Novel(百物語)
02ten

いちごと織部

春の夕方。
いつまでも、なんだか明るくて穏やかな夕暮れ。
ふと、思い出す。
高校を卒業するころだった。
母親とけんかして、家を飛び出した。
財布は持って出たのだから、少しは冷静だったのだろう。
ちょっとした行き違い。
互いに謝ることもせず、意地の張り合い。
そんなものだったにちがいない。

家を出て、しばらく歩くと、信じられないような急な下り坂。
遠く眼下に、線路が続くのが見える。
坂というよりは、急斜面。
毎回、足がすくむ。
坂の真ん中に階段があって、そこしか人は通れない。
階段の脇には、鉄棒の手すりがついている。

その石段を降りて、線路沿いに歩いた。
春の夕暮れが完全に消え去るまで、何も考えず、歩いた。
午後の名残りの暖かさが、大気のあちこちにまだ残っている。
歩いているうちに、いつのまにか、腹立たしさも苛立ちも消えていた。
店先に裸電球をぶら下げた店で、苺を買った。
二箱買った。
それを大切に持って、家に帰った。

母親は、玄関に飛んで出てきた。
「心配したのよ」
「ごめんなさい」
素直に言葉が出た。
一緒に暮らして、些細なことでけんかする。
親をうっとおしく思う。
子供時代の最後の出来事だった。
家を離れると、両親とはけんかしなくなった。
あんな気持ちで苺を買ったのは、最初で最後だった。

織部のいい器が、あの店にある。
鈴木さんの織部、店主はそう言う。
深い緑。
陰影があって、私が緑の中にいるかのようだ。
何をこの中に盛ろうか。
お茶を飲みながら考える。

「苺はいかがですか」
店主は言う。
「いちごですか?」
「そう、生クリームを軽くあわ立てて、ここに入れて。
そのうえに、たくさんいちごを散らすのもいいですね」

私は目をつぶる。
母を思う。
おかあさん、もうすぐ春です。