Novel(百物語)
02ten

匍匐前進

高木さんが、いらしてくださった。
おいしそうに昼ごはんを召し上がってくださる。
「近かったら、毎日来るのにねえ」
「ひとり暮らしは、野菜をだめにするから、ここでいろいろ食べられるのは、うれしくてねえ」

お昼休みがすぎると、高木さんのほかは誰もいなくなった。
「ほふくぜんしんって言葉、知ってます?」
店主に尋ねる高木さん自身、このごろ耳にしない言葉だった。
それなのに、孫娘が毎日やっているとは。
当人は、その動作が、匍匐前進というとは知らないらしい。

近頃の高校生で、携帯電話を持ち歩かない子がいたら、よほどの変わり者に違いない。
「クラブ活動中は禁止って、そりゃあたりまえですよねえ。
それですら、あの子達は不満らしいの」
一応、先生の言いつけは聞いているが、クラブが終わったとたん、メールのやり取りは始まる。
「あの子、バスケットボール部なんですって」
バスケ部だから、体育館の端に、みんなの携帯が並んでいる。
お疲れさま、の掛け声が終わるやいなや、
みんな、携帯電話に走り寄る。

そこからだ、世にも珍妙な光景が出現するのは。
体育館の床を、ジャージ姿の高校生が匍匐前進する。
携帯電話を握りしめ、耳に当てながら。
座り込んでメールを打つ子。
匍匐前進して、メールを送信する子。

「あの子に言わせると、膝と肘歩きなんですって」
そういう動きを、ほふくぜんしん、と教えてあげたらしい。
「おばあちゃん、物知りだね」
高木さんのお孫さんは、素直に驚いた。
先生は怒らないのかと、高木さんはたずねた。
高木さんの時代なら、先生が黙っていはしない。
「先生は、注意するよ。見苦しいって」
ところが、ある日、先生に奥さんから電話があった。
体育館の端に立って電話していたはずの先生が、突然、匍匐前進を始めた。

「もう、先生の威厳もなにもあったもんじゃありませんよねえ」
体育館の中は、電波が極端に弱いらしい。
先生の奥さんが、そんなことを知っているはずもない。
緊急電話なのかもしれないが、まさか、そのために夫が匍匐前進しているとは。

実は私も匍匐前進している。
以前なら、当たり前の動作。
雑巾がけだ。
しかし、今日だけは高木さんには言えなかった。