映る
砂が走る
砂丘の上を
かすかな煙が這っていくかのように
風が強く吹く
見渡す限り、砂の煙が走る
水平線の向こう
太陽の光が
斜線となって何十も走る
砂と空の間にあるのは
冬の海
砂が走る音が聞こえる
かすかに
かすかに
浜は大きく弧を描く
白く波立つ海の向こうに
遠くの浜が見える
家と木々
うす蒼いシルエットで
そこに、雲の隙間からの光線が差す
コンビニの前に、田
畦に枯れた葦が短く残っている
風が吹く
小さなさざなみ
ちりめんのような
風が止むと、田んぼの水面に
風景が現れる
青いトタンの屋根
細い木
空
目を上げれば
ああ
実在する青いトタンの屋根
細い木
こういうタッチの油絵を知っている。
いや、こういう水たまりにうつるものを知っているから、あの油絵を思い出すのだ。
水たまりに映るものに、心惹かれる。
実在の風景よりも。
そういう癖がある。
若いころ、小説を書いていた。
将来は、小説家だと勝手に決め込んでいた。
なんのことはない。
仕事が辛いとき、自分には別の才能があるんだと、慰めているにすぎなかった。
少しずつ気づいていたが、認めたくはなかった。
会社が終わると、ろくに付き合いもせず、部屋に戻り、原稿用紙に文字を埋めていく毎日だった。
パソコンどころか、ワープロもない時代だ。
今の若い人には、明治時代と変わりがないかもしれない。
樹木、という題の小説を書いたことがある。
誰にも見せたことがない。
その前に書いた小説を、知り合いを介して、高名な文学者にみてもらった。
彼からは、何の感想もなかった。
その代わりと言っていいのかわからないが、ある詩人からの感想が、風の便りに聞こえてきた。
酷評だった。
意志など、もろいものだと、その時に分かった。
一生の仕事、などと意気ごんでいたのだが、その気持ちが急速に薄らいでいくのが、よくわかった。
他人のひと言に影響されるくらいの意志なのか、と叱咤激励してみるのだが、うまくいかなかった。
そのころ、会社では、大切な仕事を、少しづつ任されてきていた。
一生懸命頑張れば、成果は表れた。
今度は、仕事を自分への言い訳にした。
才能はないんだ。
そんな時間があったら、仕事に直結する知識を増やそう。
会社の同僚と、もっと付き合おう。
そうやって、気がついてみたら、小説は読むものとなっていた。
樹木という小説で、私は、ガラスに映る、一本の木を追い求める男を描いた。
実在しない木だ。
夕刻、部屋が暗くなり、電気をつける。
ガラス窓に映る、一本の木。
本来なら、私が映るはずのガラス窓に。
なぜ、木が映るんだ、と
小説の中の男は、必死になる。
自分の分身の木を、探し回る。
なぜ、あの頃は、そのことがそんなに不思議だったのだろう。
ガラスに映る自分の姿が、人間でなくて、木であることが。
そういうことは、あるんだよ。
あの頃の私に、教えてやりたい。
今の私は、木どころか、何も映っていないかもしれない。
それが、妙に心地よい。
水たまりに映る、空や屋根。
覗き込んでいる私が、映らなくてもいいではないか。
若い店員が、やってきて、心配そうにのぞきこむ。
「大丈夫ですか。
気分が悪いんじゃないかと思って。」
コンビニの駐車場に、長居しすぎてしまった。
すまないな。
若者に心配させてしまった。
もちろん、言葉とは裏腹に、迷惑そのものといった顔をしていたが。
それでいいんだよ。
一応、社会的な言葉を使えるだけ、えらい。
さあ、出発することにしよう。