バラの花
今年もバラが咲きました。
淡いオレンジ色のバラ。
あなたの視力が少しでも残っているのなら、このバラの色を見せてあげたい。
淡い淡いオレンジ色。
幼いころ食べた、デコレーションケーキ。
一年に一度しか、口にすることがなかった。
バタークリームでできたバラ。
本当にきれいだった。
バラよりもバラらしかった。
アラザンという、銀色の粒が、水滴のようにのっていましたね。
まさに、その色。
小学校に咲いているのだから、本当は取ってはいけない。
でも、毎年そう思いながら、私はこっそり切ってくる。
学校なんて、一番似合いそうもないあなたのために。
病院というには、あまりにみすぼらしい建物。
その最上階に、あなたはいます。
「ここには、変わった病院なんだよ。」
あなたは、微笑んで教えてくれます。
医者は一階の診療室に、たまにいます。
でも、あの人達を責めるわけにはいきません。
自分の病院の仕事のかたわら、ここに来て、
ただ働きで患者を診ているのですから。
そう、あなたのいる病院は、病院と言ってはいけないかもしれない。
死にそうな人間を、路上に置き去りにしないだけ。
「としこさんは、そういうけどね。
屋根があって、落ち着いて寝られるのがどんなにありがたいか。
僕はそれだけで十分さ。
ほとんど目が見えないのも、いいもんだね。
としこさんが嘆くほど、汚くはないよ。」
心ある人々の寄付で、あなたの生活は成り立っている。
シーツも、パジャマも。
毎日のごはんも。
「ありがたいよね。
そのうち死んでいく僕に、家族でもないのに、こうやってお金を出してくれる人がいる。
その人たちのことを、いつも考えているんだよ。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてかもしれない。」
そんなあなたに会いたくて、
私はこっそりバラを切って、あなたに持ってくる。
実は、私はあなたを十年以上前から知っている。
銀座でトミーと言ったら、あそこで働く人は誰もが知っていた。
肩に飛べないカラスを乗せたあなたを。
本当にきれいな男の子だった。
浮浪者なのに、不思議に輝いていた。
夜になってシャッターを下ろした店の軒先で、トミーは寝る。
膝をかかえて、うずくまって。
トミーにいたずらしようもんなら、カラスが襲ってくる。
したり顔に話す奴がたくさんいた。
本当かどうか知らない。
あなたにバラを持ってくるのは、きれいなものが大好きなあなただったから。
トミーの魔法、あの頃、みんなそう言っていた。
「ショーウインドウの、あのバッグ、もう少し斜めに置いたほうが、きれいに見えると思います。」
「傘立ては、向かって右に。できるなら、明るい緑の布か何かを巻きつけて。」
そんなメモが、入口のドアに差し込まれている。
あるいはシャッターの下に。
メモの最後に、さっと書いたカラスの絵。
わけのわからないそのメモを、破り捨てる店主がほとんどだった。
最初は。
しかし、素直にその助言に従うと、店の雰囲気が変わった。
だれだ、あのメモは。
みんながそう思った。
そのうちに、トミーではないかと思うようになった。
私の店にもトミーは来てくれた。
店のウインドーに寄りかかり、コツコツとガラスをたたく。
私がそちらを見ると、ライトを指差した。
「もっと暗く」そんな手の動きをした。
私は、すこしだけ暗くする。
外からしばらく眺めていたトミーは、頷いて、私に会釈した。
肩に、小さなカラスをのせているトミー。
白いシャツには、少し黄ばんだレースがついている。
黒と白。
本当に不思議な光景だった。
あの時、私は急いで店から出た。
「ありがとうございます。」
心から、私はトミーに礼を言った。
ふたりで、外から私の店を眺めた。
「ねえ、きれいでしょう。
すこうし暗くするほうが、いいと思うんです。」
トミーは小さな声でそう言った。
あの頃と、彼は変わらない。
背中に、カラスがいないだけ。
窓の外で、カア、とカラスが鳴いた。