して、すぐに台所に立つ。
あり合わせのもので作った中華丼やチャーハンを、母は英二おじさんに食べさせた。
おすそ分けが私にも回ってくるから、英二おじさんが家に来るのは嬉しかった。
「姉さんにかかると、俺はいつまでも中学生なんだね」
おじさんは、本当においしそうに食べる。
母は、おじさんが食べるのを、嬉しそうに眺めている。
母は英二おじさんと一緒の時は、なんだか気楽そうで、一人っ子の私には、姉と弟ってこんな感じなんだとうらやましくもあった。
「姉さん、お土産がいつも売れ残りでごめんね」
このせりふで、おじさんの持っているボストンバッグから、いろんな品物がでてくる。
「そんなことないわよ。
英ちゃんのおかげで、私はいつも気働きができるお嫁さんとほめられるんだから」
「お土産なんて言わないで、きちんと買ってあげるから、値段言いなさい」
ひとしきり押し問答があり、「申し訳ない」を連発した後、決まって、英二おじさんは母から紙幣を数枚もらう。
これもまた、おじさんが来たときのいつもの儀式だった。
父親が英二おじさんを信用していないのは、当然だった。
売れ残りの品物を母に押し付け、買わせているのだから。
ただ、その品物はセンスが良くて、素敵だった。
母と英二おじさんは、久しぶりに会えておしゃべりできるのを素直によろこんでいる。
詐欺という言葉が、しっくりこないのも確かだった。

「おかあさんたら、また買っちゃったね。もう入らないんじゃない?」
「ひどいこと言わないの。英ちゃんはプレゼントといっているのに、私が買っているんだから。
ほら、この間のエプロン、もうないのよ。
こうやって買いためておくと、急に差し上げるときに助かるものなのよ。
ネクタイだって、お父さん喜んで使っているんだから。
一度にたくさん買うと確かに高くみえるけど、一本あたりに割ってみるとそうでもないのよ」
母と娘は、ひそひそと会話をかわす。
おじさんの、いわゆるプレゼントを、タンスの引き出しにしまうのは、私たちの密かな楽しみだった。

おじさんの品物は、母がきれいに包装して、「ちょっとしたものですが」と手渡す時に役立っていた。
子供というのは、親戚に、父方も母方もない。
ただ、父方の親戚に母が気に入られていたのは、このような気配りもあったにちがいない。
そんな母を父はいとおしく思っていたのだから、私にとって英二おじさんはいい人だった。

ただ、子供は自分が中心になりたがる。
おじさんが来たとき、私を一番にしてくれたら、もっと嬉しかったに違いない。
でも、おじさんにとって一番は、母だった。
「姉さん」と呼びかけるおじさん。
なんとも言えない、優しい眼差しだった。
「姉さん」の子供だから、私をかわいがってくれたに違いない。
あれはたしか、幼稚園生の頃だった。
もう赤ちゃんではないのに、私はぐずって、母を困らせていた。
母にしがみつき、「だっこ、だっこ」とねだった。
「困った栄子ちゃんね」そう言いながらも、母は私を膝にのせてくれた。
おじさんが来たのはそんな時だった。
「大きくなったのに困った奴だなあ。
やっぱり、えいちゃんてのは駄目なんじゃないの、ねえさん?」
おじさんは私たちを眺めて、出されたお茶を飲んだ。
「栄子ちゃん、降りな。おかあさん、重くて大変だよ」
「いや」
そんなやりとりをしていたと思うと、急におじさんは近づいて、母を抱っこした。
「こりゃ重いや。栄子ちゃんは重い。」
「ちがう、おかあさんだよ」
「えいちゃんたら、やめてよ」
三人できゃあきゃあ騒いだのを覚えている。
なんだか楽しかった。
お母さんもおじさんも楽しそうだった。
ただ、私のどこかに、このことをお父さんに言ってはいけないと感じていた。
もとはといえば、私が悪いのだから。
いつまでもお母さんに抱っこされていたのだから。
あの時、お母さんを抱っこしていたおじさんは、本当に嬉しそうだった。
私のほっぺたに、顔を押し付けていた英二おじさん。
少しだけ伸びたひげが痛かった。

おじさんは私が中学生の頃までは、我が家に遊びに来ていた。
その後、私は全寮制の高校に進学し、そのまま家を出てしまったから、何も知らない。
自宅通学をしていたとしても、おじさんのことなど気にも留めなかっただろう。
社会人になって、おじさんのことを母に尋ねたことがある。
ちょうど、母は着物箪笥を開けていた。
「おかあさん、まだ何か入っているの?」
なぜか、私の声は小さくなっていた。
「まあ、栄子ちゃん覚えているの?」
母は笑った。
「ここに隠していたの、ずいぶん前よねえ。」
母もひそひそ声になっていた。
母は、着物をそっと持ち上げた。
その下も着物だった。
着物箪笥に着物が入っている。
当たり前のことに、私は驚いていた。
「あれ、全部使ったの?」
「待ってね、ひとつくらい入っていそうなんだけど」
母は、下のひきだしを開けようとした。
「ほんと、何にもないわ。忘れてた。
栄子ちゃんこそ、よく覚えていたわねえ」
母は、私の顔をしげしげと眺めてほほ笑んだ。
英二おじさんが、祖母の再婚相手の連れ子だったことを、私はその時に教えられたのだろうか?
記憶が曖昧だ。
ただ、母がその話をしてくれた時、口には出さなかったが、私は母の言葉を思い出していた。
「えいちゃんが生まれた時、私は本当にうれしくてね」
母と英二おじさんが、全く血のつながらない兄弟であったことを上手に隠す、その言葉。
嘘をついたわけではない。
ただ、おじさんが再婚相手の連れ子であることを、母は父に伝えなかっただけだ。
母にとって全くの他人である英二おじさんを、父が信用するはずがない。
もともと嫌いなのだから。

おじさんは六十前に死んだという。
「事故でね」としか、母は教えてくれなかった。
ただ、おじさんには母がいた。
大好きな「姉さん」がいた。
おじさんは私のうちに来る時は、さぞかし楽しかったに違いない。

私はそう思う。
母からもらった着物箪笥。
母の形見の着物を入れる場所。
仕事で切り刻んで使ってしまったから、もうわずかしかない。
ここに何を入れようか。
箪笥のひきだしを中腰であけながら、私はぼんやり思う。