Novel(百物語)
02ten

さかなは、しゃべらないんだ

ひどい会議だった。

大筋では、こちらの言い分は通ったし、金額も予想以上だった。
部長は笑顔で、だから他の連中も機嫌がいい。
落ち込んでいるのは彼女だけ。
でも、きっと誰にもわからなかったに違いない。
もともと表情に乏しいから。

クライアント側はおおむね紳士だった。
ひとりを除いて。
あいつのせいで。
そう思うと、彼女の胸は今もうずく。
コマーシャルのアウトラインを説明したのは、彼女だった。
これまでの実績の評価、彼女の容姿、話術の巧みさ。
だれもが、笑顔で聞いてくれた。
これでプレゼンも終わりと思った、その瞬間、あいつが口をはさんだ。

「魚はしゃべらないんだよね、知ってる?
ワンワンがバウバウだったっけ。
日本語と英語がちがうって言ったって、犬は吠えるんだよ。
ちょっと聞くけどさ、あんたが描いた魚は、もともとなんて鳴いていたんだい?」

あの時は一瞬ぐっとつまった。
なんとまとめたか、憶えていない。
十五年もこの業界でがんばっているのだから、どうにか切り抜ける術は知っている。

「お疲れ。」
「ちょっと一杯どう?」
同僚や上司の言葉を笑顔で受け流し、彼女はデスクに戻る。
仕事がたまっている。
今日も残業だ。
日付が変わらないうちに帰らなくなって、もう一週間は過ぎている。
昨日はホテルに泊まった。
旅行を我慢すればいい。
旅先は都内だ、そう割り切って楽しむようになっていた。

「気にしなくていいんじゃない?」
同期の柴田が顔を出した。
まだ仕事なのか、コンビニの袋を提げている。
「ひとこと言いたいおやじなんだろ、きっと。」
タバコとチョコを置いていった。

「受注したから大丈夫」
柴田にはそういった。
あのクライアントは私の仕事に満足している。
たしかにそのとおりだ。
ただ、あいつにはばれた、そう思った。
私のやっつけ仕事が。

やっつけだろうが、業界ではレベルは高い。それだけは自信がある。
しかし、自分としては、高いレベルではない。
言い訳はいくらでもいえる。

「おまえ、ちょっと仕事しすぎだよ。」
柴田は心配してくれた。
「みんな、頼りすぎだよね。」
「まあ、私以上はいないっていうことかしら。」
冗談に紛らわしたが、柴田でさえもうるさかった。
ひとりで今日の失敗を泣きたかった。
悔しかったから、あの嫌味な男に直接尋ねることにした。
ひと晩過ぎたら、涙は消えた。
彼女の長所は忘れっぽいところだ。
当人は長所と思っているが、周りは短所とみなしているのが残念だ。

「たしかにそのとおりですねえ、考えたことありませんでした。
魚って無口なんですね。」
気軽に会ってくれたあの男に、彼女は素直に言った。
「鳴かないから、鳴き声もない。
道理で、魚のキャラクターって案外少ないんですね。」
「そう感心されても、かえって照れるね。
うるさい男は、素直に認められるのが不得意です。」
男は笑顔で答えた。
「昨日こそ、そういう表情でおっしゃってくださればいいのに。
恐ろしい顔で指摘されるから、あたしは殺人鬼に会った気分でした。」
「それで、今日はどういうご用件で?
まさか、殺しに来たわけではないでしょう?
おたくも保険金殺人くらいしそうな迫力でしたよ。」
「魚のことを伺いに来ました。
たくさんご存知みたいだから。
昨夜よく考えましたら、どうもあのご意見は、魚のことは俺に聞け、ということではないかと。」

あの男に近づいたのは、最初は悔しさ。
次は、これまでよりいい仕事をしてみせるという欲。
そして最後は?

デスクで相変わらず残業を続けながら、彼女は自分に尋ねる。
あのコマーシャルは、いい出来に仕上がった。
賞もたくさん取った。
なにより彼女自身が満足できる仕事になった。
やっぱり私には力があるんだと、彼女は自信を持つ。
それもあの男のおかげだった。
コマーシャルのナレーションと同じくらい、あの男の声が彼女の耳に残る。
毎日毎日、あいつは生まれ育った海のことを私に話してくれた。

「お互い、時間のない身だから、昼飯食いながら話します。」
あいつから来たメールを読んだとき、ランチの誘いかと、一瞬思った。
「俺はいつもひとりで食うから関係ないが、
あんたにはしばらく迷惑かけることになると思う。
運転中のときは言ってください。」
なんだ、携帯か。
なぜかわからないが、ちょっとがっかりした。
あんなやつとのランチなんて、考えるだけでおぞましいはずなのに。
一度もランチなんて機会はなかった。
一回くらいあってもよかったのに。
いや、せっかくのご飯に、毒舌の香辛料がかかってはいやだ。

彼女が業界では有名な賞をとったことを、クライアントが知らないわけがない。
あいつからは、なんにも反応はなかった。
たしかに、資料提供者なんだろうね。
それだけでじゅうぶん。
自分に言い聞かせる。
あいつのことは忘れるが、あいつが潜った海は忘れない。
あいつが会った魚も忘れない。そう、魚はしゃべらないんです。
絶対またいいもの作ってみせる。

「はい、須賀です。」
「めしどき?じゃあ話すよ。
質問は最後に。
アクアラングを着けて潜ったことはない。
だから、息が続くまで。
海女さんといっしょ。
器械の音もしない。
自分の吐く息が、泡になって出るだけ。
魚は静かだよ。
陸上の生き物みたいにうるさくないんだ。
海の中は音がない。
死後の世界ってこれかもしれない、そう思うようになった。
上を見上げると、明るいんだよ。
光があふれている。
ガキのときから海にいるから、海の水はぜったい飲まない。
肺に水を入れたらおしまいだから。
どうしようもなくなったら、首をしめる。
うそだよ。
まじめにとるなよ。
つまり、失神するように自分でコントロールするんだ。
これはうそじゃない。ほんとだ。
どうやって、と言われたら困るんだが、いつのまにかそのやり方を覚えていたんだ。
酸欠で気が遠くなっていく感じは、案外気持がいい。
気を失っていく中で、頭の上の光を感じるんだ。

海の中はね、水温が突然ちがってくる。
冷たいところ、あったかいところ。
光が差すところはあったかい。
裸で泳いでいるから、水温の変化はすぐにわかる。
泳いでいると、急にぞっとするくらい水が冷たくなるんだ。
下を見ると、底が見えない。

魚は泳ぐ層がちがうんだよ。
浅いところにいるやつ、深いところにいるやつ。
ガキは潜って、魚をとる。
魚釣りなんてことはしない。
銛をもって潜るのさ。
息が続くまで潜って、魚を追いかけるんだ。
取った魚で、そいつがどのくらいの深さまで潜ったか、すぐわかる。
潜れないやつは、浅いところにいるはこふぐばっかりさ。
俺、思うんだけど、鳥も案外、飛ぶ高さはそれぞれちがうんじゃないのかい?

俺はイカを刺すのがうまかった。
イカは速いんだ。
いま、そいつがいる場所と、銛が飛んだときにどのあたりにいるか、それを一瞬で判断しなくちゃならない。
ものすごく楽しいんだよ。
刺したら、もう興味はない。
獲ったイカは、友だちにやった。

波が荒くても泳いでいたよ。
潜っていると言ったほうがいいかな。
確かに、波は荒い。
でも、いったん潜ってしまうと、海は静かなんだ。
裸で泳ぐから、寒くなると海に入れない。
冬になると友達は釣りをしていたけど、俺は嫌いだった。
待つなんて、冗談じゃない。
おれは銛をもって魚を追いかけるほうが好きだね。

海のそばに、小さな島がいくつかあるんだ。
島というよりは岩山だ。
そこによじ登って、海に飛び込む。
どこまで高く登れるかで、えらさが決まるんだ。
なぜ、飛び込むか?
答えは簡単。
登ることはできても、下りられないから。
高くなればなるほど、勢いをつけて飛び込まないと、海面近くの岩にぶつかってしまう。
こわいんだ。
頂上までのぼっても、飛び込めないで一時間近く泣いているやつもいた。
誰も助けられない。
だって、下りられないんだから、飛び込むしかないんだ。
四メートルくらいかなあ。
そんな遊びばかりしていたよ。
男って単純なんだ。
サル山のサルといっしょで、誰が一番なのか、なぜか気になるんだ。
序列が決まると男は落ち着くんだぜ。
それにくらべると、女は大変だよなあ。
いったん決まっても次は認めない。
毎回サル山合戦だな。

中学生くらいになると、漁船の手伝いをしていた。
大人が少ないから、体力のある中学生は漁師もあてにしているんだ。
じいさんたちに、知恵では負けても、力はあるからな。
休みの日だけじゃない。
学校がおわると、すぐ出かけるんだ。
イカ釣りなんて夜だからね。

魚っていわれてもねえ。
おさかなさんっていうがらじゃない。
あいつら、いたよな、って感じだよ。
だって俺は海で育ったから。

冬の海はおそろしいんだ。
わめくように風がうなり声をあげる。
波がさわぐ。
いつも思っていたよ。
夏だけ来て海とたわむれるなんて、あいつら何見てるんだって」

毎日、携帯を耳にあてて、あいつの海の話を聞いた。
だいたい三分くらい。
「こんなんでいいのか?」
と聞いておしまい。
「じゃあな」
と電話は切れた。

昼休みの楽しみが、いつまでも続くわけがない。
二週目の水曜日、話が終わると、彼は言った。
「こんなんでいいのか?」
「ありがとう、ものすごく助かった。」
「じゃあな。毎日悪かったな。きちんと昼飯くってたのか?」
「もちろん。」
それだけで終わった。

あいつのことは考えない。
海の水が肺に入るから。
そのかわり、首を絞められたような気分になる。
ちっとも気持ちよくなんかない。
さあ、仕事でもしよう。