Novel(百物語)
02ten

つね子さんの部屋

柚子をむく。
みかんをむくように、丁寧に皮をむく。
砂糖漬け用のタッパーの上で、実をひと房ずつ分けていく。
果汁が落ちてもいいように。
実のひと房を、真ん中から横半分にする。
そっとそっと。
種は取り出して、別に用意してあるガラス瓶にいれる。
むいた皮を、包丁で細く切る。
実と皮をタッパーに入れる。
包丁もまな板も、私の指も柚子の香りに包まれる。
私は黙って、柚子をむいては、切っていく。
いつのまにか、私がつね子さんになっている。
私の傍らには、誰もいない。

籠に、柚子がいっぱい入っている。
今日はこの色の車を見た。いや、見つけた。
不思議だ。
家に柚子が来たら、黄色い色に敏感になる。
私が買い物に出かける時、小さな車を見た。
家族連れだった。
小学生の女の子が二人、母親にまとわりついていた。
父親も母親も若かった。
子供がそばにいなかったら、親とは思えないくらい若かった。

帰宅して、夕食の準備をしても、家には私しかいない。
皆、それぞれに用事がある。
今日の夕食は、私ひとりのはず。
夕食が必要な人は、台所のカレンダーに名前を書く。
サンマを焼く前に、もう一度カレンダーを確かめたが、何も書かれてはいなかった。
焼いたサンマに、たっぷり柚子をしぼって食べた。

夕食を終えて、私は柚子の砂糖漬けを作り始める。
知り合いの農家から、昨日送られてきた柚子。
籠にいっぱい。
きれいな黄色でいっぱい。
籠から一個ずつとり、私は柚子をむく。
つね子さんから教えてもらった砂糖漬け。
いや、教えてもらったわけではない。
つね子さんのそばに腰かけ、つね子さんの手元を眺めていただけだ。
「お茶でもいらんかね」
学生の私たちが玄関を通り過ぎる時、つね子さんは私たちに声をかけてくれた。
「お茶でもいらんかね」というよりは「あんた、お茶をいれてくれんかね」というのが、正確な日本語ではあったが。

私の娘たちに、下宿という言葉はなじみが薄い。
今どきは、アパートかマンションだ。
だから、つね子さんなんて存在しない。
学生ばかりが住む下宿のひと部屋に、ひとり住んでいるおばあさんを、想像させるほうが無理だ。
「お風呂がないなんて、信じられない」
私の娘は言う。
「お母さんたち、不潔じゃなかった?」
失礼な。
ろくに顔も洗わず一日を過ごすあんたたちより、ずっと小奇麗にしてましたよ。

つね子さんは何者だろうかと、私たち学生はあれこれ想像したものだった。
大家さんでもなさそうだったし、管理人にしては特別、何もしなかった。
つね子さんは玄関脇のひと部屋に住み、いつもドアが開いていた。
ご飯を作っていたり、編み物をしていたり、いつも何かをしていた。
つね子さんの部屋のドアが開いているから、私たちは見ようとしなくても、部屋の中をのぞいてしまう。
玄関で靴を脱ぎ、靴箱に入れる。
靴箱の上に、郵便入れがある。
木で作った状差しで、部屋番号が書いてある。
手紙が届いていたりすると、嬉しくて私はその場で封を開け、玄関で手紙を読んだりもした。
そんな時、部屋にいるつね子さんと目が合う。
「おかえりなさい」
つね子さんはそう言い、
「お茶でもいらんかね」と声をかける。
テーブルの上にある蒸したサツマイモやミカンに誘われて部屋にお邪魔するのは、きっと私だけではなかったに違いない。

秋が深くなると、つね子さんは柚子の砂糖漬けを作っていた。
柚子が田舎から届くのだと言っていた。
蓋つきの容器に、刻んだ柚子の皮や半分に切った房を入れ、上からたっぷりと砂糖をふりかける。
種は別のガラス瓶に入れる。
その上から日本酒を注ぐ。
寒くなったころには、種の沈んだ日本酒はとろりとして、つね子さんのハンドクリームになる。
「いるんだったらあげるよ」
つね子さんは私たちにそう言い、小さなガラス瓶を持ってくる子もいた。
私は化粧品会社のハンドクリームをせっせと使い、その効用を信じていたから、つね子さんの種酒には見向きもしなかった。

柚子の砂糖漬けを作っているつね子さんの部屋から、いい香りが漂ってくる。
また寒くなる、私はそう感じながら、二階への階段を上っていく。
「お茶でもいらんかね」と誘われるのが嬉しい半面、つね子さんがうっとおしくなる時もある。
「あっ、すみません。宿題があるんです」
嘘をつき、階段を上がる。
つね子さんが嫌いなわけではない。
ただ、大人がいつも楽々とやってのけることを、あの頃の私はできなかった。
普通におしゃべりすることも、大変なように思えた。
はしゃいで大騒ぎしているかと思うと、翌日は落ち込んで何もしたくなくなった。
ただ、つね子さんの誘いは断っても、二階に上がる私に柚子の香りがついてきた。

柚子の砂糖漬けは、冬になるとお茶代わりになる。
コップに砂糖漬けをたくさん入れて、石油ストーブの上のヤカンからお湯をそっと入れる。
ふうふうしながら飲んだ。
「風邪の予防には、柚子湯が一番だね」
つね子さんはいつもそう言った。
冬になると、つね子さんが声をかけてくれるのが待ち遠しかった。
つね子さんは柚子湯を飲んでいる割には、風邪をひく。
そんな時は、部屋のドアは閉まっている。

私には、つね子さんを見舞った記憶がない。
冷たいものだと、若かった自分を今思う。
あんなにお世話になっていたのに、なんにも感じなかった。
つね子さんは風邪をひいたのか、大変だなあと、閉まっているドアを眺めて思うだけだった。
若い時は不思議だ。
大人というものは強くて、何の支えがなくても生き延びているんだと、信じ込んでいた。

籠に残った柚子は三個。
柚子の色が部屋から消えてしまうのが惜しくなった。
このくらいは残しておこう。
つね子さんのそばに座っていた自分を思い出す。
あの頃の自分が好きなのか、嫌いなのか。
いや、何も変わっていないのか。

家族の夕食用にと柚子を取り分けておかなかった自分に気がつく。
やはり変わっていないのかもしれない。
よかった、残っていて。