Novel(百物語)
02ten

すずらん

街角ですずらんの花を見つけた。

蕎麦屋とパン屋のあいだの路地に、小さな花屋。
といっても、店があるわけではない。
パン屋の壁際に、花の入ったバケツが並んでいるだけ。
バケツの列の最後は、小さな簡易椅子。
痩せた男が座っている。
先頭のバケツのそのまた前に、小さな空き缶。
すずらんの花束が入っていた。
「すずらん一束二百八十円 初恋の甘い香り」
と書いてあった。

甘い香りというよりは、初恋のコーヒー代。
いや、コーヒーというよりは、マックシェーク。
そう思ったら、なんだかにっこりしてしまった。
あの小ささなら、トートバッグに入りそう。
帰社するだけだから、買って帰ろう。
そう決めた。
今日は早く帰れそうだし。

会社に戻ったら、バッグをロッカーに置く間もなく、仕事に追われた。
また?
急な仕事が入っている。
「課長」「課長」
と呼ばれるのも、さほど嬉しくなくなった。
わがままだというのもわかってはいる。
夢見たものを実際に獲得したら、その任の忙しさ、重さにくたびれ果てているのが現状だ。
「涼子、すごいじゃない」
と友人からは羨まれるが、これで結婚は、一歩どころか三十歩は遠のいた。
帰りの電車の中だって、読むのは、お気に入りの作家の本ではなく、仕事関係のビジネス本に変わった。

「課長、おなか、すきません?私、夜食買いにいきますけど、何かご希望あったら」
一課の女性が近づいてきた。
「どこのコンビニ?パンをお願い」と言いかけて、すずらんを思い出した。
あわてて、トートバッグをごそごそ始めた彼女を、不審そうに眺めている。
「パンならなんでもいい。お願いします」
「はあい」
まだ、バッグに頭を突っ込んでいる課長を置き去りにして、一課の女性は行ってしまった。

よかった、しおれてなかった。
彼女は花束をそっと取り出す。
小さくて丸いすずらんの花。
小さい中にも、大小はある。
きちんと整列したかのように、下を向いて花開き、かわいい形を見せている。
初恋の香りとは思えない。
花に顔を近づけて、彼女は驚く。
かわいらしい姿に似合わず、きりっとしていて、それでいながら、大人っぽい香り。
このまま、香水。
緑の葉が目に心地よい。
給湯器の近くに捨てられていたペットボトルに水をいれ、デスクにおいた。
お茶のパッケージだとさびしいので、引き出しに入っていた緑のハンカチをペットボトルに巻いてしばった。
水がパソコンにこぼれたら大変だから、サイドデスクに置いた。

「あら、かわいい」
パンを買ってきてくれた女性が声をあげる。
「課長は、なんていうか、女らしいですよね、案外」
パン代を払いながら、課長は抗議する。
「案外はいらない」
「だって、洗面所の歯ブラシキャップだって可愛いし。新人が、ほしいほしいって言ってましたよ」
課長は顔を赤くする。
以前まではバッグにいれて隠していたのに。
わざわざ洗面所に置いたのは、さよならを言うため。
可愛いといわれても、何にも言えない。

以前、歯ブラシはバッグの中に入っていた。
かわいいあひるの顔のキャップがついている。
手帳を取り出そうとし、歯ブラシを取り落したことがあった。
拾ってくれた人は、笑顔になる。
「かわいいキャップですね。やはり、こまめに歯磨きをしているんですね。
仕事もできるけれど、細やかな気配りもあって素敵です」
後輩に言われた時、彼女は下を向く。
そんなんじゃない。
握りしめていないと、さびしくなるんです。
何にも残らなかった彼との生活。
彼女の部屋に残されていた、彼のビジネスバッグにあった彼の歯ブラシ。
貴重な思い出の品。
課長になった時、思い切って貴重な思い出を洗面所に置いた。
いつまでもバッグに入れておいたら、だめだ。
そう思った。

結婚は遠くなったかもしれないが、恋愛がこの世の中になくなったわけじゃない。
すずらんは初恋だけとは限らない。