Novel(百物語)
02ten

隠れていた木

「ありがとうございます。お気をつけて。」
店主の声を背中に受けて、外に出る。
その言葉が、私を守ってくれるかどうかは知らないが、幼い頃、母親に「いってらっしゃい」と見送られた朝を思い出す。

店の扉を開け、まっすぐ歩いて行けば、私の勤務先だ。
約四百五十歩目に、私の好きな木が左手に顔を出す。
思わぬところに、木は隠れている。
小さな家が取り壊されて、駐車場になったとたん、一本の木が見えた。
嬉しかった。
東京の真ん中のオフィス街に、見上げるような木が出てくるなんて。

葉は深い緑色で、全体的には地味な木だ。
何の木か知らない。
けやき、松、楠、柳。そのどれでもない。
つまり、私が名前を知らない木だ。
ドングリのなる木かもしれないと、私は思っている。
店の帰りに、その木を眺めて、私は午後の仕事に戻る。
店主と、たくさんおしゃべりしてくる日もある。
お客が珍しくたくさんいて、黙ってご飯を食べてくる日もある。
おしゃべりした日は、ちらっと木を見る。
黙ってきた日は、ゆっくり歩いて木をじっくり眺める。

台風の日は、翌日が心配だった。
枝が折れているのではないか、と。
わざわざ早起きして会社に行った。
回り道をして、木を見た。
大丈夫だった。
水をいっぱいに吸って、いつもより元気そうに見えた。

二階建の古い家に、その木は、寄り添うように立っている。
窓から手を伸ばせば、枝に届くような気がする。
いいなあ。
私はそう思うのに、昼間、その家の窓があいているところを見たことがない。
雨戸が閉まっていて、家と木は、互いに並んでいるだけだ。
あの家の人は、あの木が嫌いなんだろうか。
以前からあるから、しょうがないと思っているのだろうか。
もったいない。
その家の玄関で、「すみません」とお願いして、あの木をもらってきたくなる。
猫の子と違い、抱いて帰るわけにはいかない。
悔しい。

てっぺんの木の葉は、空高くゆれている。
低いビルに囲まれて、でも、空に目をやれば、たっぷりの空。
家が建っている小さな地面の水を吸い上げて、あのてっぺんの葉まで運んでいる。
根は、案外隣のビルの敷地まで行っているのかもしれない。
隣だの、他人の家だのという境界線を飛び越えて、あの木は、根を広げ、枝を広げている。
私は、吸い上げられていく水になる。
不思議な気持ち。
昼ご飯を食べに行く店があの家だったら、最高だろうな。
私は想像する。
ご飯を食べ終わって、お茶とあんみつでゆっくりしたら、二階の階段を下りていく。
降りる前に、もう一度、窓から見える木を眺める。
ちょっと前まで若葉だったのに、もうすっかり濃くなった。
「お気をつけて」
店主の声が聞こえる。