Novel(百物語)
02ten

露天風呂

店主様
先日は、茶葉を送っていただき、ありがとうございました。
叔母の家に持っていくといったこと、覚えていてくださったのですね。
気の利いたお菓子までそえてあり、叔母はとても喜んでくれました。

本当に久しぶりでした。
考えてみれば、飛行機の乗り換え時間に、行こうと思えば行ける距離だったのです。
空港に近い、山の中。
小さな温泉旅館ですが、叔母好みの、なかなか風情のあるところです。
近頃は、空港から温泉バスというものも走っており、叔母の旅館まで、あっという間に着きました。

仕事で、あのあたりには、何度も行っているのです。
調べさえすれば、空港に近いこともわかったはずです。
しかし、私の頭の中では、叔母の旅館は、山奥の川沿いでした。
学生時代に遊びに行ったきりの、バスを乗り継いで、そのあと、一時間歩いた場所でした。
その頃は、まだ、空港はできていなかったのです。

露天風呂に入ってきました。
客は私ひとりでした。
もみじは色づき、枝に、湯気があたっています。
よく枯れないものだと、不思議に思いました。
少し離れた所に立つ銀杏の木が、はらはらと、黄葉した葉をおとしていきます。
露天風呂の周りは、なぜか、椎の木で、風呂の湯にドングリが浮いていました。
銀杏の木に、私は覚えがありました。
三十年も経つと、木も大きくなるものですね。
銀杏は、なんだか窮屈そうでした。

「ねえさん、あの脱衣場、いいですね」
そういうと、叔母はにっこり笑いました。
「ひろしさんは、以前もそういったんですよ。
おぼえていないの?
うちの人が、機嫌悪くしてね。
あいつはなぜ風呂をほめんのかって。」

叔母なのに、ねえさんと呼ぶのには、訳がありました。
叔母はかなり若い時分に、私の叔父と結婚したのです。
そうです。
叔父のほうが、私の身内です。
それなのに、いまとなっては、叔母のほうが私の身内、いや、家族のような気すらします。

最初に会ったとき、私と、さほど年の変わらない叔母を何と呼ぼうか、迷いました。
「おばさんなんてかわいそうだ、ねえさんがいい」
叔父はそう言いました。
名前でよんでも、よかったはずです。
それは嫌だったのでしょう。
何となくわかります。
ねえさんの名前を呼ぶのは、叔父だけでした。
彼の声の響きには、私でも気付く、優しさがありました。

叔父は、もう旅館にはいません。
体を壊して、病院に入っていました。
三年前に、亡くなりました。
ねえさんが、旅館を切り盛りしています。
えらいと思います。
苦しいこともあったはずです。
手伝うことはないだろうか、
そう考えたこともありました。
でも、動けませんでした。
ねえさんを手伝ったら、人生のすべてを使ってしまう、そう思ったからです。
あんな山奥で、小さな旅館の仕事をするのは、なんとなくためらいもありました。

私は弱虫だったのです。
あの頃は、結婚もしていなかったのに。

人生は、戻れないものだと思います。
露天風呂にはいって、立ち上る湯気を眺めていました。
木々の間から夕日が差して、そこだけ、湯気と光が重なります。
夕日は直線、湯気はなんとも言えない柔らかい動きです。
長いこと、風呂につかっていました。
露天ぶろはいいものです。
決して、のぼせることはありません。