Novel(百物語)
02ten

お見舞いバケツ

会社を休んだ。
風邪をひいたらしい。
そういえば、昨日から体調はおかしかった。
まだ熱は出ていないが、身体中がガクガクする。
会社に電話し、部下にメールで指示を出した。
次に、一日寝たままで過ごせるように準備をした。
ティッシュペーパーの箱と、お見舞いバケツと名付けている大きなゴミ箱をベッドのそばに置く。
いつもは台所に置いているワゴンに、電動ポットと食べ物や飲み物を並べる。
買い置きのポカリスエット、フリーズドライの雑炊やスープ。
チョコレートや飴も並べた。
洗面所に行き、タオルも持ってきて、ワゴンの中段に置いた。
元気のいい時ならあっという間に終わりそうなことが、やたらに時間がかかる。
寝間着の上に中綿入りのガウンを羽織り、よろよろとワゴンを押してベッドの前に据え置く。
これで準備完了だ。
やれやれと思いながらベッドに入る。
気付かないうちに眠りに引き込まれていたらしい。
のどが渇いて目が覚めた。
身体を横にして手を伸ばし、ペットボトルの飲料を口にする。
起き上がって飲めばいいのだが、そこまでの力すらわかない。
時々ペットボトルをベッドに置きながら息をつき、ひたすら飲んだ。
のどのあたりが潤うのが、わかるような気がする。
横向きの姿勢で身体をくの字にしたまま、目の前にある、背の高い筒形のアルミのバケツを眺めた。
ゴミ箱として使っているが、丈の高い花を買ったときは、花瓶に早変わりをする便利な代物だ。
つい、この前までは、グラジオラスが入っていた。
私は体が丈夫らしく、数年に一度しか風邪をひかない。
厳密に言えば、軽い風邪をひいても、気が付かないだけかもしれない。
そんな私でも、見舞ってくれた人がいた。

このバケツにきれいな吹き流しと風船をつけ、中にたくさんの見舞いの品を入れて届けてくれた男がいた。
名前を思い出せないのは、風邪をひいているからだろうか。
生きて入れば、いくつになったのだろう。
背の高い男で、キリンというあだ名だった。
オフィスに入ると、パソコンの森の向こうから、あいつのキリンのような姿が見えたものだった。
本当に大きかったが、それは身長だけで、体重は私のほうが重かったに違いない。
「何キロあるんですか」
真面目に聞かれて、怒ったことがある。
「女に聞くものじゃありません」
「先輩は女ですかねえ」
キリンは、心底不思議そうな顔をした。
たしかに、キリンのほうが私よりも細やかな気遣いができた。
しかし、小学生の母親のようなことを私にしつこく言うのには困った。
「先輩は、どうして、コンビニの袋をそこらへんに置きっぱなしにするんですか。」
「あとで片づけるから」
「あとではだめです、今捨てないと。
だから、散らかるんですよ。」
お前は小学生か、今頃になって躾をされていると、上司から私が笑われる始末だった。
珍しく私が会社を休んだ時に、見舞ってくれたのはキリンだ。
寝ている私の枕元にある携帯に、キリンからのメールが届いた。
仕事上の失敗かと最初、私は思った。
入社して5年も経てば、もう新人ではないが、仕事をうまくこなすようになるとは限らない。
キリンの失敗を、私は身近で何度見たかわからない。
そのあと、どれだけ尻拭いさせられたかわからない。
「迷惑をかけました」とキリンは礼儀正しく詫びるのだが、それよりは早く仕事を覚えてくれと私は冷たかった。
「また失敗しました。先輩がいないと、困ります」という泣き言に違いない。
そう思ってメールを読むと、予想外の文面だった。
「ドアの外にお見舞いを置きました。
頑張りすぎるから心配です。
ゆっくり休んでください。」
私は驚いて起き上がり、玄関に走った。
具合が悪いのを忘れていたから、ドアを開けた時はふらふらした。
筒形のアルミのバケツが、ドアの外に置いてあった。
取手に、風船がくくりつけてある。
淡い緑と黄色の吹き流しもついていて、「元気になあれ」と書いてある。
風で飛んでいかないように、台所の窓格子に結び付けてあった。
足先が冷えてきて、私はいったん部屋に戻り、靴下とダウンをはおった。
マンション風の名前だが、外観だけが洒落たアパートで吹きさらしの外廊下は寒かった。
バケツは意外に重かった。
何が入っているんだろうと私は不思議に思った。
出てくる、出てくる。
よくもまあ、詰め込んだものだと私はあきれた。
うるおいティッシュにカップスープ
オロナミンC、アセロラジュース
レトルトのお粥二種
みかん三個
小さなヨーグルト
チョコレート
私がいつも噛んでいるガムまであった。
よほど空腹だったらしく、見舞いの品を私はあっという間に食べてしまった。
ジュースもドリンク剤も、全部飲んだ。
残っているのは、ティッシュとガムとあと少々。
ゴミは、全部バケツに入れた。
ゴミ箱までプレゼントしてくれるところが、キリンらしかった。
おなかが落ち着くと、私は思いを巡らした。
昼休みに来たのだろうか、免許取りたてのバイク運転は怖くなかったのだろうか。
母親のように心配している自分に気づき、私は笑った。
若いとはいえ、キリンは二十代も後半だ。
風邪をひいて、寝込んでしまった自分の心配が先だった。
キリンが生きていたあの頃、私はまだ若かった。
寝込んだとはいえ、玄関まで走るくらいの元気はあった。

水分を補給した後、ぐったりとまたベッドに横になる。
以前、キリンが見舞いにくれたバケツを見ていると、あのセリフを思い出す。
「頑張りすぎるから心配です。
ゆっくり休んでください」
このセリフを、キリンに返してやりたかった。
私はあの当時、人事異動で部署を何度も変わった。
キリンと話すことは少なくなったが、同じビルの中だから、出会うことはあった。
キリンは背が高いから、たくさんの社員がいても見つけやすいのだ。
しばらくは、年賀状のやり取りもあったが、それも途絶えた。
その後、私は転勤で10年近く本社を離れた。
本社に戻ってしばらくした後、以前の部署の人たちが歓迎会の席を設けてくれたことがあった。
その時、ふとキリンの本名を思い出した。
「どうしてる?今、どこの部署?」
そう聞くと、
「あれっ、知らなかったんですか?」
と言われ、キリンが死んだことをその時知った。
自分のために開いてくれた会だったせいもあり、三次会まで楽しく付き合った。
しかし、どこか心が沈んでいたのを憶えている。
キリンの墓を誰も知らない。
葬式も密葬で、誰も出席しなかったのだという。
キリンのお見舞いバケツのおかげで、私は具合が悪くなった時のための買い置きをするようになった。
キリンがそっと私に教えてくれたようなものだ。
非常事態はほとんどなかったが、それでもいざというときは助かった。
ひとりで暮らしていると、外出できない状態の時、本当に大変なことになるものだ。
キリンは私のことを好きでいてくれたのだろうか。
小学生の母親のような気持ちで、注意していただけなのだろうか。
私自身、キリンに対してあの当時、どんな思いをもっていたのか、定かではない。
ただ、見舞ってくれた時は本当に嬉しかった。
キリンの心遣いで、風邪も治ってしまったような気がしたものだ。
その気持ちを、単なるお礼などではなく、もっと強く伝えればよかったと今は思う。
同じ部署の先輩として厳しすぎる態度をとっていた私は、あの時、自分の気持ちを隠したのではなかったろうか。
「元気になあれ」と書いてあった吹き流しは、破れたから捨ててしまった。
ただ、バケツはずっと使っている。
ゴミ箱にしているのは申し訳ないが、時々、花瓶として使うのはそのせいかもしれない。
キリンがいなくなるとは、思っていなかった。
会社のどこかで会って、笑って挨拶できると思っていた。
私より若いのだから、いつでも会えると頭から信じていた。
ベッドに横たわり、私はティッシュペーパーの箱に手を伸ばす。
鼻をかんで、ゴミ箱代わりのバケツに紙くずを捨てる。
熱があるせいか、腕が布団の外に出ていても気持ちがいい。
今の私は、風邪でお見舞いしてくれるような人などいない。
バケツだけが私のそばにある。