Novel(百物語)
02ten

息子のおむすび

炊きたてのご飯に、あおさ、ごま、ゆかり、きざんだちりめんじゃこ。
全部混ぜて、小さなおむすびを作る。
それを二個、皿にのせて、息子の前に持っていった。
「おいしい」
長男はにっこり笑った。
好き嫌いが激しい三歳の子相手に、私は二日で疲れ果てた。
妻が息子に、毎日何を食べさせていたのか、私は全く知らない。
会社から遅く帰宅し、息子と妻の寝顔を眺め、風呂にも入らず寝てしまう毎日だった。
「せっかく作っても食べないの」
さびしそうな顔をして愚痴をこぼす妻を、少しは励ましてやっていたのだろうか。
正直なところ、記憶がない。

息子は、おむすびをほおばっている。
私が知っている唯一の料理。
祖母が、幼い私に作ってくれた。
おいしそうに食べるとは、こういうことなのか。
私は、自分の息子を初めて見たかのように眺める。
「おとうちゃん、おいしい」
落ち着いたのか、息子はようやく口を動かすのをやめた。

妻が出て行ってしまった。
息子を家に置いていくわけにもいかず、私は会社を休んだ。
「申し訳ありません、インフルエンザみたいです。動けなくて」
上司に嘘をついた。
妻に対し、小さな怒りはある。
しかし、なぜか、怒りがこみ上げることはない。
ここ一ヶ月、こうなる予感がした。
なにか歯車があわない。
仲良くテレビを見ていたのに、口げんかになる。
一緒に買い物をし、楽しく夕食を作っていたはずなのに、黙ってビールを飲んでいる。
しかし、私は自分に都合よく考えていた。
妻が実家に戻るにしろ、息子を連れていくのだろうと。
しばらく別居になっても、仕方がない。
そんな程度にしか考えていなかったのは事実だ。

不意打ちをくらった、そんな感じだ。
「この子が嫌いなのか?」
そう聞きたい。
一方で、妻も「あなたはこの子嫌いなの?」
そう思っていたかもしれない。

可愛いとか、可愛くないとか言う前に、こんな小さいやつは、食べさせ、寝かせなくてはならない。
何と大変なことだろう。
「こどもひとり育てられないで」と、年長者からは言われるのだろう、妻も私も。
でも、今は妻を援護してやりたい。
なぜなら、自分をかばいたいから。

子供の頃、同じような年頃の友達としか遊ばなかった。
中学、高校の頃、幼い子の面倒などみたことはない。
自分だけではない。
そういう時代だった。
仕事をして、結婚したら、突然子供が私たちのそばに来てしまった。
幼稚な夫婦と言われたら、何も言い返せない。
でも、子育て以外だったら、幼稚じゃない。
私たちは。
親のところに預けるわけにもいかない。
どちらの親も、今は自分たちの楽しみで忙しい。
孫の顔など、たまに見せるだけだから、喜んでいるだけだ。
そのくらいわかる。

どうしよう。
私は、寝入ってしまった息子をそっとソファに横たえて、その横に座り込む。

一週間は猶予がある。
どうにかしなくては。
あと数時間したら、またこいつはおなかをすかせて泣くのだろう。
企画会議なら、アイデアもプレゼンも同期に負けはしない。
しかし、この状態はお手上げだ。
テレビも見る気にならない。
テレビの音で、息子が起きたら困る。
パソコンも開けたくない。
なぜかわからないが。
幼いこどもを残されて、父親が困っています。どうしたらいいでしょうか。
などとメールしそうになるからか?
なぜ、あのおむすびを作ったのか、自分でもわからない。
不思議だ。
幼いころ、祖母が作ってくれた。
年に一回、末娘の母の家に来てくれていた祖母。
祖母というよりは、腰の曲がった、年取ったおばあさんだと思っていた。
もち米やあずきを持ってきて、家に着くと休むひまもなく、おはぎをつくってくれた。
祖母の風呂敷に入っている、米や豆、庭で作っている青菜。
祖母が抱えてくる風呂敷は、自分には薄汚れた色に見えた。
母親のおかあさんだとは、どうしても思えなかった。
祖母と親しくした思い出がない。
「おばあちゃん」そう呼びかけてはいたが、どこかよそよそしかった。

祖母がいる時は、いつものおやつが違った。
ぜったいチョコレートのほうが好きなはずのに、祖母が作ったおむすびは沢山食べた。
そんなことを覚えていたなんて不思議だ。

ふと、あの店のことを思い出した。
あそこに連れて行こう、息子を。
今日の夕食をどうしたらいいか、聞いてみよう。
あそこで、赤ん坊連れのひとを見かけたことがある。
母親がトイレに行っている間、みんなで世話していたっけ。
なんだか変な光景だった。
知らない人の子供なのに、赤ん坊の周りに立って、輪になってしゃべっていた。

あの店には、結婚前に妻と何回か行った。
妻の会社が近くにあり、二人でランチに行ったことがある。
サツマイモの入ったごはん。野菜の煮物。具だくさんの味噌汁。
私には、あまりおいしいとは思えなかった。
ただ、祖母の作ったご飯を思い出した。
ふたりでランチを食べたあの頃、妻は楽しそうだった。
他に女性がたくさんいたが、妻が一番きれいだった。
あの日の昼飯のことは、覚えていない。
あの日の妻のことは、よく覚えている。
タクシーに乗っていけば、さほど遠くはない。
あそこに行けば、妻に会えるような気がする。