Novel(百物語)
02ten

小さな白い花

隣の家と私のうちの間の細長いすきま。
どちらの家も、安普請の木造の家だった。
塀などなく、横板を張った家の壁が両側にそびえる。
そこに立つと、屋根のない家にいるようにも感じるが、足元はただの地面だった。
太陽が真上にこないと、ろくに陽がささない。
そのせいか、地面は少し湿っていて、ところどころ苔が生えていた。
細長い木が一本、隣の家から曲がって伸びている。
枝がなく、か細い物干し棒のようだ。
見上げると、屋根を超えたところで、細長い葉が数枚ゆれていた。
幼い私にとっては、十分に広い場所だった。
隣りの家の壁に寄りかかり、しゃがんでいた。
地面の苔のないところには、細い木を見上げるように。白い小さな花が咲いている。
先生を見上げる生徒みたいに私には思えた。
花が幼稚園の白いブラウスを思い出させたからだ。
お昼時には、木と草に陽が差し、風が吹いた。
小さな白い花を傷つけないよう気をつけながら、木の枝で地面に絵をかいた
陽が差すと、その場所がほっこりあたたまるようで嬉しかった。
おしりが冷たくなっていくのを感じると、私はしぶしぶ立ち上がる。
しゃがむのは不得意だった。
ぺたんと座ると、スカートに草の汁や土がこびりついて、母が悲しそうな顔をする。
家の壁はところどころたわんでいた。
壁の板のささくれで、洋服をやぶったり、腕に引っかき傷を作ることもあった。

軒下には、雨だれがうがつ穴が規則正しく並んでいた。
私のうちと隣のうちの、二軒分。
穴が開いているだけでない。
きちんと小石まで二個ずつ入っていて、不思議だった。
誰が入れているんだろうと入れた人に少し遠慮しながらも、私は小石を取り出した。
自分の宝物を代わりに入れるためだ。
蝉の抜け殻。
赤い実。
グリコのおまけ。
チョコレートの銀紙で作ったお星さま。
ひとつひとつ入れ終わると、ガラスのかけらでふたをする。
緑、すきとおった色、茶色、赤い色。
ガラスもまた、私が見つけた宝物だった。
宝物を宝物でふたをする。
土の奥で赤い実が光る。
ガラス越しに見るともっときれいだった。
誰にもわからないように、ガラスの上からうすく土をかける。
でも、また見たくなって、指で土をとりのぞてみたりもする。
そこに咲いている小さな白い花を入れたこともあった。
暗い土の中、白い花は、ほんとうにきれいだった。
翌日、見に行くと、白い花は小さく縮こまり、何にも入っていない部屋のようだった。
昨日のあの花はどこにいったんだろうと、悲しかった。
小学生になると、白い花が咲くあの場所に足を踏み入れることはなかった。
家の前の道路で、友達とボール遊びをしているときに、取り損ねたボールを探して入る時くらいだろうか。
私もそれなりに活発な女の子になっていたのだ。

小学校の3年生だったろうか。
私があの場所を深く記憶に留めることが起きた。
友達と遊んで帰り、家のそばまで来たときだった。
ひとりの男が私に話しかけてきた。
「林さんの家がこのあたりにあるはずなんだけど」
そんな名前は、聞いたことがなかった。
近くではなくても、このあたりにあったろうかと私は考え込んだ。
男が私をはがいじめにしたのはその時だった。
小学生だったから、単に抑え込まれただけかもしれない。
気が付くと、私は家の前の道路ではなく、隣りの家との間のあの場所に男といた。
私は自分の家の壁に押し付けられ、しゃがんでいた。
男の片手は私の首を絞めつけ、もう片方の手で自分の体を支えていた。
家と家の隙間は、道路からもよく見えるが、たとえ通り過ぎる人がいたとしても、
男と私が何か探し物でもしているように見えたに違いない。
背中を押し付けられている薄い板壁越しに、母が家の中で歩き回っている音が聞こえていた。
ラジオの音も聞こえている。
それなのに、母は私がここで何をされているか知らない。
男の手は大きく、片手でかんたんに私の首をひねり殺すことはできそうだった。
殺されるのかもしれない、私はそう思った。
隣家の側から空に向かって伸びている細い木の先の葉が、相変わらず揺れていた。
空は曇っていた。
男が私の首を締め付ける力は大きく、私は気が遠くなっていた。
ふと、道路で人声がし、私の喉にかかっていた力が失せたと思うと男は去っていった。
私はずるずると地面に座り込んだ。
壁の板のささくれにシャツがひっかかっているのを感じていたが、それどころではなかった。
死ななくてすんだ。
その気持ちだけが頭に浮かんだ。
立ち上がろうとしても、身体が動かない。
私はしばらく、そのままのかっこうでいた。
もっと幼いころ、ここで遊んでいたときのように。
あの時と違うのは、私が自分の家を背にしていることと、首に男の手の圧力をいまだに感じていることだった。
祖母でも来ているのだろうか、母の明るい話し声が聞こえる。
いつもの生活は、壁の板一枚隔てた向こう側では普通に続いていた。
しばらくたって、私は土やささくれを払い、何事もなかったかのように家に帰った。

「先生はそのあと、男の人が怖くなったりしなかったんですか?本当に誰にも言わなかったの?」
教頭の話を聞いた高校生は訊ねた。
「ええ、ずっと誰にも言わなかった。
今だったら、叱られるでしょうね。
不審者情報を共有しなくちゃとか。
でも、そういうことを口に出せない人もいると思いますよ。
私は親にも言わなかった。
すぐそばに母がいるのに首を絞められ、助けを求めることができなかったことは、
小学生の私をどこか変えたと思います。
もちろん、怖かったからだと思う。
ただ、私は、怖いということよりも、誰も自分を助けることはない、ひとりなんだと感じたの。
わざと助けないというのではなく、誰も気づかない、そういうことがあるんだ。
自分だって、誰かを助けられないことがあるかもしれないと思った。
もうひとつ、私の場合はありがたいことに、男の人が怖くなるということはなかったわね。
その時は、もちろんそう思ったけれど、後々には影響しなかった。
ある程度、人生を生きていると、あれがきっかけだということって出てくるんだと思う。
でもね、そうであったとしても、それが影響だと思い込ませないことも大切だとは思う。
人生の分岐点っていうけれど、もっとたくさんあるんじゃないのかな。
私たちが気づいていないだけで。
気づいているところを、私たちは分岐点と言っているだけじゃないのかなって。
不思議なことにね、私はあの場所が嫌いじゃないのよ。
怖いことがあった場所でもあるけれど、幼いころのきれいな思い出が詰まっている場所としても残っているのよ。
それをありがたいなって思っています」

静かに話す教頭を、女子高校生は不思議な気持ちで眺めた。
いったい、何の話から、この会話になったのか自分でもはっきりしない。
たしか、注意を受けて教頭のところに行けと言われてふてくされてやってきたはずだった。
「へんな教頭」と言うのが、生徒たちの印象だ。
なぜ、へんなのかと言うと、教頭は先生に急用が出て代理で授業をすることがあるのだが、それが一科目ではない。
数学を教えたかと思うと、漢文を教えたりもする。
歴史を習った友達もいた。
知っているだけでも、4教科は教えている。
「小学校じゃないんだから、変だよね。教頭って、本当に資格を持ってるのかな。
この学校も怪しいよね」
訳知り顔に言う友達もいる。
複数の教科の教育免許を持っている人だって、中にはいるかもしれないと呼び出された高校生は思ったが、
口にはしなかった。
「あんた、あんな教頭、いいと思っているんだ」と面倒なことになるのを避けたのだ。
仲間内の付き合いも、案外むつかしいものだ。
下手に目立つとややこしいと、彼女は思っていた。
教頭に会いに行くと、自分がやったことに関して話すようにと言われた。
注意を受けることをやったのだから、こっちが悪いのだが、ああ、めんどくせえと思った。
はいはい、わかりましたと彼女は話し始める。
教頭は彼女の話を遮ることもない。
しかたがないから、女子高校生はずっと話し続ける。
やったことの何が悪いとうそぶいてみたものの、実際、話し始めると自分が何を言っているのかわからないことに改めて気づいた。
こんなことがあったからやるしかなかった、あいつが悪いからこうなったと言いつつも、
話せば話すほど、自分で矛盾に気が付いてくる。
教頭は静かに聞いている。
背筋を伸ばし、女子高校生を見ているが、表情はほとんど変わらない。

1時間以上話しただろうか、高校生は最後には自分にうんざりして口を閉じた。
「幼稚園のころ、どんな遊びをしていた?」と教頭が聞いた。
まったく関係ない質問に腹を立てて「憶えていません」と高校生は答えた。
こいつ、聞いていたのかよ、茶化しやがってと思った。
「そうか」と言ったあとに教頭が話し始めたのが、家と家のすきまの場所のことだった。
せまく、少し湿った場所に咲く白い花が、高校生の頭に浮かんだ。
白い花をその男がもぎとったようにさえ感じた。
自分がそんな怖い思いをしたら、どうなっただろうと高校生は考えた。
外を歩けなくなっていたかもしれない。
目の前に教頭がいるのに、女子高校生はひとりでこの部屋にいるような気持ちになった。
思わず首に手をあてる高校生を、教頭は静かに見ている。
気配を消してしまう雰囲気が、教頭にはあった。
生徒たちが担任をからかって、座席をすべて逆の方向に向けたいたずらをしたことがあった。
ホームルームで教室の戸を開けた担任が、生徒が自分に背を向けているのを見てドアを間違えたと勘違いしたことがあった。
生徒たちがわざと、逆の方向に座っていただけだった。
今度は後ろの戸から入り、子どもたちにいたずらされたとようやくわかり、担任は苦笑いをした。
生徒たちは爆笑していたのだが、苦笑いをしていたはずの担任が、誰かにむかって慌てて頭を下げている。
今度はこちらをからかおうとしているのかと思った生徒たちは、担任が話しかけている相手を見つけて驚いた。
教室には教頭がいたのだ。
廊下に面した窓際に、ジャージを着た教頭が静かに立っていた。
いつもより、なお一層痩せてみえる。
誰も気づかなかった。
ジャージを着た教頭は、「ああ、体育館の片付けの帰りです」
と何事もなかったかのように担任に言い、
「ホワイトボードはあちらです。日直は仕事を続けて」
と今度は生徒に言い、静かに教室を出ていった。
「気持ち悪い」とひそひそ話す生徒もいたが、なぜ、自分たちが気づかなかったのだろうと怖い思いになった生徒もいた。
女子高校生は、あの日の教頭を思い出していた。
やっぱりへんな教頭だと、彼女は改めて思ったが黙っていた。
教頭も含め大人は、自分たちとは同じ人間とは思えないくらい遠い存在だったが、会話は案外悪くはなかった。
「もうやらないことね」
教頭は最後に彼女に言った。
呼び出された高校生は、一応しおらしく頭を下げた。