Novel(百物語)
02ten

おむすび

だれも信じてくれないだろうな、と公子は思う。
以前、娘に話したら、笑われた。
「おかあさんたら。ほんと、話つくるのがうまいんだから。」
そうだろうなあ。
走ってきて、ジャンプして、二階の手すりにつかまるなんて。
そんな奴がいるなんて、信じられないほうが当たり前かもしれない。
でも、本当だった。

「なんかない?」
窓の外の鉄の手すりにつかまり、懸垂をしながら、坂本くんは、いつも聞くのだった。
坂本くんの「なんかない?」というのは、もちろん食べ物のことだった。
坂本くんは、ハイジャンプの選手で、いつもおなかをすかせていた。
「おむすびならあるよ」
公子がそういうと、坂本くんは嬉しそうな顔をした。
「もらっていい?」
仕方なく、公子もうなずく。
坂本くんは、何個おむすびを持っていくつもりなんだろう。
公子の家は兼業農家で、家に、米だけはふんだんにある。
遠く離れた大学に行った娘を案じて、父親は、しょっちゅう米を送ってくる。
「金がなくても、食いもんさえあれば、どうにかなる」
父親はいつもそう言っていた。
送られてくる米の量が、はんぱではない。
三十キロ袋二個を、若い娘がどうやって食べろというのか。
ダイエットなんかしていないが、それでも余る。
毎回五合は炊いて、ほしい下宿生にはあげていた。
伝え聞いて、坂本くんみたいな男が、下宿のまわりをうろうろする。
公子の父親は、娘の身を案じて、かえって危ないことをしたことになる。
食料を確保した安堵感からか、坂本くんの懸垂はかろやかだった。
十回懸垂を十回繰り返すと、坂本くんの姿は窓から消えた。
すぐに、ドアがノックされる。
いくらなんでも、早すぎる、おむすびをビニール袋に入れながら、公子はそう思った。
「はむちゃあん」
またか。
今度は坂本くんではない。
「米をくださあい」
「はむちゃあん、来週遊びに行きましょう。だれか、女の子つれておいでね。」
ドアを開けると、にこにこ顔の坂本くんの後ろに、隣の男子寮の棟に住む、おんなじゼミの男が立っている。
こいつのおかげで、公子はみんなからはむちゃんと呼ばれる羽目になった。
今なら、ハムスターを連想して、かわいいといわれるかもしれない。
しかし、三十年以上も前の話である。
「ハム?」
と訊かれるのが関の山だった。
公子の公の字を分解すると、片仮名のハムだ。
でも、絶対、あいつはあたしの立派な腕を見て、このあだ名をつけたに違いない。
あのとき、ノースリーブのワンピースなんか、着なきゃよかった。
初めての寮祭で、かっこつけたからだ。
あの頃は、まだうきうきしていた。
大学に入った。
それも共学だ。
親は心配したが、公子は自分の人生が開けるような予感がした。
彼とまではいかなくても、男友達に囲まれる自分を。
まさか、米につられて、男どもが寄ってくるとは。
かわいいノースリーブのワンピースを、誰も褒めてくれることはなく、はむちゃんと言うあだ名だけが付いてしまった。
「はむちゃんはいいよねえ。人気があって。」
真顔で言う女友達もいる。
「彼氏なんかより、いっしょに騒げる男友達のほうがいいじゃん」
よくないよ。
「はむちゃんはゴムまりみたいで、女の子らしくていいね」
同性の友達に褒められても、公子はうれしくもなんともない。

米泥棒のあいつとは、長い付き合いになった。
就職してみたら、おんなじ会社だった。
あいつは意外に律儀で、公子を、はむちゃんとみなに紹介し、公子はすんなりと会社に溶け込んだ。
おかげで、営業もやりやすかった。
米泥棒の上司はあいつとは大違いで、びっくりするほどかっこよかった。
最初に会ったときから、公子をはむちゃんと呼んだが、ちっともいやではなかった。
数年経って、結婚を申し込まれた時、なにかの間違いではないかと思ったものだ。
今でも信じられない。

「やっぱお母さんに似ればよかったなあ」
部活から帰ってきた娘が言う。
帰宅したと思ったら、着替えもせず、もう食べている。
テーブルの上には、おむすびが山のようにある。
相変わらず、公子はおむすびを作る。
娘のよく食べること。
見ていると気持がいい。
お父さん、ありがとね。
いまだに米を送ってくれる実家の父に、公子は感謝する。

「何が?」
娘の言葉が嬉しくて、公子は訊く。
娘は、お父さんに似て背が高いから、バスケットボールに熱中した。
公子も夫が好きだが、娘は小さいときから、お父さんが大好きだ。
お父さんに似ていると言われるたびに、娘は喜ぶ。
失礼な、と思う反面、公子もそれが誇らしい。
頭もよくて、性格もよくて、うちのおとうさんは最高だ。
「おとうさん、ほら、筋肉ないじゃん。
すらっとしてるけど、考えてみれば、ひょろひょろなんだよね。
あたしも、いい筋肉つかないんだよね。
鍛えてるんだけど。
やっぱ、遺伝するのかな。
おかあさんに似ればよかった。
おかあさんの腕、かっこいいもんね」

坂本くんの腕は、たしか筋肉、すごかったはずだ。
懸垂ができるんだから。思い出そうとするが、思い出せない。
「なんかある?」
出てくるのは、のんきな坂本くんの声だけだった。